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【世界考察7】話し合いという無駄

話し合おう。
話し合えばわかる。
対話が重要。

こんなセリフが出てきたら基本的に終わりである。何が終わりなのか。とにかく色々なものが終わる。終わりの始まりだ。

話し合いとはお互いを説得しようとする会話である。しかし話し合いほど無駄なものはない。話し合ってわかることなどない。対話が成り立つのは論理で解決できるものを論理で話し合う場合だけだ。人間同士の諍いが話し合いで解決することは少ない。ほとんど解決しないのかもしれない。

解決しているように見えるのは、どちらかがどちらかの要求を飲んだからであって、話し合いの結果ではない。話し合おうと言った時点でどちらかが折れることが約束されている。

どちらも折れなければ文字通り「話にならない」。話し合いで解決されることは事前に解決されているとも言える。将棋で言えば詰み状態(詰みが見えているかどうかはともかく)から始まっているようなものだ。話し合いましょうなんて雰囲気になった時点でどちらかが負けている。あとは「負けました」と言わせるだけだ。

往々にして、話し合いたいと言った方は、論理的には勝ちが見えていることが多い(少なくとも主観的には)。なのでそれを受けた方は負け確に近いか、そもそも話し合いにならない(何を言っても向こうは勝ち確だと思っている)。

下手に論理的な人間は負け筋でも受け立とうとするのだが、賢い人間であれば論理など放棄する。話し合いを受ける義務はない。論理には話し合いに参加させる強制力はない。論理などその程度のものである。

私も「話し合う」ことはよくある。ただ話し合う気はない。こちらの要求を飲ませるために、あらゆる手を尽くしているだけだ。どう言い訳しても本質はそこにある。せめてその自覚だけは無くさないようにしたい。

しかし何らかの諍いにおいて、基本的に話し合う以外やることがないのも事実である。話し合わないなら逃げるしかない。脳に電極を差して電気信号で理解し合うなんてことはできない。人間が生まれて何年経ったのか。いまだ我々は言語を駆使して、話し合いと称するレスバトルを行うしかできない

レスバトルから一体何を得られるのか。不毛な時間だけが過ぎていく。悲しいことだ。SNSにはレスバトルの強者が集まっている。しかしレスバで勝利しても何も得られない。

ロジックを共有できていれば話はスムーズだろうが、そんな場面はほとんどない。大抵は片方は論理とルール、片方はお気持ちでバトルする。あるいはどちらもお気持ちでバトルする。論理と論理の時だけ話し合いになる。話し「合った」ら基本的にバトルになる。

SNSのレスバは論理とお気持ちのぶつかり合いも多く、傍目から見ると論理が勝利しているように見えるのだが、何も得られないという点ではどちらも大差はない。等しく時間が過ぎていることだけは確かだ。何も得られないは言い過ぎか。もしかしたら楽しいのかもしれない。

話「合って」はいけない。話し合うくらいなら、一方的に話を聞く方がマシである。マシというか、建設的な行いはそれしかない。モテる男はそんなこと言われずともわかっている。私のような論理を一生懸命放棄しようとしている論理厨は、そんなことすら論理的に考えないと思い至らない。論理とはなんと遠回りなのか。弱者の武器とはよく言ったものだ。

論理を放棄しようと論理的に考える。論理より人の繋がりが大事だと論理的に考える。感情と情熱と物語が重要だと論理的に考える。何事もネイティブにこなせない論理厨の末路である。恐ろしい。論理はAIに奪われようとしている。一体論理のいく先はどこなのか。私は奪われる前に放棄した。

一番健全な関係とは、お互いがお互いの言うことを無条件に聞き入れる関係である。話「合って」はいけない。さらに言えば、無条件に聞き入れるが、無条件に安住しない。そんな関係がひとつでもあれば、少しでも長く続けば、人生幸せだったと言えるのではないか。末長く続くのなら奇跡としか言いようがない。人生で奇跡をつかめるのはほんの一握りである。

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