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「そういうものだから」で片付けるのが寂しい

考えないほうが身のためとか、誰にも言う権利はない

会社の方針と自分の考えのずれを感じたとき、それを話すと会社の人にも社外の大人にも「会社ってそういうところだから」とたくさん言われた。
考えてもどうにもならないものだから、考えないほうが身のためだよ、会社ってそういうところだよって。

それを言われると、もうそれ以上話す気も失せて、黙るしかなくなる。

私は ”そういうところ” で頑張る方法、納得できる考え方を見つけたいと思って言っているのに。今の状況をどうにかしたくて考えているのに。

不思議なもので、会社の人たちは「そういうところだから」と諦めていながら不満を口にする。諦めてるなら、黙って飲み込めばいいのに。

建設的じゃない愚痴は、周囲の空気を悪くするだけ。
建設的じゃない愚痴で盛り上がっている空気ほど不味いものはないし、そこに共感させられることほど不快なこともない。

私は、諦めたら黙る。改善したい、してほしい気持ちがあるときしか不満を口に出さないようにしている。

自我を消すことで良くなる組織なんて、たかが知れてる

会社にいるときに上司に自分の考えを話すと、「あなたはオーナー目線で物事を見ているけど、若手にその目線はいらない」という旨のことを言われた。

私は何事も、”じぶんごと”にしないと頑張ることができない。自分の熱意や想いで仕事がしたい。だから、頑張って会社の人になろうとして、会社の採用や作業能率がどうすれば上がるかを考えて、話した。

だけど、その目線はいらないらしい。
もちろん経験も知識も浅はかな若手が何を言っても太刀打ちできないのは理解できる。

でも、もし私が社長とかトップに立つ者だとしたら、組織のことを”じぶんごと”に考えてくれるような人と一緒に働きたいと思う。だから私もそうなろうとしたけど、求められていなかった。

そういうの提案するのは自由だけど優先度は下げてね、空いた時間でやるのは自由だよ、と言われた瞬間、すべてのモチベーションがゼロになった。
別に趣味で会社のことを考えるほど暇じゃない。

「あなたにとっても考えない方が楽だと思うし、会社の方針に従うのが会社員の役目だから、そこは分かってほしい」と言われた。

分かりました、でしたら辞めさせていただきます。
そんな単純な話ではなかったけれど、すごく簡潔にまとめればこんな感じかもしれない。

私は、考えることを止められたから、会社の人になることを諦めた。

諦めることが一番寂しいから、考えることにした

ちょっと苦手な人がいるとき、大人であればあるほど諦めがちだ。

「○○さんってなんでああいう言動するんだろうね」
「まぁ、そういう人だからね」

私も言ってしまったことがあるし、自分のストレスを減らすためにそう言い聞かせていた時期がある。いちいち全部に突っかかっていたら自分が疲れるし、争いがおこるようなことがあれば良いこともない。

人間関係を円滑にするうえで、すべての人と分かち合うことを「諦める」のは絶対に必要なスキルだということを、大人になればなるほど実感する。

だけど、その一方で、そんな自分が少し寂しい。
自分のちっぽけな器で他人のことを「そういう人」と判断することに苛立ちを感じた。青二才の私に何が分かるというのだ。

だから私は、「諦める」のではなく「理解しようとする」ことにした。

「〇〇さんってなんでああいう言動するんだろうね」

もしかしたら、幼少期にこんなことがあったのかもしれない。
今が特別、そういう時期なだけかもしれない。

考えを巡らせたら、理解できる理由も浮かんでくるかもしれない。
そんなことを考えていると、不思議とその人に興味が湧いてくる。
「そういう人だからね」で片づけていたら絶対に見えなかった側面が、見えるかもしれない。

どれだけ考えても理解できない人だっている。それは仕方ない。
「そういう人だから」という諦めではなく、「そういう人もいるから」という許容に変えるだけでも、少しは寂しさが軽減する気がする。

世の中諦めたほうが良いこともある、という言葉もよく聞くけれど、私は諦めるのはもう少し年をとってからでも良いかなと思っている。

散々寄り添って、理解しようとして、いろんな人を知って、疑って、そのなかで「諦めるべきもの=近道」が見えてくるのかもしれない。

それが見えるまで、自分のなかから「諦め」という気持ちを出来るだけ取り除けるようにしたいと思った。

読んでも読まなくてもいい、私の懺悔

私は自分でもかなりドライで冷たい人間だと思う。

他人に共感しているような顔で話を聞きながら、その話を”じぶんごと”にすることなく、話を聞き終えたら何事もなかったかのように自分の世界に戻る。他人から学びや気づきを得ることがあっても、同情することは少ない。

円滑な人間関係を築くために、人に向き合うことを諦めた経験がたくさんある。今考えたら、なんて偉そうなんだろうか。

今回のnoteは自分が自分を諦める気持ちと、他人を諦める気持ち、どちらもごちゃまぜで書いてしまったけれど、私は後者が圧倒的に強い。

自我が強くて、長時間かけてじっくり考えぬいた思考を簡単に諦めることはできない。だけど、他の人を「自分とは違うから」と理解するのを諦めることは出来てしまう。

傲慢すぎる。保身がすぎる。
無理に合わない人と関わる必要はないと思うけれど、自分のなかで他人を排除するようなことは、今後一切したくない。

一切とか言いながら出来るか分からないけれど、あたたかく人に向き合うことができる人になりたい。

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