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遠き明日への子守唄のレビュー:物語体験を耽溺する叙情的な傑作

こんな人に特におすすめ:感動的な物語を体験したい人

マーダーミステリーは「没入感」、「個人戦」、「論理的な推理」という異なる要素が組み合わさったゲームジャンルであり、それゆえに同じマーダーミステリーというジャンルを名乗っていても、まったく違ったゲーム体験の作品がいくつもあります。犯人を探しつつも個人目標の達成の最大化を目指す作品、客観的な証拠と事実から緻密に築き上げた推理で犯人にたどり着く作品、殺人事件の裏に隠された謎を解き明かす作品と、楽しみ方はそれぞれ異なっています。
その中で「遠き明日への子守唄」は"イマーシブ・マーダーミステリー"と名乗っている通り、没入感とそれによる物語体験に全振りした作品となっています。

簡潔に説明するのであれば「エモさ全開ストーリーが楽しめる作品」です。

没入感、物語体験という点でマーダーミステリーがほかのエンターテイメントと一線を画しているのは、「1つの物語を参加者が共に紡ぎあげる」点です。
映画やアニメ、マンガ、小説、ゲームなどのエンタメにも、終えた後に「語りたくなる」作品というのはいくつもあります。しかしそれらの体験は作品と読者が1対1で向き合っているだけであり、読者同士が同じような体験はしていても、個々人の体験の中に他の読者は介在していません。
またゲーム以外の非インタラクティブな作品においては、読者が物語に介在する余地もありません。始まる前から終わりが決まっています。

脱出ゲームは参加者が1つの目標に向かうという点で近しいのですが、ストーリー性がそれほど強くありません。中にはストーリー性を厚くした作品もあるものの、あくまで脱出ゲームという出自ゆえに謎解きが主で物語体験は従となっています。
また謎解きという性質上、リニアな展開になっていて、プレイヤーによって展開がまったく違うということもありません。
TRPGはまさに「1つの物語を参加者が共に紡ぎあげる」ゲームジャンルではありますが、自由度が高すぎることがかえって仇になっています。誰がプレイしても短時間の中で安定的に良質な物語体験を提供できるかというと、難易度は相当に高いです。

もちろんマーダーミステリーだからといって、どの作品でもつねに叙情的で没入感が高い物語体験が提供されているわけではありません。それは冒頭の三要素のどれを重視しているかに拠るからですが、「遠き明日への子守唄」はほぼ「没入感」にのみフォーカスしています。
そして単に作品の世界に没入できるだけではなく、体験できる物語が非常に叙情的に設計されています。悲劇は古代ギリシアから連綿とした歴史があり、本作においても物語を悲劇たり得るための要素が踏襲されています。
だからこそ作品を終えたときに1つの物語を参加者が共に紡ぎあげたことを強く実感できますし、紡ぎあげられた物語に感動できます。

本作もマーダーミステリーなので殺人事件が起こりますし、犯人探しもありますが、犯人にたどり着くための推理はそれほど複雑ではありません。むしろ容易な部類に入るでしょう。
個人ミッションも用意されていますが、ミッションの達成が目的というよりはゲームを前へ進めるための動機であり、ドライブさせるための手段でしかありません。

その意味では、「物語は重視していない。それより犯人をロジカルに導き出したい。あるいは他人を出し抜いて個人ミッションを成功させたい」という人にはまったく向いていない作品です。
しかし「叙情的な物語を味わいたい。自分の手で物語を紡ぎ出したい」という人にとっては、そのために不要な要素が削ぎ落とされている分、ベストマッチな作品といえるでしょう。

物語体験をより情動的なものにしているのは演出です。舞台役者兼シンガーソングライターという作者の出自が存分に活かされています。
音楽が人を動かす力を持っていることは歴史を紐解くまでもなく、今さら強調することでもないでしょうが、音楽の力をあらためて感じさせてくれる作品です。

作品としてより完成度を上げるとしたら、エスカレーションが偏りすぎている点が挙げられます。
作品を三幕構成で弁証法的に表すとしたら、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼという構成になりますが、この3つの時間配分が悪くてエスカレーション(盛り上がり)が指数関数的に極端に後ろへ偏っています。
「ランドルフローレンスの追憶」や「コスモマーダーグランドホテル」、「狂気山脈」といった優れた作品はバランスが整っていて、本作もちょっとした修正でバランスを整えることができます。
それによってクライマックスがもっともっと感動的になるポテンシャルを秘めているだけに残念です。

とはいってもここまで没入感と物語体験を重視したマーダーミステリーはほかになく、「遠き明日への子守唄とは情動的な体験である」と言い切れます。

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