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推しが結婚したのにロスになれなかった話

推しは世界に祝福される


推しが、結婚を宣言した。

その推しとは、星野源さんである。
このニュースは瞬く間に各メディアに取り上げられ、冗談抜きで世界中が祝福したかのようだった。

私はここ6年間ずっと星野源という人を推しまくり、ありとあらゆる方向にその好きを叫びまくっていた。
家人いわく「狂っている」そうだ。
まあ実際そう言われても仕方ないほどの熱量だし、自分でもその自覚はある。

それなのに、私はこの結婚を心の底から喜んでいる。
俗に言う「ロス」になっていないのだ。

周囲からは面白いほどに「大丈夫?」「息してる?」「生きてる?」などと心配されている。
それなのに全くそんな心情じゃないものだから、いっそ心配させてなんかごめん…と思う。
そのままその気持ちを伝えるものの、一部にはそれが痩せ我慢だと思われている節さえある。
いや違うんだ、本当に嬉しいんだってば。

そんなやり取りを繰り返しているうちに、ふと私は心配になってきた。
これはもしかして、私の推しに対する愛が足りないということなのか。
普通に喜んでしまうことは、もしかして薄情なことなのか。
ロスにならないままで、私は「推しを推す生活」を続けていいのだろうか。
そんなことを結婚報道からずっと考えている。




ロスになるはずだったのに


そしてふと、思い出したことがあった。
私は実際、源さんが結婚したらロスになるであろうと想定していた。
それは過去に私自身が「結婚報道からのロス」を経験していたからだ。
その人物は2人いた。
一人は小室哲哉さん、そしてもう一人は福山雅治さんだ。

小室哲哉さんの結婚報道は確かKEIKOさんとの時だったと思う。
とはいえ彼自身が恋多き人物だった。
それまでの恋愛遍歴の段階で既に色々と諦めモードでもあったので、まあ哲ちゃんだしな…と熱が冷めた。

そして福山雅治さんの時はご本人もお相手も非の打ち所がなくて、ぐうの音も出なかった。
けど見知った「福山雅治」という人がどこかに行ってしまうようで、結構寂しい思いをした。
そうは言いながらも福山さんは今も好きだし、テレビで見かければ注目してしまう。
ただ以前よりもときめくことは減ったし、ドキドキすることもなくなったと思う。

…と、こんなに「ロス」を実感していたのだ。
ちなみに「好き」バロメーターがあるとしたら、現在の「星野源」に対する数値はこれまでの5億倍くらい高い。
家人に狂ってると言われるだけあって、桁が違いすぎる。
そんな状態だもの、そりゃあロスだって相当なものでしょうと覚悟していた訳だ。
正直、仕事を休んじゃうとか寝込むとか、それくらいの覚悟だった。

それなのに。
私は、ロスになれない。
これは一体どういうことなんだろうか。

向き合ってみるしかない


さすがに自分自身が分からなくなり、自分の心と向き合うことにした。
「心と向き合う」というのは、実に不安なものだ。
それはどうしたって綺麗なものばかりじゃないし、時にはドロドロした欲とも対峙する事になる。
普段は無意識で隠しているような感情も見えてくるから、割とストレスになることも多い。
けれども今はその向き合うストレスよりも、薄情な自分への不信感のほうがストレスだ。
重い腰を持ち上げて、ゆるゆると自分の気持ちを紐解いていく。

福山さんの時が、一番分かりやすかった気がする。
その時の感情は「未来への不安」だった。
それまで形作られてきた「福山雅治像」がどうなってしまうのか、先が真っ暗になるような不安があった。
ここまでに歌われてきたラブソングが、全て家族愛になってしまうのではないか。
もうラジオで「艶福ネタ」を聴くことはなくなってしまうのだろうか。
そんな不安が、心の中にどんどん膨れ上がっていったように思う。




推しを分析してみた


さて、それでは源さんに対してはどうだろうか。

これまで自分は「星野源」という人を見てきた。
そこで見えてきたのが星野源という人の「孤独」であり「狂気」だった。
そもそも私が源さんを好きになったきっかけが「ばらばら」という曲だった。

>>世界は ひとつじゃない
>>ああそのまま ばらばらのまま
>>世界は ひとつになれない
>>そのまま どこかに行こう

それは自分がずっと感じていた「孤独」そのものだった。
たとえ友達ができても、恋人ができても、結婚しても、家族が増えても。
ずっと自分の中にあるのは「孤独」だった。
それを言うことはきっと親しい人への裏切りだと思ったし、それまで決して口にすることはなかった。
けどこの楽曲は、そんな心に寄り添ってくれた。
優しい曲調で、この狂った孤独感を包み込んでくれる感覚は何とも言い難い心地好さだった。
この曲がどれだけ救いになったか、どれだけ言葉を紡いでも足りることがないと思う。

その楽曲はもう10年以上前に発表されたものだが、今もその「孤独」は源さんの傍らにずっと存在している。
最新曲「不思議」でもこんな歌詞が歌われている。

>>孤独の傍にある
>>勇気に足るもの

こんな孤独を語りながらもなお、この楽曲は心にふわりと沁み入る最高のラブソングなのだ。

2021年2月に「マツコ会議」という番組に源さんがゲスト出演したことがあった。
その時に語られたのも「孤独」だった。
東京ドームを埋める観客の声援を受け取りながら、自宅へ帰って回る洗濯機を見続けながら「孤独」と向き合う源さん。
その一方で「孤独って人がいないとできない」と語る源さん。

そんな東京ドームライブの話を、自身がパーソナリティを務める「星野源のオールナイトニッポン」でも語っている。
種々色々あって源さんがセンターステージで寝転がるシーンがある。
その時の様子を「(見える景色は)真っ暗)」とコメントしていた。

この「孤独」は、もしかしたらもう埋められないのかも知れない。
けれども、その「孤独」に共に寄り添ってくれる人がいたのなら。
回る洗濯機の前に「おかえりなさい」と言ってくれる人がいたのなら。

我が推しは、きっと嬉しいんじゃないか。
そう思ったのだ。




もう一人の推し


一方で、私は新垣結衣ちゃんも好きだ。
とはいえ源さんほどディープに生態を追いかけていた訳ではない。
それでも、時折見えてくるその生活は面白かった。
「自宅でじっとテレビを見ている」「おつまみは作る」「酒のペースは古田新太さんと同じ」「ひたすら寝る」と共感しかない。
そんな話を聞いていると、結衣ちゃんは意外と「孤独」を楽しめる人なのかも知れない、と思ったりしていた。

あくまでいちファンの勝手な妄想だが。
「孤独」を「孤独」として受け止められる2人が、星野源と新垣結衣なのだと思ったのだ。
もちろん結婚したら、お互いに助け合って寄り添っていくのだろうと思う。
けどあの2人なら、どんなに寄り添っていてもお互いの「孤独」を尊重してくれるんじゃないだろうか。
そんな勝手な思いが、なぜか心の奥底にあった。

そんな訳で今回は「未来への不安」がそもそも存在しない。
むしろ私が持っている妄想ビジョンは「2人の未来への安心感」なのだ。
好きが過ぎるとこんな感情になるのか…と、私自身が一番驚いている。





祖母なのか盟友なのか


たぶん、お二方は変わると思う。
その変化は、きっと良い方向への変化だと思うのだ。
根拠はきっと「推しを推し過ぎて、いち個人として幸せになって欲しい」という、もはや祖母の感覚だ。
たぶんお二方にお会いしたら、私は飴ちゃんとお小遣いををあげたくなるに違いない。

いや、これは祖母じゃないのかも知れない。
もちろん飴ちゃんはあげたいけど、どちらかというと盟友なのかも知れない。
それぞれが人として「普通」で、だからこそ近くて遠い。
きっと源さんは音楽業や俳優業、文筆業で世界を相手に生活していくのだろう。
そして私は、自身の家庭や仕事を相手に生活していく。
全く規模も違うし内容も桁違いだけど、何かを乗り越えて生活していくことに変わりはない。
源さんが楽曲製作で頭を抱えている時、私は半額で買ってしまった巨大な大根をどう料理してやろうかと頭を抱えているだろう。





距離があるのだと知ってなお


そんな感情でいられるのはきっと、ファンに対して分かりやすく手を差し伸べてくれた源さんのおかげだと思う。
「孤独」を抱えたまま、その「孤独」と向き合い、それでも「一緒に楽しもう」と声をかけ続けた星野源ならではだ。
もちろん私だって、源さんにときめきを感じたり、ドキドキすることはある。
むしろ現在進行形でそう感じることは、多々ある。
けれどもそれは同じ「孤独」を抱えるひとりの人間であり、そこにはしっかりとした距離がある。
距離があってなお、「孤独」であってなお、楽しむことはできると源さんは教えてくれたのだ。
だからどれだけエロくても、どれだけ色気駄々漏れでも、こちらは「星野め…!!!」と叫びながら安心して悶絶するのだ。

程よい距離感と、常にある「孤独」。
それが、私をロスにしなかった原因なのかも知れない。
そもそも我が推しは、遥か遠いのだ。
手を伸ばしても届かず、触れることも言葉をかけることも叶わない。
せいぜいライブで同じ空間にいるのが関の山。
しかもこの情勢だ、最近ではそれすら叶わない。

そこに関して、私はとうの昔に絶望していたのかも知れない。

けれども、私は推しの深い狂気と孤独に惹かれた。
だからこそ推しが誰かと共にいることを喜べるし、距離があることを受け止められた。
配信ライブでモニター越しに「画面越しでも、別にいいじゃん!」と叫ぶ推しに、結局は励まされて笑いながら涙するのだ。
だって、音楽は届くのだから。
その言葉は聴こえるのだから。
演技も文書も、受け取ることができるのだから。

…なんだか、私はずいぶんと面倒くさい生き物だ。
自分の心をざくざくと耕しながら、思わず苦笑した。





そして生活はつづく


私は星野源を推している。
けれども、ロスにはならなかった。
失うものは何もなかった。
むしろ楽しみが増えた。

そしてこれからも、星野源という人をそのまま推していくのだと思う。
願わくばこの先々で妻となった結衣ちゃんとのノロケ話を聞きたいし、細野晴臣さんのように素敵な歳を重ねていって欲しい。
そんな幸せに溢れた源さんの活動を命あるかぎり見つめていきたい。
面白いことを追いかけていきたい。

だから私は、続く生活が待ち遠しい。
そのために私は生活していくし、推しへの課金に勤しむし、メディアチェックにも全力で取り組むのだ。

…ああ、結局はいつもどおりの生活だ。
それなら安心だ、こんな感じで昨日も一昨日も生きてきた。
そして明日も明後日も私は続けるのだろう。

この「推しを推す生活」を。

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