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タイ料理屋に降る雨

細くて長い雨が降っていた。

私は雨に降られることを承知で傘を持参しなかった。
濡れた傘を持って電車に乗るのが苦手だからだ。他人に触れないように気をつけたり、自分の体に寄せて持って、自分の服が濡れたときの不快感といったらない。

しかし、生来の優柔不断のおかげで、傘を持たない私は結局雨に侵食されていた。
昼食のための店が決まらない。新宿三丁目の周辺を、ぐるぐると繰り返し歩きまわりながら、カレーでもない、カフェでもない、焼き肉でもないと悩みに悩んでいた。

歩き疲れたところで、ラーメンにしよう、と心が決まった。
今いる場所から近くて、できるだけ評価の高いところ。

グーグルマップを頼りに歩き始めたところで、「フォ、フォ、」といった音に呼び止められた。

音の方に顔を向けると、小麦色の肌をしたおじさんが、ニコニコと手招いている。

「フォー、ガパオ、トムヤムクン」

タイ料理屋の店員である。日本語が話せないのか、雨に濡れたメニューを指差しながら、料理名だけを繰り返していた。
私は判断をするのが嫌いだ。何かを決めたときの責任を自分で負いたくないのだ。ラーメンはもう止した。今日の昼食について、彼に責任を委ねることにした。

彼の顔を見て「ここで食べようかな」というと、彼は両手のひらを合わせてにっこり、「コプンカ」と言った。

奥の席に案内されると、日本語のメニューが渡された。

「フォ、ガパオ、トムヤム、カオマンガ、フォ、ガバポ、カボバア、フォ、フォ、フォー」

店員はメニューを指差しながら、料理名を早口で繰り返した。伝える気というものはおよそ感じられない。
フォ、フォ、フォ、の連続に急かされて、わたしは「フォー」の文字を探したがついに見つけられず、あの辛味と酸味を思い浮かべながら「トムヤムクン」とだけ言って彼の顔を見た。

店員は「フォ」と発語するのを止め、「トムヤムクン」と繰り返し、くるりと背を向けて厨房へ向かった。
注文してから、「やっぱりグリーンカレーにすれば良かったな」と後悔した。

店内は狭くて薄暗く、私以外に客は居なかった。聞き慣れない言語の音楽がBGMに流れている。タイ語であろう。
象の置物や、男性と女性の写真が飾ってある。その写真の前には、パイナップルがひとつ、丸ごと供えられていた。ナンプラーの独特のにおいがする。

店員はすぐ戻ってきて、黙ったまま、エンボス加工されたアルミコップを私の目の前に置いた。
私はそれを手慰みに、くるくると回したり、コップの縁に水滴を塗りつけ、なぞって遊んだ。

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呼び込みをしていたときの愛想の良さはどこへ行ったのか、彼は黙ったまま、私の前に出来上がった料理を置いた。「ありがとうございます」と声をかけても、「ワア、美味しそう」と言ってみても、自分に話しかけられているとは思いもよらない顔をしていた。

私は目の前のトムヤムクンを見て、自分が頼んだのが「トムヤムクンのフォー」であることに気がついた。


唐辛子と生姜の辛さが、舌の奥のほうと、唇と、空腹に染みる。
フウフウと冷ましたところで、辛さは変わらない。すぐに水を飲み干してしまった。


厨房からカチャカチャと食器のこすれる音と、咀嚼音が聞こえてくる。昼時である。店員も昼食をとっているんだな、と思ったところで突然、

「ゲェェ」

といった大きな音が響いた。ゲップである。

少々驚きはしたが、厨房での出来事。その姿も見えないし、彼も客前とは思っていないだろう。もしかすると私が知らないだけで、ゲップを人前でしない、という文化がないのかもしれない。

それからあまり間をおかずに、

「ゲェ、ゲ、ゲ、ゲ、ゲェゲェゲェ」

といった音が続いた。

不規則だった音はだんだんリズミカルに変わっていき、ついにはBGMの音楽と混ざりあっていく。
ゲェゲェといった低くて濁った音は、やがてキュルキュルといった高くて金属がこすれるような音色に変わっていた。

キュル、キュル、キュルキュルルル、キュルルルル、クルルルル。

私は目の前の食事があまりに辛いのと、恐ろしい気持ちとで、食欲を失い、箸を持つ手を止めた。
彼は、突然に狂ってしまったのだろうか?良くない何かを口にしたのだろうか?

好奇心に負けて、私は席を立ち、おそるおそる厨房を覗いた。
そこにはあの店員が、クルルル、と鳴きながら天井を仰ぎ、パイナップルを両手で掲げて踊り狂っている姿があった。

不思議なことに、その姿を見て恐怖心はパタリと止んだ。ただ彼が可哀想であると気づいた。
彼のために、私がその場ですぐにできることはなかった。

私はレジの前に千円札を一枚置いて、店を後にした。


相変わらず小雨が降り続けていた。
左手を見ると、アジアンテイストの小洒落た店があった。雨だというのに、ルーフのあるテラス席まで客がいる。若い女性客や、カップルが笑顔で会話をしながら食事していた。

それを見て、雨はまだしばらく止まないと確信した。
私はゲェゲェといった鳴き声があちこちから聞こえてくるのに気がついた。


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