責任はチャレンジだし、それに対応する給与を求めることも当然のことである。

これはアリだと思う。
例えば女性が軽く見られるという話があっても、男で軽く見られない人がいるかというとそうでもないのである。私などは散々に馬鹿にされ、人間扱いされないのである。けれども、フェミニストの皆さんにとっては「男は大きいので得」とか「男だから優遇されている」という先入観で語られることが多い。

で、ダイバーシティというと、男より女性を優遇すべき、男には別に死んでもいいじゃないと理不尽に試練を与えるが、女性の方々には特権的に優遇を与えましょうという話になる。それではいつまでたっても男女平等もジェンダー平等もこないのである。

アイビーリーグの大学では特定の人たちに加点して優遇して入学させるという制度がある。それでアジア人が理不尽に割を喰っているという裁判があったりする。けれども、もちろん、その中で優遇されて入学してから頑張って優秀な成績を残す人もいると思うのだけれど、それでやっぱり成績が振るわないと「あの人はアファーマティブアクションで入った人だから」と言われてしまうそうである。

女性も確かにガラスの天井とかに返り血を浴びて立ち向かった人もいるに違いない。そして血まみれになりながらもガラスの天井を突き破って次のステップに行き、チャンスをものにして成果を上げて称賛を得た訳である。で、多くの女性はそれを見て尻込みしてガラスの天井なんて怖いので挑戦しませんというようである。怖いのはガラスの天井というよりその後のチャンスなのではないか。「あなたには特別にガラスの天井を外してあげます」と言われたとしても、結局はその後にはチャレンジしなければならない訳である。そこはゴールではなくてスタートラインなのであるから。

エンパワメントということであれば、チャレンジすることであって、失敗してもめげずに頑張るという姿勢なのであろう。企業にしても、役職につけるということはそこで活躍してもらうという期待があるからで、ただひたすらにその席を守るだけの人は不要であろう。

ただその席に座って周囲からの賞賛を受けるということであれば、それは人形の家にいることと変わらない。人形の家の人形達はただその場に座っているだけで周囲の人が称賛してくれるリスクのない場所であろう。けれども、ノラはそこから自ら出てゆくことを決断したのである。だからこそのフェミニズムではないか。

今の日本ではむしろ人形の家に住まわせろ!と叫ぶフェミニストがわんさかいるような気がする訳である。いや、もうそれってフェミニズムなの?って感じである。今の私にはフェミニズムと保守主義の区別がつかないのである。そりゃ性加害を防ぐには人形の家で安全に飾られていれば一番いいではないか。サン=テグジュペリの星の王子さまに気位の高い花がいて、王子様はガラスの瓶で風から守ろうとしたりしたが、王子様が地球に行く時には「そんな風なんかには負けません、大丈夫です」と言った訳である。これこそが自立、自主性ではないか。

フェミニストでももっと前の、例えばピルとの付き合い方の人などは「ピルでSTDが予防できます」とか妄言を吐いてびっくりしたことがあるが、それでも、女性の自主自立を主張されていたと思う。なので意見は違ったが尊敬はできたのである。今のフェミさんやツイフェミさんはそりゃ確かに「専業主婦反対」とはいうけれど、じゃあ責任を持って専業主夫として夫を養うの?と聞くとそんなのないないって否定されるし、結局は格好をつけながらいかに自分を守ってもらうかに全力を尽くしているようにしか見えない訳である。

そういう人たちのいうアファーマティブアクションには現実性が乏しいし、単なる依存じゃないの?としか言えない印象しか受けないのである。

そうではなくて、日本の女性にももっと自立して自主的に様々な活動をしてほしいわけでそのために仕事への責任とそれに対応する給与を求めることについては大賛成である。

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