男も女もないーは言うは易く行うは難しである

しばしば左派リベラルやフェミニストは「人間、男も女もないんだ」っていうけれど、それは逆説的に性のエネルギーの大きさを認めているということでもある。仏教のそもそもの動機は生老病死という四苦を解決しようというものだった。この四苦のうち生を起こす元が性のパワーである。ゴータマ・シッダールタはカピラ城の王子であった。父王はゴータマが嫁さんを娶ったら出家を諦めて王子に、自分の後継に復帰するはずだと考えた訳である。それで、絶世の美女であるヤショダラ姫を嫁さんとして連れてきて結婚させた。姫は玉のような王子を生んだが、ゴータマはそのことで余計に悩み苦しみ、自分の息子にラフラーという名をつけたそうである。ラフラーとは「障害物」という意味であるらしい。結局、ゴータマは嫁さんと息子を捨てて出家し、悟りを開いて仏教を開いたということである。

その点でいえばイエスの方は独身であったようだからもっと気軽に見える。マグダラのマリアは娼婦であるともイエスの妻であるとも言われるが、特に遠ざけられていることもなく、むしろ、周囲のユダヤ教の坊さんが娼婦を非難・断罪するのに対して、娼婦を救い、赦しているように見えるわけである。キリスト教に禁欲主義が入ったのはイエスの死後であったのかもしれない。中世のキリスト教はメメントモリなどの言葉に表れているように、禁欲主義の様相を示していたのではないか。イエスも「金持ちが天国に入るのは針の穴を通るよりも難しい」なんていっていたが、死を想えとまでは言っていないように思うのである。(これは門外漢にはよくわからない)

いずれにせよ、仏教もキリスト教も禁欲主義を内包している。キリスト教も仏教も本来的には男も女もないはずである。けれどもカトリックの長はpopeつまり父と呼び習わされた。仏教も見る限り偉い人は男である。また、カトリックでは教会に少年合唱隊を置くところがあるが、そこで性的虐待事件が明るみに出たことがある。仏教でも例えば琵琶湖畔の遊郭では王城守護の大伽藍を守る高僧たちがしばしば遊んでいたということである。

そう簡単に「男も女もない」という状況はやってこないのである。これを聞くとフェミニストの皆さんは「悪いのは男」と叫び出すであろうから、別の例を挙げると、仏教では、ゴータマが悟りを開いてブッダとなったあと、最初に弟子になった一人にヤサという若者がいた。この男は金持ちの商人の後継で、御曹司であった。もうインドの金持ちであるからハーレムには美女だらけ。何不自由なく生きていたのだが、あるとき、ゴータマのように生老病死の苦しみに囚われて仏門に入ったということである。彼は信心篤く、熱心に修行をしたため早々に悟りへの道を歩んだが、何しろ、大商人の御曹司である。しかも、美男であった。今でも美男子のことをヤサ男というが、それはこのヤサが語源であると言われているくらいである。ヤサが出家したと聞いた周囲の女性たちは我先に出家して比丘尼となり、ヤサの歓心を買おうとしたそうである。ヤサはそれでは修行ができないと、自らの顔に泥を塗って彼女たちから逃れざるを得なかったということである。


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