セオリー・定石を自分で試し、カラダで納得することの大切さ

こんばんは。

最近、久しぶりにプロゲーマー・梅原大吾氏の『勝負論』を読み返しています。

時間が経ってから読むと、最初に読んだ時とは異なる発見があり、その間に研鑽を積んだことでより深く理解できることがあって、とても貴重な学びをしています。

さて、セオリーとして、一度、観念的自己疎外されているものについて、単に「はいそうですね」と受け入れてスルッと上達するのは、たしかに上達も早いですし、一見いいことのように思いますが、実はそこに落とし穴があるというのが、今日読んだところで特に響きました。

セオリーや定石を徹底的に疑い、いちゃもんをつけて逆らい、この場合はどうか?本当にそうなのか?と、あーでもない、こーでもないと壁にぶつかりまくって怪我しまくって、そうやってあらゆる角度からセオリーや定石などを試して自分のカラダで納得して上手くなると、突き抜けた後のバリエーション、引き出しの数が、スルッと上達した人では及びもつかないほどの膨大なものになり、ちょっとやそっとでビクともしない優位性をもつことができます。

これは、ゲームだけでなく、武道武術、芸術、果ては恋愛なんかにも同じ事が言えるんじゃないかと思います。

見方を変えると、このような学びこそ、アリストテレスが自分一人でやった「滅ぼし合う対立物の統一=闘論」の実践形式なのではないかと思いました。

だから、私も今までのようにスルッと覚えることから突き抜けて、セオリーや定石を徹底的に試し尽くすことをやっていくことにします。

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