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クリエイターズハイのレビュー:極北の作品 -幼年期の終わりに-

クリエイターズハイのテーマは力強く、シンプルです。
「マーダーミステリーは誰のものか」、「マーダーミステリーとは何か」の2つです。
エンタメ業界や美術史を紐解くと、これらは目新しいテーマというわけではありません。ただ現代マーダーミステリー史が丸2年を迎えたこの時期にこうしたテーマの作品が出てくることは、現在のマーダーミステリー業界にとって象徴的なことです。

しかしこれら2つのテーマを読み解く前に、そもそも本作がマーダーミステリーなのかどうかを検証します。
なにしろ「This is not マーダーミステリー」と謳われています。

結論からお伝えすると、「クリエイターズハイ」は紛れもないマーダーミステリーです。
世界観やギミックは一風変わっていますが、プレイヤーは個々の登場人物を演じますし、犯人探しが主題で論理的に導出できるようになっています。
ではなぜ「マーダーミステリーではない」というキャッチコピーが付けられたかというと、万人受けする作品ではないからでしょう。マーダーミステリーのディープなファン、かつ目新しいものが好きというごく限られた層に向けた作品です。
マーダーミステリーに慣れていない人はただただ大混乱を引き起こして終わるでしょうし、スタンダードなマーダーミステリー好きは変化球すぎてまったく楽しめない可能性があります。
一方で本作の世界観を受け入れられる人であればこんな作品もありうるのかという驚きを味わえますし、混乱そのものを楽しむことができます。

ほかのマーダーミステリー作品が見習うべき王道ではない邪道な作品ではありますが、邪道だからダメということではまったくなくイバラユーギ氏らしい作品です。
「どんなに王道であっても、オーソドックスは知性の墓場である」という言葉がふさわしいでしょう。

とはいえ、邪道を前提にしても気になる点はあります。それは冒頭の演出が不十分であることで、それゆえに不必要な混乱を生んでいます。
この作品の面白さの1つはカオス(言い換えるならワチャワチャ感)ではあるのですが、冒頭の不親切さが没入のハードルを上げていて、本来の楽しみへ行きつくのを妨げています。
紛らわしいのですが、幕開けの混乱はこの作品が本来持っているワチャワチャ感とは似て非なるものです。
脱出ゲームでも類似な体験の作品はありますが、そちらはもっとスムーズな導入が用意されています。

「マーダーミステリーは誰のものか」は「作品は誰のものか」に置き換えると有史以来の問いになります。
芸術全般であれば、作品は長らく宗教団体や王侯貴族といった権力者、パトロンのものでした。市民社会や資本主義社会が成立した後でもそれは変わらず、身近なエンターテイメントであるアニメやデジタルゲームも金主(法人や出資者)のものというのが厳然たる現実です。
有名クリエイターであっても自分のやりたいこととクライアントの意向とのせめぎ合いはつねに生じています。ダヴィンチしかり、モーツァルトしかり、宮崎駿しかりで、下部構造から逃れることはできません。

マーダーミステリーはこれまで資本主義的なくびきとは縁遠く、作品は作者のものでしたが、それはポスト資本主義な構造だったからというよりは趣味の領域だったからです。
趣味の世界では資本主義の命題は至上のものではありません。面白い、珍しい、ユニークといった価値観が幅を利かせます。

では"作者のもの"でなくなった(=趣味的な価値観が至上のものではなくなった)ことでマーダーミステリーが地に堕ちたのかというと、そのように捉える人は出てくるでしょうが、むしろ次のステージへ進んだと受け止めたいです。
個人の余技がまがりなりにも経済活動へ組み込まれたということです。

「好きなものを好きなように作る」という観点では大きく制限を受けることになりますが、弁証法的な発展も期待できます。
実際、映像にせよゲームにせよ、傑出したクリエイターが自由に作ったものは熱狂的なファンには大いに支持されるものの、幅広い層に受け入れられるのは制約下で生み出されたものだという例は枚挙にいとまがありません。

「マーダーミステリーとは何か」はポストモダンな問いであり、デュシャンの泉を彷彿とさせます。
マーダーミステリーではまだ大きな物語は終焉を迎えていませんが、データベース消費は始まっています。
本作そのものは"マーダーミステリー2.0"を示すものではありませんが、それを意識した問いを投げかけています。

マーダーミステリーは経済面でも内容でも幼年期の終わりを迎えています。
3年目に入ったマーダーミステリーの青年期がどうなっていくかはまだ見えていないものの、「クリエイターズハイ」はその転換点を象徴する作品といえるでしょう。

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