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芸術と現実

エゴンシーレ展に行ってきました。
近くに用事があってなんとなく気になったから、予備知識もなにも無いまっさらな状態で挑みました。
エゴンシーレの名前も初めて聞きました。恥ずかしいね、


《悲しみの女》が印象的だった。
大きな目を潤ませながらも、しっかりと見開き、俯かず、正面を向いて微笑んでいる、威厳に満ちた悲しみの表情が芯の強さを感じて好きだった

《悲しみの女》

モデルは当時のシーレの恋人であったヴァリー・ノイツェル
後ろの男性はシーレ本人だと言われている。
他の作品と異なるのは、互いの持つ髪の色などの特徴が入れ替わっていること
個人の確立ができておらず二人の境界線があやふやになっているのがよかった。

この絵に限らずヴァリーをモデルにしているもの、ヴァリーと交際している期間の作品が特に好きだった。
(ヴァリーがものすごく好きになってしまったので今度この子だけのことを書きます。絶対に)

ヴァリーとの別れと別の女性との結婚を境に、
鮮烈で緊張感のあるどこか不穏さを感じる作風から穏やかなものに変化している
これが、少し悲しかった。

芸術を志す者にとって
「創作意欲を掻き立てられる人」と
「一緒に人生を歩みたい人」は一致しないのだろうか。必ずしもそうではないと思いたいが、もしそうなのだとしたら悲しい。
この2つを一言にするなら、破壊と安定だと思う

内面の破壊が芸術を産んでいる思う。
才能と引き換えに繊細さや今にも消えそうな人が多い(気がする)のもそのせいかもしれない。
破壊をする為にはなんらかの刺激や、触発、関わりが必要。
そして破壊が終わって成功したあとに安定を求めるのではないか
刺激や着想を与える自分に似た壊れた人間よりも
正常でいい意味で平凡で、現実を生きていて、自分とこの世を繋げてくれる人間を求めるのかもしれない。

私にはわからない。
誰かに繋ぎとめてもらわないと居られない現実より、常人に理解出来ない世界で生きればいい
破壊故の葛藤をしたことがない人と平穏に過ごすよりも、壊れた者同士で破滅に向かった方が心強い。
理解を示しても実際に経験がないのなら、どこかで歩み寄る限界がくる
本当の意味での理解者が居るのなら、世界に繋がれずに大気圏を越えて宇宙に投げ出され塵になっても、それでいいと思う。


芸術も破壊も現実もよくわかってないから言えることなのかもしれないけれどね。
また行きたいなぁ。

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