ボーイズ・オン・ザ・ラン

最近の「俳優:峯田和伸」はそうではないと思うが、GOING STEADY や 銀杏BOYZの峯田は「童貞の幻想の権化」だと思っている。男はどこまでもピュアで清純で奥手で、それゆえにうまく愛されず愛することもできず、自分を貫くが故にうまくいかない人生を悶々とオナニーしながら過ごす。そんな人生観を具現化した存在だ。

峯田(バンドマンとしての時は呼び捨てのほうがそれっぽい)が音楽でやっていたことを更に具体化して理不尽さを増し、童貞ハートをぶん殴る映画が「ボーイズ・オン・ザ・ラン」だった。

もう最初の感じの匂いからしてわかる。人生を順調に過ごし、勝ってきた男には、この映画はゴミにしか映らないだろう。29歳にもなって、「俺は"ボーイ"だ」と思っている男にこそ刺さる。

なんてったって、顔のいいイケメンが普通に強いのだ。この映画。

とにかく人にナメられ、うだつは上がらず、どこまでも人の下に入り込んで29年やってきた男にようやく手に入りそうだった夢のような女を1か月あまりで松田龍平がかっさらって行く。峯田にはなすすべもない。劇中ではたった一つの過ちとしてソープ嬢(YOU)とのやりとりが理由にされるが、あってもなくても結果は変わらないだろう。あくまでただの「後付け理由」だ。

一方、峯田の周りの社員や社長はみんな峯田のことを好きだ。応援もするし一緒に酒も飲むし、きちんと慰める。これは観客だ、観ている我々だ。人生がどっかでちょっと歪んだくらいの人たちは皆、スクリーンの峯田にエールを送っているのだ。「やってくれ! 峯田!」と。

そして「殴り込みに行く」なんて今時のヤンキーですらやってるのかわからない方法で峯田は恨みを晴らしに行くが、あっけなく負ける。松田龍平やその取り巻きのオモチャになるだけで終わってしまう。勝てない。

当たり前だ。29歳で「ボーイ」を名乗っているヤツがこの世で勝てるワケがない。

じゃあ美人のヒロインが慰めてくれるのか? って話である。が、当然そんなことはない。顔がいい女は29歳のボーイに追い打ちをかける。

駅のホームで会ってボロボロになった峯田に対して、相手の心配をするのだ。目の前にいる峯田の心配など全くしない。

「やさしさ」「誠実さ」「真剣な想い」という武器で戦った男は完全に敗北した。わかりきっていた勝負だが、ここで完全にゴングが鳴ったのである。峯田が持っていた武器たちは「負けそうだからやめる」という選択肢を奪う呪いの道具だから、ここまでしてもらわないとファイティングポーズをやめていいのかわからないのだ。だからある意味でありがたい言葉である。ようやく拳を降ろしてよいことがわかった。「ボーイ」は純粋なのでここまでしないとマジでわからない。

そして最後に峯田が理不尽な感情を吐露した後に極めつけの「フェラチオくらいしてあげるから!」である。再序盤、ラブホに入ったのにセックスしなかった女が言っていいセリフではない(童貞基準)。相当腹は立つが、峯田に女を殴るなんてことはでいないので、せめてもの行いとして黒川芽以を電車へと突き飛ばす。恋への決別を、自分からしたのである。

結果的、というか映画の構造的にはヒロインはソープ嬢のYOUだった。YOUが要所で背中を押すから峯田は頑張れるのだ。結果的には引き金となるYOU宅でのシーンも、人生がこうなるとわかっていればまずしないだろうし。

負けた後はもう、できることがない。でも、人生が終わってくれるわけじゃない。「ボーイ」であることを捨てられない俺たちは走り続けるしかないんだ。峯田の走る姿で映画は終わる。




さて、この映画を観てどう思うかである。

ひとつは「俺たちもボーイズだ。仲間はいるぞ」である。世の中にたくさんいる何十代かわからない「ボーイズ」たちに対して、「周りの仲間たちはお前のことが好きで応援してくれることもある。こうやってボロボロになることもあるけど前向いて生きていこうや」と投げかけているのかもしれない。

もう一つは「こうはなるな、ボーイズ」である。いつまでも捨てられない「ボーイ」の精神だと、お前が愛した奴もお前自身も守れないぞ。ほら、こんなふうに。と未来図を見せることで、反面教師的な教訓を与える視点だ。俺はどちらかというとこっち寄りである。

ここまで見せられると「じゃあ負けてもいいや」とはならない。なんとかなったかもしれない場面で峯田ルートを回避して、幸せを掴み守りぬく強さを手に入れないといけない、という危機感のほうが強くなる。今作だとラブホに入った時に何とかセックスする択さえ取れれば勝ちルートだったと思う。

しかし、それができる男はもはや「ボーイ」ではないのが難しいところだ。

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