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地方と蔵書、そしてその未来

ふと面白い記事を見つけました。

いわゆる地方の名士は「見せ本」として小難しそうな蔵書を自らのブランディングに活用している、それが地方書店の大口の客層であったという話です。

そういった名士層は今後消えていくでしょうけれども、地域おこし協力隊などで移住してきた移住者と、元からいた地元の名士層との認識の違いは非常に興味が惹かれました。

地方の名士層からしてみれば、地方でこそ東京よりもラグジュアリーな暮らしができるのであって、最近の移住者の思い描いているスローライフやミニマリスト的なものばかりが地方生活ではない、スローライフ的な生活やイメージを原住民に押し付けないでほしい、という点です。

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これを読んで感じたのは、文化資本と文化資本格差についてです。

文化資本とその蓄積、その結果としての文化資本格差について、常に東京をはじめとした大都市部が文化資本が高く、地方は低いという括りで語られがちです。

しかし大都市部の文化資本とやらの中身を見て見れば、美術館や博物館などの箱物的蓄積と、文化産業の仕掛ける資本主義的収奪のために作為された流行のいずれかであって、実のある文化資本と呼べるものは大都市部と地方ではそんなに差がないと言えます。

箱物的文化資本は旅行を兼ねて必要な時に利用すればいいだけであり、近所にある必要はありませんし、文化産業の商売なんてものには付き合う義理も必要性もありません。

そう考えると、大都市ではない地方でこそ、文化を蓄積するのに向いているとも言えるわけであり、実際にそれをしていたのが地方の名士層だったのでしょう。

文化として残るものは、ある程度の時代的普遍性(不変性)が求められるものであり、変化の激しすぎる現代の大都市部は却って本物の文化の蓄積には不利であるとも言えます。

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とはいえ、記事にあるような地方名士のようなあり方は、書店にとって大口顧客になるというだけであり、文化的創造力があるかといえばそうではない、だからこそむしろ地域おこし協力隊のようなものの方が創造力があるという皮肉な結論にもなっているのが現状ではないでしょうか。

なので、記事にあるような旧来型の見せ本名士に代わって、本来的な意味での、「生きた蔵書」を保有かつ利活用できる人が地方で生活と文化活動の基盤を作るという方向性にシフトしていけば、地方は新たな文化の発出源となるでしょう。

特定の一つのやり方ではなくいろいろなアプローチがあるでしょうけれども、私が得意とし、かつやろうとしているのが、「哲学者の庵」を山中に築くこと。

そして可能であればどこかの潰れかけたFラン大学を買収して、学問の府となるべく機構から運営まで魔改造してしまうことができれば上出来だと考えています。

いずれにせよ、見かけに惑わされずに文化の実質を見る目を養うことが大切ですし、そうすることで思いもよらぬ可能性が見えてくることがあるということです。

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