初詣したくない人はしなくていいんじゃない?

いや、まあ、わざわざキリスト教徒ではないのにクリスマスミサに出なくてもいいように、初詣したくない人は初詣しなくていいんじゃない?ということで終わってしまう記事である。

ちなみに政教分離については政教分離であるからこそ神社庁が直接政治活動してはいけないわけで、だからこそわざわざ別組織を作ったために神道政治連盟があるのではないか。

それに納得できないと、宗教者は政治に口出しするなという話になれば無神論者以外は参政権を剥奪しなきゃならないわけである。無神論が一種の宗教なのではないかという議論はさておき。

まあ、日本で言うと後白河法皇が「賽の目と鴨川の氾濫、叡山の僧兵だけはコントロール不能」といったそうだけれど、叡山の僧兵が強訴して無茶を通すと言うのが政教分離がなされない姿である。

左派の人が「多数決なんてクソ!よく議論して左派の意見だけを通すのが民主主義であって、右翼とかネトウヨは選挙権はあるけれど政治的無権利者にすべき」と言っているのがまあ、この叡山の僧兵と同じ話になる。

いや、そりゃ、多数決には低学歴やニートなども参政権を持ちうるので必ずしも最良の選択を選べない可能性があるわけである。実際、オストラシズムの問題もあるし、古代ローマでは人気を得たカエサルが終身護民官となり、そこから共和政ローマが帝政ローマに変わっていったということもあるわけである。

じゃあ少数の例えば東大理科三類の連中だけに政治の権利を与えて全てを決めさせれば良いのかという話になると、そりゃ我々愚民のバカに比べればカッコのいいことを言うかもしれない。けれども、彼らが私利私欲に走ってしまえば誰もその暴走を止められないのである。

叡山は当時の最高の知の集積である。けれども、そこが力を持ちすぎて欲望まみれになるとかえって副作用が大きくなる。フランス革命の時だって第一身分であるキリスト教会は知の集積であった。けれども彼らがその知を自らの欲望のために使ったからこそ多くの人が困ってしまい、バスチーユ牢獄の襲撃に至ったのではないか。

じゃあ、知識人を殺してバカばかりの楽園を作ればどうなるか。それを実践したのがポルポトのクメールルージュであろう。あそこは教師や医師など知識人階級を皆殺しにしたのである。

そういう国は共産主義の楽園になるかと思われたが決してそうはならなかった。メコン川流域の肥沃な三角地帯の回復を求めて無謀にベトナムに侵攻して負けたわけである。まあ、無茶苦茶したポルポト派は政権から追われてしまったわけである。

なので、バカばっかりになるとそれはそれで良くないので賢いやつを気に入らないから排除するというのは愚かな選択だし、だからと言って賢い奴らが専横を極めるのもよくない。だからこそ全ての有権者が同じ一票を持つという制度にするのが一番副作用が少ないということなのだろう。

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