人生感想文つらつら書くよ

夕方から夜にかけて昼寝をしたら当たり前のように眠れなくなってしまったので、25年と4ヶ月を振り返りながら文章にしていこうと思う。少しだけ暗い話が多いので注意してほしい。ほんの少しだけね。

上品ぶって一人称を僕にした。文章の中でくらい上品でいたい。

原初の記憶
 一番古い記憶は両親と弟と4人で暮らしていたアパートでの記憶。産まれてから4歳頃まで住んでいた。母親の姉と母親の友達がいつも遊びに来ていた気がする。父親の印象はあまりない。(まあ、原初の記憶に限らず25年の中でも父親の記憶はほとんどないのだが。)母親の友達はかなり肉付きが良くて豚キムチのカップ麺とチェルシーが好きだったと思う。豚キムチのカップ麺はCMが印象的だった。「ブタキム!ブタキム!」ってロンブーか誰かが騒ぐCM。チェルシーはもうないのかな。車の芳香剤みたいな袋に入ってるイメージの飴。甘い。
 閑話休題。一番古い記憶はあまり楽しいものではない。幼児ながら両親が不仲なことはなんとなく理解していた。母親が父親の職場に電話で残業をしているか確かめていた記憶があるし、おもちゃの鉄砲の的は父親のスーツだった記憶がある。原初の記憶の中で4人でご飯を食べた記憶はひとつだけあるが、それは少し悲しいものだ。父親が笑いながら読んでいた雑誌を自分も食事中に読んでニコニコしていたら怒られたという記憶だ。もちろん幼児の僕には内容などわかっていなかったし、父親が楽しそうにしていたのが嬉しくて父親の真似をしただけだった。しかし母親は笑ってくれず僕を叱り、父親と喧嘩を始めてしまった。ただただ悲しかったことを憶えている。父親が読んでいた雑誌、僕が真似して読んだ雑誌、それはおそらく、エロ本だった。父親が楽しそうにしていた理由、僕が怒られた理由、それはエロ本だったから。幼児にあんなに悲しい思いをさせないためにもエロ本はきちんとしまっておかなくちゃいけないのだと思う。余談ではあるが、当時住んでいたアパートは近所では少し有名な幽霊屋敷だったらしい。母親だけが見えていた。

幼少期(保育所から小学校低学年)
 そこそこの暗黒期。もっと悲惨な経験をした人は大勢いるだろうし、そこまで不幸なわけでもないが、僕の情緒の発達にあまりいい影響を与えなかったであろうことは確かだと思う。なんだか嫌な記憶ばかりだ。母親はいつも泣いていたし、父親がいるときは喧嘩ばかりだったし、ご飯も美味しくなかった気がする。「お前は父親そっくりだ」と呪いをかけられた。
 保育所に特に思い出はない。散歩したり芋掘ったりした。カラス組だった気がするけど流石にカラスは悪いイメージすぎる気もするから多分カラス組じゃない。弟はコアラ組だった。保育所は概ね楽しかったが、年中さんのときに一回だけ「ママに会いたい」と泣いて駄々をこねたことがある。突然もう二度と母親に会えない気がして泣いた。色々と不安定だったのだと思う。
 保育所に入るタイミングで二世帯住宅に引越した。父方の祖父母と二階建ての大きな家で暮らし始めた。その頃にはもう父親はほとんど家にいなかった。正月とお盆と不定期で年に数回家に帰ってきて何日か泊まるだけだった。どうやら出稼ぎに出ていたらしいが、母親はいつも「生活費が振り込まれない」と言っていた気がする。僕が6歳と7歳のときの10月に母親は2年連続で入院した。風邪だったらしい。薬を買うお金も仕事を休む余裕もなく、風邪をこじらせた結果入院した。僕はあまりその時期の記憶がないのでよく憶えていないが、誕生日に母親に祝ってもらえなくて悲しかったことは憶えている。入院といえば、同じ頃に弟も入院した。弟は一人で芋羊羹を一本食べて胃腸炎になって入院した。食い意地の張った5歳児だったようだ。母親は弟の付き添いで一緒に入院したのでそのときも寂しかった。でもその時はめずらしく父親が家にいて、母親がいない間一緒に寝てくれた。ファーストガンダムのビデオを一緒に見た。片手で数える程度しかない父親との思い出。あまり記憶のない時期なのにガンダムを見たことまで憶えているのは父親との時間が嬉しかったから。ではなく、弟の入院の理由が面白かったから。でもなく、父親と一緒に寝ているときにうんちを漏らしたから。寝ているときにうんちを漏らしたのはあの時だけなのでよく憶えている。「パパ...パパ...‼︎うんち漏らしちゃった...」と寝ている父親を揺り起こした。怒られることを覚悟したが、予想外に父親は優しかった気がする。どう処理したのかわからないがうんちを処理してくれた。怒られなかった。今振り返れば父親は僕には優しかったと思う。全くいい父親ではなかったけども。
 父親はクズのテンプレのような男だった。子供にとって不幸中の幸いだったことは父親が暴力を振るうのは母親だけだったこと。僕は記憶の限りでは父親に虐待されたことはない。もっとも、僕か弟に手をあげていれば母親は父親を殺していたかもしれないと思う。というか、あいつはやる、殺る女だ。全国ニュースデビューしなくてよかった。父親はDV・借金・浮気の三拍子が揃っていた。家には父親の浮気相手からの悪戯電話や借金取りからの電話がよくきた。小1ぐらいのときの借金取りの電話は過酷だった。父親を電話に出せと怒鳴られ、隠してんじゃねえぞと怒鳴られる。父親は家に帰ってこないのに正直に言っても無駄だった。ただただ怖かった。しかし電話に出てしまう小学一年生。馬鹿だ。一時期電話線は抜かれていたが、気付いたら借金取りの電話は止んでいた。700だか900だかの借金は父方の祖父が返済したらしい。もったいないなあ。とにかく、小学校低学年の子供にはちょっと厳しい環境だった。母親にはもっと厳しい環境だったろうと思う。母親は20歳で僕を産んでいるので、僕が小学校一年生のときは27歳で、今の僕とほとんど変わらないような歳だ。本当にすごいことだと思う。気が狂ってもおかしくない。実際気が狂ったのか2回自殺未遂をしているし無理心中未遂をしている。無理心中未遂というと少し大袈裟に聞こえるので、無理心中未遂未遂ぐらいにしておこう。僕が小1か2、確か小2だったと思うが、寝室の布団の上で母親に包丁を突きつけられた。母親は泣きながら「もう無理だ。死ぬしかない。ごめんね」というようなことを言っていたと思う。弟は2個下なのでもちろん泣くばかり。僕が止めるしかなかった。泣きながら必死に止めたが、心の中では半ば諦めていた。死ぬんだなあと思った。結局包丁は刺されなかったし、母親も自分を刺したりしなかった。全国ニュースデビューしなくてよかった(2回目)。そのあと離婚調停に入って、二世帯住宅を出た。ちなみに二世帯住宅も母親曰く幽霊屋敷だったらしい。
 小学校低学年の思い出は上記以外ほとんどなくて、あとは小1のバレンタインにチョコとかわいいメモ帳を貰ったこととボクシングを始めさせられたことぐらいしか思い出せない。ボクシングは小5の終わりまで続けた。痛いからあんまり好きじゃなかった。

小3〜小6
 小3に上がるときに二世帯住宅を出て木の家に住み始めた。教員以外は一年しか住めないという条件付きの町営の教員住宅だった。見た目はキャンプ場のバンガローというかコテージのような家だったので木の家と呼んでいた。木の家に住み始めてから保健所で保護犬をもらった。茶色い柴犬系の雑種で、グリと名前をつけた。絵本のぐりとぐらからとったのだろうと思うがはっきりとした理由は憶えていない。グリは1歳くらいで、ドッグフードが嫌いで、めちゃくちゃ吠えまくる犬で、僕に腰を振って射精する犬だった。多分馬鹿だった。噛むし吠えるしおしっこをかけてくる(射精を知らなかったのでおしっこされたと思っていた)グリが少し怖かったけど大好きだった。朝6時からと夕方6時から散歩をしていた。たまにヒモを離してしまって大変なことになった。小3のときはかなり平和だったと思う。特にエピソードがない。強いて挙げるとすれば、小1の弟に意地悪するためにトイレに立て籠ったところ、我慢できなくなった弟が家の隣の草っ原にうんちをしたエピソードぐらいだ。道路に面した草っ原でうんちをした弟はパトカーに見つかったらしく泣いていた。いつ思い出しても笑ってしまう。ちなみに木の家は幽霊屋敷じゃなかった。
 小4に上がるときに木の家から引越した。引越し先は歩いて1分ぐらいの場所にある町営住宅だった。その家は犬を飼ってはいけない家で、こっそりグリを飼っていた。しかしグリは吠えまくる。吠えて吠えて吠えまくるので苦情が多かった。「犬を処分しろ」と役所の犬に言われた。処分なんてよく言えるなと思った。それでも飼い続けていたけど、別れは突然だった。ある日学校から帰ると母親は鼻水が止まらない様子で、花粉症だと言っていた。「グリが吠えないようにグリから見えないように遊びに行きなさい」と言われて、何も疑わずに遊びに出かけた。遊びから帰った僕に母親は「もう散歩は行かなくていい」「学校に行ってる間にお母さんの友達にグリをあげてきた」と告げた。告げられてからやっと全てを察した。季節外れの花粉症も吠えないようにというのも嘘だった。ショックで酷いことを母親に言ってしまったのではないかと思う。母親に背負わせてしまったこと、グリを最後まで飼えなかったこと、今でも罪悪感に胸を締め付けられる。せめて最後の散歩くらいはうんと長くしてあげたかったなと思う。悪いのはペット禁止の住宅で犬を飼った僕だし、吠えるのをやめさせられなかった僕だ。それはわかっている。わかっているけども、それでも、あの町の役所も人間も本当に嫌いだ。絶対許さない。醜い逆恨み。
 小5に上がってから拒食症になりかけた。当時母親の彼氏が半同棲のような形で家にきていた。人見知りしなかった弟とは対照的に人見知りの僕は打ち解けるのに時間がかかった。そのことで小言を言われることもあった。家にいるのが少し嫌だった。そんな折に僕と弟は同時に体調不良になった。もしかすると僕の方は精神的なもので弟はちゃんとした病気だったのかもしれない。それでもちゃんと看てほしかった。母親が心配するのは弟ばかりで僕は仮病扱いだった。そこからご飯が食べられなくなった。とにかく食べ物の匂いが気持ち悪い。口に入れた瞬間に胃液がせりあがってくる。心配されないように給食は量を極限まで減らして無理矢理飲み込んだが、家では無理だった。1週間ほどで身体は栄養失調に耐えられなくなり、学校以外ではずっと寝込んでいた。いよいよ捨てられる時がきたと思った。今日は母親が帰ってこないかもしれない、明日起きたら母親と弟はいないかもしれない、そんなことを考えて毎日怯えていた。僕は父親に似ていて、弟は母親に似ている。だから弟が母親に可愛がられるのだと思った。父親に似ている僕はいつか捨てられる。それが今だと思った。物心ついたときからの呪いと栄養失調に心と身体が蝕まれていた。最後には見かねた母親に病院に連れられて点滴を打たれた。「今どき栄養失調なんかで病院連れて行ったら虐待だと思われるだろ」と嫌味も言われたが、点滴のおかげで生き返った。よかった。歩くこともままならず、空腹なのにご飯は食べられず、正直死ぬかと思った。多分期間にすると2週間か3週間弱程度の時間だったが、永遠のように感じた。まさに地獄だった。点滴を打ったらだんだんとご飯が食べられるようになったので、結局あれはなんだったのかわからない。自家中毒だったのだろうか。
 小6のときは児童会長だった。町を代表して他県の小学生に挨拶したりベルマークを集めたりした。小学校では態度がでかく暴力的でジャイアンのような存在だった。デブの友達を殴ったりデュエル・マスターズのカードを上納させたりしていた。最悪だ。家が荒れていると子供が荒れるというのは本当だと思う。小学校の話は以上。
 ちなみに小4から住み始めた家は子供が廊下を走り回るような音が結構すごかった。全く怖くはなかったが、ゲームをしてるときなど意識の外側で走り回る音が聞こえていた。あと猫の幽霊がいた。猫が布団に入ってきたことがあるが、猫は飼っていなかったのであれは幽霊。

なんかすごく長くなってしまったので25年振り返るのはやめます。12年の振り返りになった。残りの13年は機会があればまたどこかで。
暗い話ばかりになったけど、明るい面白い話もあるよ。面白い話もしていきたいね。

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