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夫婦別姓と離婚後単独親権の意味するところは似ている

夫婦別姓を目指すことは日本に何をもたらすかである。夫婦別姓にしたときにまず問題になるのは子供の姓であろう。女性たちはそんなのどっちでもいいじゃない!父親は親なのだからお金を出せばいいのよ!と叫ぶことであろうが、家族の符牒として姓は重要である。

子供が母親の姓を名乗るならばもう父親との縁は切れかけになる。これは母親が子供を十月十日胎内で育てることで自然にその絆を育むのに対し、男は交尾の時に精子を放出するだけで終わるからでもある。受精だって男の意思とは関わりなく精子が頑張るだけである。その結果妊娠したと言われても本当にそれは自分の子?という疑念は常に付きまとうわけである。

父親と子供は母親と子供と違ってそこまで距離がある、遠い存在であるわけである。だからこそ、状況証拠的に間違いなく自分の子だろうというところでも男は逃げたくなるわけで、フェミニストたちが「強制的に遺伝子検査をして父親に金を払わせろ!」と叫んだり、某前明石市長が「悪質な元父親、非親権親の別居親である元父親が養育費を支払わないというなら刑事告訴してやる!」と絶叫しなければならないわけである。

心が冷めた私などはそりゃ検査するのはいいけれど、検査の結果、父親が別人だったらどうするんだろうとか思ってしまうのだけれど、正義のフェミニストたちにはたとえ検査などしなくてもその子の父親が誰なのかピタリとわかってしまうという超能力でもあるのだろう。

恐らくはそこでもう男女の感覚は違ってしまうのである、女性には自分の子供が我が子であるという実感が300日もあるわけであるが、男にとってはいくら接近してもそれは妻の皮膚の向こうにしか存在しない。

そこで夫婦別姓である。もう姓すら違うことになると男にとって心理的な距離感はずっと遠くなってしまうだろう。子宮を通じて母子は繋がっているのだろうけれど、父子の関係はもっと遠いのである。いや、結婚すら現実的ではない20代くらいの男の子ならママとの繋がりが強いから夫婦別姓でも自分とママとの姓は同じだし繋がりは絶たれないよねという気分で賛成するかもしれないけれど、夫婦はママと僕ちゃんではなくて元々はお互い他人同士なのである。

お互い他人同士なのだから元々葛藤は高くて当たり前なのである。その葛藤をいかにコントロールするかというのが夫婦であるが、もう葛藤が高ければ離婚しましょう、離婚は(現実問題としてほぼ母親の)単独親権であり、母子の世界になる。父親は不要の世界になる。というか父親は現金ということにしか意味を見出されなくなるわけである。

養育費を支払おうとも当然のこととされて面会交流もまともに行われないのが日本の離婚であろう。というか母子関係を考えれば元々他人である元夫には金以外に求めるものなどないわけである。養育費をもらわない理由の半分くらいが(妻が)もう夫とは関わりたくないという理由であるのが日本である。

夫婦別姓も女性としては夫の姓など重要ではない、それより自分の姓こそ重要なのである。夫はただ金を貢ぐ奴隷としての存在に過ぎないという構造があるということであろう。これは離婚ではもっと明確になるわけである。

男だってただ金を貢ぐだけの奴隷にはなりたくないであろう。けれども夫婦別姓を叫び離婚後単独親権絶対維持、面会交流の廃止を叫ぶ人たちの本音を突き詰めればそういうことになってゆく。人間としての男は不要であるわけである。

そういうことが明らかになってゆくともう未婚率が上昇するのもやむを得ないであろう。わざわざ自分が不利になる結婚をしたがる男性は減ってきているということである。多くの女性は「バカな男は結婚したがるけれど賢い女性は結婚など拒否よ!」って言いたがるけれど、現実には生涯未婚率(50歳時に一度も結婚したことのない人の割合)は男性の方が女性よりも10%ほど多いわけである。男をより結婚させないようにすれば結婚できなくなる女性ももっと増えることになるが、女性たちはこのチキンレースをやめるつもりはないように思える。

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