トレインスポッティング

Train・・・続くもの、連なっているもの

Spot・・・点、斑点、しみ

麻薬中毒者にとってこれが示唆するのは、注射器を何度も差し込んだ自分の左腕だろう。続く斑点こそ、自分が快楽に溺れた証拠であり、純然と残る自分の犯した「罪」だ。社会的に、麻薬の常習は「罪」とみなされている。

でも抜け出せない。快楽を手にした瞬間、蟻地獄のようにどこまでも地中の深いところまで行ってしまって抜け出せない。人類全般において快楽とは"そういうもの"だ。

「トレインスポッティング」は、そんな90年代の、僕ら令和の人間では想像もつかないほど退屈なスコットランドを舞台にした映画だ。

これは、自分の欲求もよくわからず、目の前に転がる快楽をしゃぶった人間たちを「観る」映画だ。観客の立場で。

腕に連なる、快楽を求めた証拠は簡単に消えない。主人公のレントンは最初から最後まで、連なる点(麻薬の注射)から逃れようとする。だが、無理だ。快楽はどこまでも、自分の腕を通し、たしかな証拠の点を残して伝わってくる。逃れることなんてできない。田舎は退屈なのだ。

よく、田舎は妊娠率が高いと言う。セックスがレジャーになり、エネルギーを持て余した若い男女はセックスに走るからだ。僕は田舎暮らしを経験したことがないから体感はないが、気持ちはなんとなくわかる。

「快楽」は人間の心を簡単に埋めてくれるし、共通の快楽でつながった「仲間」は信頼できる。目の前の退屈を一緒にやり過ごす戦友になってくれるから。

90年代のカルチャーを味わいながら、麻薬の「ヤバさ」もきちんと味わえる。「トレインスポッティング」は、確かに、観た人に対して、連綿と続く快楽への欲求を思い出させてくれる。

この作品において、モラルなんてない。誰も気にしちゃいないのだ。

だからこの作品は全くキレイじゃない。汚物にまみれながら、青年たちは快楽の奴隷となってそれぞれの人生を連ねていく。


麻薬やセックスを快楽として描写する映画はほかにもある。例えば「ウルフ・オブ・ウォールストリート」もそうだ。ヤクをキめ、酒とセックスにまみれて頭をトばすほどに、快楽がどんどん押し寄せてくる。正気は阿呆が持つものだと思わされる。

一方、「トレインスポッティング」を観て、ヤクを決めたいと思う人はいないだろう(懐かしい、と思う人はいるかもしれないけど)。麻薬が見せる快楽も地獄もきちんと映してくれる「善良な作品」なのだ。

主人公のレントンは最後まで麻薬から解放されない(と思っている)。最後にヤク仲間と決別をしても、それはわかる。90分、麻薬の快楽に溺れた観客ならわかるのだ。

「こいつは、どうせ、またやる」と。

SpotはTrainなのだ。点は続く。どこまでも、簡単に逃れられる点と線ではないのだ。

「快楽」はそれほどに強い魔物だ。ヤクのせいで仲間がフラれても、警察にしょっぴかれても、死んだとしても、ヤクの魔力は衰えない。どこまでも、スコットランドを離れ、ロンドンに行ってもついてくる。

90年代のカルチャーを描写した作品でもあるので、「現代でこんなことねーよ笑」と思うかもしれない。けれど、たいして変わらないだろ、とも思う。

麻薬、大麻なんて。手軽に手に入る、取り返しのつかない快楽なんて、人類にはたくさんはびこっているのだから。

人間にある根源を扱った作品だから、現代まで観られているのだろう、と思う。人生、甘い甘い落とし穴なんていくらでもあるのだ。


ストーリーは綿密ではない。区切りも曖昧だ。ただの「カルチャー青春映画」として観るのもいいと思う。

ただ、怖いのは、落とし穴というものは「ハマらない」と思っている愚かな人間ほど、無自覚に深みに落ちていくという純然たる事実だ。

Spot(罪・快楽・裏切りによる、自分の人生に残る斑点)は、Train(続く)。人生の方向転換は可能だが、完全に過去を切り離すのは不可能なのだ


年を重ねるたびに、この作品が誘う「快楽」を否定できなくなるんじゃないか? どこまでも、蟻地獄に誘われてしまうんじゃないか? 


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