ラプンツェルの御用達【J庭サンプル】

※10/18 J.GARDENのサンプルです。
※完成しなかったので途中までです。引きまで行かずに終わります。


『すわん亭』のテラスから夜更けの空を見上げる。
 もう初夏になろうというのに、夜はまだ冷える。鵠(くぐい)はシャツの襟の中に首をしまいこんだ。
 都心には珍しく低い建物が並ぶこの街で、ひと際大きなビルが嫌でも視界に入った。『家賃三桁』はする高級マンションで、ガラスの外壁に輝く夜景が映っている。屋上には住居者向けの庭園があり、緑が生い茂る様は近未来的だった。
 地べたで暮らす自分には一生縁がない建物だな、と鵠の指は煙草を探した。数秒置いて思い出す。もうやめたのだ。
 口寂しさを紛らわせるように、鵠はテラスのフェンスにもたれかかった。権威を誇るようにそびえるマンションを見つめる。
 最上階に程近いベランダに、誰かいる。今の鵠と同じように、ガラスと鉄骨でできた柵に寄りかかって遠くを眺めている。
 鵠は目を凝らした。正確には、睨んだと言った方がいいのかもしれない。妬ましさの乗った視線だった。
 それは、すぐに困惑の色へと変わった。
 ベランダで遠くを眺める男は、鵠のよく知る人物だった。
「……夏臣(なつおみ)さん」
 このすわん亭の常連。色素の薄い髪と肌が、柔らかい物腰によく似合う十歳上の男だ。鵠がつくる料理をいつも幸せそうに頬張る。その姿を見ることが、鵠にとっての幸福だった。
 遠くからでもわかる物憂げな姿を目に焼きつける。魂のない人形のような虚ろな雰囲気は、店で一度も見たことがない。
 その肩を抱き寄せたい、隣にいたい、と鵠は細いシルエットに手を伸ばそうとして、やめた。
 ここから手を伸ばしても届かない。
 ましてや、飛んでいくこともできないのだから。

   * * *

 大通りには若者向けアパレルショップやハイブランドの路面店が並び、一本路地を入るとこじゃれたカフェや美容院が軒を連ねる。原宿。若者の街と呼ばれるこの場所に、星田鵠が営む定食屋はあった。
 大通りから細い路地に曲がり、入り組んだ道の行き止まり、小さなビルの三階にある『すわん亭』は大人の隠れ家だ。
 洗練されて現代的なその街の中で、鵠の『すわん亭』は異色だった。L字のカウンターと、壁沿いにいくつかのテーブル席があり、天井の隅にはテレビが設置されている。これでサッカーの試合でも流せばスポーツバーの風体なのだが、野球中継を流すと完全に昭和の食堂だった。
 しかし、そのレトロ感が面白いらしく、この若者の街でもコアタイムには満席になる。早い時間帯は手早く夕食を済ませる客が、夜が更けてくると酒を飲みながらのんびりテレビ観戦をする客が、席を埋めた。
 女性が一人でも入りやすい店として、地域誌にも取り上げられたことがある。

「くぐちゃ~ん、ごちそうさま!」
 串田というこの常連も、仕事帰りに足を運ぶキャリアウーマンだ。一人でビールを飲みながら定食をたいらげ、バイトの由佳に絡んで帰っていく。
「お粗末さま! 串田さん、またね」
「またね~」
 と、串田はほろ酔い顔で投げキッスを残して出ていった。外階段をヒールで降りる甲高い音を聞きながら、鵠は綺麗に積まれた食器を片づけた。
 鵠が『すわん亭』を開いて二年になる。一目でわかりづらい場所にあるが、口コミがSNSで広がり、最近ようやく利益らしい利益が出るようになった。少し前までは自分の給与などあってないような状態だ。生存競争が厳しい繁華街で、何とか食らいついている。

「こんばんは」
 引き戸を開けて入ってきた細い影に、鵠は振り返った。
「こんばんは、芹澤さん!」
 鵠が勢いよく挨拶をすると、芹澤夏臣は目を細めて微笑んだ。店の奥、カウンターの隅によく座る。厨房からは一番遠いが、正面に顔が見える席だった。
「今日は魚、マイワシとサンマなんだけど、どうします?」
 白髪ネギと豚のお通し、おしぼり、冷たいお茶を持っていくと、夏臣はテレビに向けていた視線を鵠に落とした。優しい声音で「うーん」と唸る。
「サンマは塩?」
「ヅケと塩。塩にします?」
「うん、サンマの塩を」
 夏臣は塩焼きが好きで、あまりタレや味噌の濃い味を好まない。三十五歳だと聞いていたが、薄味を選ぶ姿は老成して見えた。それがどこか色っぽく感じる。
 夏臣は長身で飾り気のない服をいつも着ている。どこか浮世離れした雰囲気を持っていて、近くにいながら、別の時間の流れを生き、別の空間にいる錯覚をおぼえることがある。
 丁寧におしぼりで手を拭き、夏臣は箸を取り出した。小鉢を持って、楽しそうにお通しをつまむ。がっつかずに一口が小さい。女っぽい、キザ、とややもすればからかわれる所作だが、夏臣の容姿や印象によく似合っていた。
 柔らかく、穏やかに微笑む。春のまどろみのような空気をまとっている。だから、どうしてベランダで虚ろに遠くを眺めていたのか、訊くことができない。
 そもそも、鵠がテラスから夏臣を見ていると知られたら、なんと思われるだろう。本人には内緒で心の中では「夏臣さん」呼びしていることも、客同士で何気なく話していた個人情報をしっかりチェックしていることも、汚らわしいと、気持ち悪いと思うだろうか。
「喘息持ちなんだ」
 煙がどうの、という話題だったと思う。何気なく告白した夏臣の言葉で、鵠は口寂しくてやめられなかった煙草をやめた。
 本人は知らないだろう。告げるつもりもない。

「今ってどっち優勢なの?」
 夏臣は天井近くに設置されたテレビを見上げた。
 つい先週、セントラル・リーグの優勝チームが決まり、今はリーグ上位三チームが出場するクライマックスシリーズへの出場権を残りのチームが争っている。九月のこの時期、すわん亭の客も応援に熱が入った。
「クレーンズは今日勝てばクライマックスシリーズ決定ですよ」
 現在二位のクレーンズは、今日の試合に勝利すればクライマックスシリーズ進出だ。今は七回を終えてクレーンズが優勢だった。野球中継から流れてくる声に、夏臣は小さく唇を持ち上げた。
 今日の解説は古市という元プロ野球選手で、病弱な幼少期から高校野球の四番、そしてプロに入った人物だ。
 夏臣はすわん亭に通うようになってから野球を知ったという。その中で解説に出てくる古市のことを知り、ファンになったようだ。
 小さい頃から活躍を見てきた鵠もれっきとした古市のファンだ。だが、夏臣の敬意をこめた瞳を窺うと、醜い嫉妬を会ったこともないヒーローに抱く。
 暗澹たる思いを抱えて、鵠は下拵えしたサンマを炭火にかける。煙がフロアに届きづらいよう、置く場所や炭を調整した。
 夏臣が古市に向ける視線が恋や愛ではないことはわかりきっていた。
 しかし、だからといって、恋や愛のこもった瞳を鵠に向けるわけではない。男に向けるかどうかもわからない。独身だとは知っているが、恋人がいないかは知らない。
 少しでも鵠に興味があるのなら、落とす自信がないわけではない。十歳差なんてものともせず、虜にするために手を尽くすつもりだ。糸口さえ見つかれば、こじ開ける。だが、今はわずかな隙間に触れていいのかもわからない。夏臣は距離をとるのがうまい。荒い手で急くと逃がしてしまうだろう。
「ハードルたっか」
 鵠は炭火の上のサンマを慎重にひっくり返し、小鉢をつつく夏臣を眺めた。
「? 店長、何ですか?」
 オーダーを取り終えて、白米を茶碗に盛っている由佳が訊き返す。些細なことでも拾う姿勢は雇い主としてありがたいが、無意識に零れる言葉や仕草もチェックしているのではないか、と鵠はたまに怖くなる。客からも愛され、齢の近い鵠のプライベートを詮索してこない、非常に頼りになるスタッフではあるが。
「なんでもねーです」
「あ、お帰りですねーありがとうございます」
「ありがとうございまーす!」
 レジに向かう由佳から視線を戻すと、夏臣と目が合った。不意打ちで内心驚いたが、夏臣は当たり前のように唇を持ち上げるので、鵠も平然を装って頷く。
「芹澤さん、あと一分!」
「いいにおいだね」
「もうね、絶対うまいですから」
 待ってて、と笑って、魚用の平皿を選ぶ。紅葉には少し早いから、菊や桔梗の絵が入ったものにしよう。大根をおろして皿の隅に盛る。すだちを切って添えた。
 パリパリに焼けた皮を夏臣の箸がサクリと破り、肉厚な身を取り出すのを想像する。美味しいと綻ぶ顔を、できるなら、他に誰もいないダイニングで見てみたい。

「ああ、そういえば、星田さん」
 と、食後の緑茶を飲んで夏臣が口を開く。
 野球中継はクレーンズの勝利、ヒーローインタビューが終わり、今はバラエティー番組に移動していた。
「お祭りって行ったことある?」
「はい。最近はめっきりないけど、子どもの頃には近所のお祭りに行ってましたよ」
 鵠は別の席の皿を片づけながら頷いた。
 ほとんどもらったことのない、貴重な小遣いを握りしめて、鵠は小学校の友達と祭りに出かけたことを思い出す。限られた金額でどの出店に寄るか、真剣に考えた。おせじにも清潔で美味ではなかったが、祭囃子と喧噪に胸が躍って、いつもは寂しい参道がまるで違う輝きを放っていた。
 夜が肌寒くなってきた秋の入り口、全国津々浦々で祭りが催されている。深夜のニュース番組では、神輿を担ぐ様子や踊りを披露する姿が放映されていた。
「そっかあ」
 夏臣は鵠の体験をいいとも悪いとも言わず、湯飲みにちょいと唇の先をつける。
「芹澤さん、お祭り行くんですか?」
 厨房から出てきた由佳が、夏臣に訊き返す。
 ナイスアシストと思いつつ、小さく腹の奥がざわついた。
 誰と行くのか、夏臣の隣に誰が並ぶのか、考えただけで憂鬱になる。
「いや、仕事でね、祭りがテーマの論文なんだけど」
 夏臣が翻訳業を営んでいることは以前から聞いていた。すごいと讃える鵠たちに「そんなに華やかなものじゃないよ」と夏臣は笑った。小説や映画脚本ばかりではなく、大学論文から企業のパンフレットや契約書まで多岐にわたるという。「おまけに納期が短いし」と愚痴を零しながら、夏臣は慈しむように椀の縁を撫でていた。
 その時と同じ瞳をしている。このあたたかい光を見るたびに、鵠は内心ひどく混乱した。ベランダで遠くを虚しく見つめるあの姿と乖離して、別人のように思える。人間ひとり、多面体で成立していることは知っている。それでも。あの夜闇を纏った表情を、見せてほしいと、その場にいさせてほしいと、この煌々と明るい店内でも考える。
「それで、その……行ったことがなくてね、僕」
 へらりと皺を刻んで告げた顔に、鵠は由佳と顔を見合わせた。
「祭りに?」
「祭りに」
「えぇ!? 意外! 芹澤さん、日本各地のお祭りにふら~って行ってそう」
 鵠も博識な夏臣は日本各地を旅行したことがありそうだ、と思っていたので由佳の意見には賛成だった。
「いやいや、全然」
 困った、と夏臣は頬を掻く。
「それで、同業の知り合いが教えてくれたんだけど、今度、菊蔵祭っていうのが埼玉であって」
「あぁ」
 鵠は理解したというように素早く首肯した。
 その反応に、夏臣が腕を引っぱるような勢いで身をのりだす。
 瞬時に嬉しさがこみ上げてく一方で、しまった、と鵠は心の隅で焦燥した。この話題がどこへ繋がるのか予測できたからだ。
「え、知ってる?」
 子どものように期待に満ちた瞳が、心底卑怯だと思う。いや、卑怯だと感じるのは惚れた弱みだろう。
 鵠は逡巡したが、観念したように口を開いた。
「地元なんで、オレの」
 鵠は菊蔵祭がある藤尾で生まれた。高校生の頃までは藤尾で育ち、それから東京に出てきて現在に至る。菊蔵祭も小学生の頃に行ったことがある。当時は主に神社の参道で行われていたが、今は規模を拡大して隣接する城跡公園で開催していたはずだ。
 東京にも通学通勤しやすい場所なので、上京せず地元で大人になる者も少なくない。鵠の高校時代の友人たちも、半数以上は藤尾で暮らしているのではないか。
 ぐっと喉の奥が締まった。足首を掴まれたように、逃れられない恐怖に包まれる。
 帰る場所がなくて、友達の家に転がりこんでいた頃を思い出す。
 母が出て行ったこと、父がいなくなったこと、早く出て行ってくれと容赦なく告げた実家の大家のこと、コンビニの前で延々と時間を潰したこと、大してうまくない酒を付き合いで飲んだこと、体と金を目的に大人や先輩と寝たこと、友達から得体の知れないバイトを頼まれたこと……。

「逃げなよ。格好悪いとか、友達がかわいそうとか、何にも考えずに逃げな」
 見ず知らずの鵠にあたたかい夕飯をつくってくれた人のこと。

「そうなの?」
 目を丸くする夏臣が、鵠の顔を覗きこんでいた。古市に向ける敬意と同じ香りがする。ふわりと甘ったるく、朝の山のように涼やかな風が胸を撫でる。
「そうなの」
 だから、という一言で片づけてしまおう。
 だから、焦げるような思いも、恐怖も、悲しさや悔しさも、とっぱらって言ってしまった。
 直後、鵠は自分の軽薄さに自己嫌悪するのだが。
「案内しよっか?」
 夏臣と繋がる現在唯一の糸口だった。
 すわん亭の外へとのびる、小さな小さな隙間だ。
 一瞬、間が空いた。突然の申し出に、夏臣も戸惑ったに違いない、と鵠は全身をフリーズさせる。感情が漏れ出てしまわないように。どんなにプライベートな話になっても、ここはすわん亭だ。ここでの鵠と夏臣は、店主と客だった。
「え、いいの?」
 重く脈打つ心臓が、夏臣の返事でさらに強く打った。
 夏臣は乗り気だ。ここで鵠が了承すれば、一緒に菊蔵祭に行ける。
 頭の片隅で、うるさくサイレンが鳴っていた。あの頃につるんでいた仲間の顔が、恨めしげに鵠を睨んでいる。親しかった大人たちが鵠という存在を脅かす。逃げた場所へ戻るということは、逃げたことを認めるということでもある。鵠は、その場所で大人にならなかった。怨恨、制裁、復讐、様々な言葉が浮かぶ。
 夏臣は変わらず穏やかに微笑んで、鵠の返事を待っている。
 ふと、すわん亭を見渡した。十時を過ぎても、なお客足は衰えない。喧しく笑い声をあげながら、みな定食に舌鼓を打っている。店の橙色の明かりの下に、笑顔が並ぶ。
 愛おしい光景。鵠も、かつてこんな店の中で食事をした。この場所にいたい、この場所がほしい、と思った。
「うん」
 天秤にかけることはなかった。頭で考えるより、もうその場所に行ってみるしかないだろう。自分一人では進展も解決もしないことだ。
 安堵したように、夏臣は湯飲みを傾ける。頼りにしてくれている、と感じられて、鵠は気をよくした。
「あ、芹澤さんはいいの、それで?」
 少しの欲を出して、わざと念を押してみる。「当然だよ」と認めてくれるとわかっていて、質問する。
「うん、もちろん」
 かすかな間が生まれた。鵠はそう認識する。音楽のリズムがわずかに狂ったような空白。些細なことだと、自分の気のせいだと流してしまうくらいの沈黙に、鵠は指の先が強張った。
 高くそびえるマンションのベランダで、夏臣は何を考えていたのだろう。
 近くにいるのに、まるでカウンターが城壁のように二人を阻んでいる。
 いや、阻んでいるのは、夏臣だろうか。
 それは、鵠自身もだろう。

   * * *

 自宅を出て駅に向かいながら、鵠は忙しなくスマホを操作する。
 昨日も過剰なほど今日の準備をしてスタッフたちに笑われた。仕方ない。すわん亭の開店以来、丸一日空けることはなかったのだから。朝だけ、深夜だけ、由佳のようにベテランのスタッフに任せることはあったが、今回は何かあったとしてもすぐに店に飛んでいけない。
「由佳っぺ、何かあったら電話して」
「はいはい。大丈夫ですよ、こっちは松中さんもいるんですから」
 開店前に電話をすると、留守を任せた由佳はけらけらと笑って敏腕ヘルプの名前を出した。
「店長は楽しんできてください」
 まるで全てお見通しという由佳の口調に、鵠は言葉を詰まらせる。夏臣に好意を持っていることも、自分が同性愛者であるということも一切告げていないが、勘のいい女性だ。客の微かな変化や所作に気づく『気配りの鬼』は鵠の本心も察しているだろう。
「頼りにしてます」
 最大限の信頼を持って告げると、由佳はまた軽やかに笑って電話を切った。

 都心から北へのびる路線の快速に乗り、藤尾駅から各駅停車でさらに進むと菊蔵祭が行われる上伊那駅に到着する。鵠が住む代々木からは一時間弱といったところか。
 やはり都心で待ち合せた方がよかったか、と鵠は車窓から、田んぼの間に時々出現する看板を目で追いながら考える。この長い車内を夏臣と話したら楽しかっただろう。目的の前に満足してしまいそうで、自制のつもりで現地集合にした。あくまでメインは菊蔵祭だ。
 おかしくないだろうか、と鵠は窓に映る自分の姿を確認した。
 思春期の学生が初デートに挑むように、鵠も服装やスタイリングには随分と時間を割いた。夏臣が持っている鵠のイメージは、すわん亭でのシンプルなシャツとエプロンの姿だ。そこから激しく逸脱すれば嫌悪に繋がるだろう。
 いつもつけているピアスやイヤーカフも、店でなら些細な個性として軽薄になりすぎないが、私服とあわせると威圧的になる。
 だが、店のイメージからは離れたい。すわん亭の店主としてではなく、星田鵠として夏臣と菊蔵祭を回るのだ。
 派手でカジュアルな格好をすれば、藤尾の仲間に気づかれるだろうか、と考えあぐねて、鵠は頭を振った。
 気づかれるってなんだ。
 夏臣との約束に舞い上がりながら、腹の底では昔の仲間に怯えている。逃げだしたことを詰られ、攻撃されると空想して震えている。もう、どうにもならないのに。
 結局、歩きやすいスニーカーと、ボタンの形が気に入っているストライプシャツ、デニムを合わせた。店ではあげている前髪を下ろすと、随分と伸びてしまったのでサイドに流す。ショルダーバッグも幼くなりすぎないようにダークな革のものにした。
 もうずっと、こうして誰かのために細部まで延々と悩むことはしてこなかった。それも、心が躍る相手のことを考えてだとなおさらだ。
 夏臣はどんな格好で来るだろう。いつもの無地のシャツとパンツだろうか。祭りに行ったことがないと言っていたから、浴衣や甚兵衛で来るかもしれない。
 すわん亭ではない風景に立つ夏臣を想像して、鵠は扉にもたれた。この歳でこれだけ浮かれる自分を嘲りながら、一緒に並んで歩いて、手を繋ぎたいと思う。手以外にも触れたい。その先の先の、いやらしい妄想が見えると、どこかで冷静になる。遠すぎる。
 多くを望むまい。今日はすわん亭より近くを歩こう。そう考えれば考えるほど、頭の中の夏臣は妖艶に微笑んだ。柔らかく穏やかで、そしてにおいたつ香りを放って。

「あ、星田さん」
 鵠が上伊那駅で降りて駅前のロータリーに出ると、正面にあるバス案内図の横で夏臣が手を上げた。
「こんにちはー、芹澤さん!」
 自然と駆け足になって、コンクリートの階段を一段飛ばしに下りる。
 それが意外だったようで、夏臣はおかしそうに眉を曲げた。
 夏臣はボートネックシャツに薄手のジャケットを羽織っていた。すわん亭に現れる時の襟付きシャツではないことに、鵠は気分が高揚する。
「早いね」
「それ、まんま返しますよ」
 ロータリーに立つ時計台を見ると、まだ待ち合わせ時間の十五分前だった。
「遠いから、なかなか時間調節できなくて」
 自嘲する笑みは、毒にも薬にもならない答えを吐き出した。天気の話と同じ、誰にでも話せる世間話だ。
 夏臣はうまく会話が続くような事柄で鵠のアプローチをかわす。アプローチと言っても、大勢の客がいるすわん亭でのことだ。夏臣に感想を聞いたり、持論を求めたりすると、大抵はきちんと向き合ってくれるが、たまに自分を隠そうとする。
 反対に言えば、それは本心ではなくて、誰がどう扱ってもいい建前だ。単なる捨て石。それが放られれば、核心を避けているという合図も同然だった。
「そうそう、乗り換えうまくいかないっすよねえ。オレも久しぶりだから結構悩んで」
 最初は、同意を示す。
「でも、早く着きたかったし、十五分前でいいや、って来ちゃいました」
 相手の共感も否定もいらないと突き放した声音で、鵠は自分の気持ちを述べた。
 夏臣は小さく微笑む。「そうだね」と頷く以外、自身のことは一切表さない雰囲気だった。
「結構ひと多いね。まだ午前中なのに」
 ロータリーをぐるりと見回して、夏臣は別の話題を振った。
 別にそれでいい。飴玉を渡すように、一つずつ自分の想いを与えれば、それはいつしか手一杯になる。嫌でも気づくだろう。
 気づいているならば、自分が気づいていることを無視できなくなる。
 その頃には外堀を埋めて気持ちを伝えるつもりでいた。一番怖いのは、ある日ぱったりとすわん亭に来なくなることだ。
「最近はかなり大々的にやってるみたいっすよ。公園全体に出店があって、城跡前広場で菊蔵踊りの大会があって」
 スマホで公式サイトを確認すると、公園のいたるところで催しものが開かれているのがわかる。近くの商店街では特別セールやくじ引きが行われ、街全体でこの日を盛り上げていることがわかった。
 ほら、とスマホを見せようとすると、夏臣は人の流れる方向へ歩き出している。しかし、それは公園の方向ではないと鵠は知っていた。
「あ、夏臣さん、こっ、ち……」
 夏臣が向いた方とは反対の道を指差した鵠は、声をすぼめた。
 夏臣の瞬く瞳が振り返る。驚いた様子は見せないが、わずかに力が入った口元から「夏臣さん」が聞こえたことを鵠は悟った。
「あー、ほら、ええと」
 意味のない言葉を吐いて、言い訳を構築する。夏臣のあどけない表情からは、憤慨や拒絶の色は読み取れない。しかし、それは容認と直結しているとは言い難かった。
「前に、串田さんが姓名判断した時に、聞いたから」
 常連のキャリアウーマン・串田とは夏臣も面識がある。酒の席で突然「皆を占ってあげよう」と串田が名前や生年月日を訊いて回ったのだ。串田が法律関係の堅い仕事だと知っている者も多く、彼らは名前を明かして串田に付き合った。夏臣もその一人だ。
「芹澤夏臣、生年月日は……」
 串田が占いサイトに夏臣の情報を打ちこんでいく傍ら、鵠は頭の中で何度も反芻して憶えた。
「ああ、あったあった」
 夏臣は気にした風でもなく懐かしむ。
 そんな風に柔らかく唇を持ち上げるものだから、鵠は期待をこめて一歩踏みこんだ。
「夏臣さんでいい?」
 かすかに瞼がふるえ、目が見開かれる。すぐに瞬きをして、いつもの優しげな眼差しに戻った。
 口が開く。心が胸の中で振動した。ごまかすことがうまい夏臣が、どんな言葉を吐き出すのか想像できなかった。
「うん、いいよ」
 昼食のメニューを決める時のような軽快さで、夏臣が受け入れる。
 並んだ肩の距離は変わらないのに、少し近くなった気がした。触れられる間合いに入る。
 まだ。
 まだ、手を伸ばせばかわされるだろう。
 祭りが開かれる公園までまっすぐな歩道が続く。
 正面を見据えていた夏臣の茶色い瞳が、隣にいる鵠に向いた。
「星田さんはなんて名前なの?」
「鵠です」
「くぐい?」
 聞きなじみのない音に、夏臣は首を傾げる。何十回とされてきた問答なのに、夏臣には聞いてほしいと思う。
「白鳥のことらしいですよ」
 どこか他人事のように呟いたのは、それをつけた両親も同じように「白鳥のことらしいよ」と答えたからだ。命名した本人さえ曖昧な認識でいる、おかしな名前だった。
「いい名前だね」
 夏臣の感嘆を含んだ声は社交辞令に聞こえなかった。
「いい名前、ですかね」
 それでも卑屈に受け取ってしまうのは、鵠自身がこの名前を素直に好きになれなかったからだ。美しい白鳥になれない、みにくいアヒルの子のまま、鵠は地べたから空を見上げる。いつも、誰かを見上げては羨んでいる。遠くを見つめる夏臣のことも。
「鵠くん」
 夏臣のテノールの声が名前を呼んだ。ふわりと慈しんで撫でられるような感触。
 がらにもなく、これだけのことで頬が熱くなる。
 呼んだ夏臣は、はにかんで肩を竦めた。
「なんかヘンな感じだね」
 すわん亭での距離感が狂う。くすぐったそうにしている夏臣と、鵠も同じだった。
「オレはそれがいいですけど」
 それでも、もっと近くに行きたい、もっと傍にいたいと願う。店主と客という関係を打破して、触れる相手になりたい。
 夏臣は、
「そう?」
 と、好悪がわからぬ軽妙さで訊き返してくる。
 鵠は確固たる意志を持って、頷いた。
「はい」
「うん、じゃあ、鵠くんで」
 のどかな風のように、夏臣は唱えた。
「で、夏臣さん」
 鵠も、その呼び名が定着するように丁寧に声を紡ぐ。
「そっちじゃないんだけど、お祭り」

 菊蔵祭は上伊那駅から歩いて十分ほどのところにある公園で開かれていた。公園の奥には城跡があり、元々は城下町だった場所のためか大きな道と細い支道が公園内にも残されている。大通りだった道の左右に無数の出店が並び、街灯には協賛の名前が入った提灯がさげられていた。
 鵠は公園入口に掲示されたタイムテーブルを確認する。
 二時からは城跡広場で菊蔵踊りの大会が開催され、子どもから社会人までチームを組んで参加する。夜は優勝チームが発表され、地元演歌歌手のコンサート、最後には公園の隣にある神社から神輿が担がれ近郊を一周する流れだった。
「夏臣さん、二時の大会までぶらぶらし……」
 鵠が夏臣に振り返る。つい先程まで隣に並んでいた夏臣を見失い、鵠は体ごと反転した。
 いた。すぐ近くに夏臣の背中を見つける。伸びた細い背筋が並んだ出店に向いていた。
「夏臣さーん?」
 少し意地悪に呼びかけると、夏臣は猫のように機敏に鵠を見つめた。
 すわん亭では見たこともないくらい、瞳が輝いている。むずむずと持ち上がる唇からは、今この瞬間の期待が見てとれた。十歳も上の大人が、まるで初めて連れてこられた子どものように興奮を隠しきれないでいる。
 鵠は思わず息をふきだした。
「大会がある二時まで出店見て回ろう」
「うん」
 鵠の表情で悟ったのか、夏臣は控えめに頷く。
 それでも、熱の引かない視線を喧噪に注ぐ。まるで、焦がれてやまないものを目の前にしたように。
「すごいね」
 その一言に、夏臣が持つ感動が全て詰まっていた。
 大人になると、知らないものへの高揚感をストレートに他人に表現することが憚られてしまう。十代では無知は愛嬌と捉えられるが、二十歳を越えると無知は罪になり、博識と経験が魅力になる。気心の知れた友人ならともかく、取引相手や知人に「知らない」と告げることは社会的な能力の欠如になり得た。「知らないの?」とマウントを取って、いかに自分が優れているか競っている。それに辟易としながらも、足元をすくわれないように必死に笑顔の裏に本音を閉じこめる。
 夏臣がなんの衒(てら)いもなく昂る気持ちを表すことに、鵠は胸があたたかくなった。立場を争う相手ではなく、共有する相手として自分を隣に置いているという事実が、狂おしいほど嬉しい。
「では、どうぞこちらへ。鵠くんが夏臣さんを案内しますよ」
 わざと畏まったお辞儀をすると、夏臣は声を上げて笑った。
「はい、お願いします」

   * * *

「鵠くん、あれ、鹿が食べてるのテレビで見たことあるよ?」
 夏臣が鵠の袖を引っぱる。
 鵠が目を向けると、老人が鉄板でうすい煎餅を焼いている。
「あれは『ソースせんべい』って言って、奈良の鹿が食べてるのとは違うの、似てるけど」
 鉄板の傍にはルーレットが置かれていて、それを回して何枚購入できるのかが決まる。おたふくソース、梅ペーストなど何種類かのソースから一つ選び、ルーレットの枚数のせんべいにつけてもらうのだ。鵠は一枚一枚ソースにつけながら食べて出店を回った記憶がある。
 今度はソースせんべい屋の隣にある飴細工の出店に、夏臣は釘づけになった。
「あの飴も、食べちゃうの惜しいね。どれくらいとっておけるのかな」
 店の主人が器用に飴をのばし、鋏で鶴の羽根をつくっていく工程は、鵠も素直に見事だと思う。実際、外国人観光客が飴細工を食べずに持って帰ろうとする、という噂は聞いたことがあるが、それも頷けた。
 新しい出店を見つけるたびに、夏臣は感嘆や疑問を口にする。
 夏臣が言っていた「行ったことがない」という告白が本当だったとよくわかった。鵠も、親や友達と何回か行ったことがあるだけで、毎年行っていたというわけではない。しかし、幼少期の強烈な記憶として残っていて、十何年かぶりに来た今日も、これがどんな食べ物かということは思い出せた。
 鵠は夏臣の幼少期を想像する。家の近くに神社や寺がなかった? 厳格な親に止められて行けなかった? いつも物腰柔らかで聡明な夏臣が、祭りを知らないということは予想外だった。年上ならば、こうした地元の行事を一通り経験しているという、根拠のない思いこみもあっただろう。
 しかし、知らない夏臣を嘲笑う気持ちは微塵もない。むしろ、知らないことを素直に認め、疑問を発し、享受することに敬意を抱いた。
 もっと、夏臣を喜ばせたい。驚いて、笑顔になる様を見たい。
 小さく袖を引く指が、離れてしまわないように。

「そうだ、夏臣さん。フラッペ食べようよ」
 鵠が二、三店先にあるフラッペ屋を指差した。案の定、夏臣は聞きなじみのない言葉に首を傾げる。
 店を覗きこむと、そこにはかき氷のペナントがさがっていた。イチゴ、メロン、ブルーハワイ、様々なシロップが店先に陳列されている。
「フラッペ? かき氷?」
「かき氷ですけど、お祭りではフラッペって言うんですよ」
 鵠も正式な由来は知らない。店のおばちゃんに二人分の四百円を渡す。
「えーと、オレはメロンで」
 隣でシロップの名前を読んでいた夏臣が、鵠に小さく耳打ちしてきた。
「鵠くん、ブルーハワイって何味?」
 店主に訊けばいいのにわざわざ鵠に訊ねる辺りがいじらしい。
「ブルーハワイ味です」
 意地の悪い答えを返すと、夏臣は難しい顔をして考えこんでしまった。
「試しに食べてみたら?」
「そうだね、ブルーハワイをください」
 荒く削られた氷に、体に悪そうな色のシロップがぐるりとかけられた。先が丸くカットされたスプーン状のストローで掬い、零れないように口に運ぶ。
 店の前を離れ、ふらふらと食べ歩きをしながら、夏臣は青く染められた氷を崩した。
「この味、好きだなあ」
 夏臣は、ブルーハワイの独特な甘みが気に入ったらしい。
 鵠も、合成甘味料で再現されたメロン味を舌で転がす。
「夏臣さんって、どこの出身なんですか?」
 鵠は大きな枠組みで問いかける。
 都心の高級マンションに住む夏臣がどんな半生を送ってきたのか、鵠の想像の範疇を越えていた。人と距離を詰めるのに、生まれ育った地方・地域を訊ねることは近道だ。
「東京だよ。鵠くんは?」
「オレは藤尾(こっち)の方ですね」
 鵠は藤尾で生まれ育った。六歳の頃に両親が離婚して、父に引き取られた。引き取られた、というとまるで父が親権を勝ち取ったような響きだが、その実、母が逃げるようにいなくなったため父が仕方なく鵠を家に置いた、と言うのが正確だ。
 父は仕事人で鵠を省みなかったため、家ではいつも一人だった。必要最低限の金しか与えられず、鵠も中学生になった頃から家に帰らない日々が続いた。気づけば父は再婚して別の家を持ち、鵠の帰る家はなくなった。
 不良仲間の家を渡り歩き、おせじにも真っ当な仕事をしているように見えない大人に面倒を見てもらい、人生こんなものか、と泥に沈んでいく心持ちで日々を過ごしていた。
 ある日、路上で人を助けるまでは。
 その人が、鵠を泥沼から連れ出した。
「逃げなよ。格好悪いとか、友達がかわいそうとか、何にも考えずに逃げな」
 だから、以来この辺りに来ることはなかった。鵠は全力で逃げたから。
 今も、あの頃の仲間に出くわすのではないかと怯えている。死すら意識するほどに。
 それでも、そうだとしても、夏臣と菊蔵祭に来てよかったと、思っている。

 夏臣が、シロップに濡れて重くなった氷を啜る。柔らかい光を含んだ瞳が、鵠を見やった。
「……前に喘息持ちだって話はしたよね」
 鵠は「聞きました」と首肯する。だからこそ、癖になっていた煙草をやめたのだ。
 鵠が頷いたことを認め、夏臣はストローをいじりながら前を向いて話し始めた。
「子どもの頃から、僕は結構病弱でさ」
 鵠は線の細い夏臣の横顔を見つめた。夏臣の色素の薄い目は、穏やかに祭りを眺めている。
「学校と家と病院以外、ほとんど出掛けたことがなかった。友達とお祭りに行くだなんて、夢のまた夢でさ」
 微笑んで語る夏臣に、そうなるまでどれくらいの時間と労力を費やしたのだろう、という思いが過ぎった。少なくとも、鵠は今この瞬間も無様に慄いている。自分の過去も。夏臣に笑って話せるまで、許せていない。自分を。周囲を。理不尽な境遇への怒りと悲しみが渦巻いている。
 夏臣が同じ気持ちだったかはわからない。しかし、自分に与えられたものを受け入れられるようになるのは容易ではなかっただろう。
 鵠は熱を出して小学校を休んだ時のことを思い出す。体が辛くて苦しかった。ただ、ベッドに寝ているだけしかできない時間が長かった。クラスメイトと遊べないことが悲しかった。自分だけ置いていかれる気分になって怖かった。
 その何倍も何十倍もの時間を、夏臣は経験したのだろう。
 ベランダで遠くを見る双眸の正体が、わかった気がした。他人と自分は違うという、区別だ。ボーダーに明確に区切られた、諦めだ。
「だから、いい大人の今でも結構世間知らずでね。恥ずかしい限りだけど」
「別に、恥ずかしくないですよ」
 鵠が即答すると、夏臣の顔がゆっくりと向いた。目が合う。
「自分が触れてこなかったことなんて、一生知らないままだったりするんだから。オレが知らないことを夏臣さんはたくさん知ってるでしょ」
 大人になったからといって、世界の全てを知るわけではない。ただ、夏臣が知らないだけ。ただ、鵠が知らないだけ。どんなに著名なものでも、どんなにローカルなものでも、それは確実に存在する。
 夏臣の頬が緩み、はにかんだ。
「あ」
 鵠は口の端を持ち上げて、夏臣の顔を覗きこむ。
 戸惑ったように、夏臣が「なに?」と小声で訊ねてきた。
 鵠は含み笑いをして、それから思い切り、舌をべえと出した。
「わっ!」
 夏臣は目を見開く。鵠の舌が一面緑だからだ。
 いたずらが成功した子どものように、鵠は満足そうに歓声を上げた。つられて夏臣も笑いだす。
「夏臣さんも見せてみ?」
 気づいて、夏臣も舌を晒す。
 鵠はスマホでそれを撮影し、夏臣に見せてやった。真っ青に染まった舌を出す自分の姿に、夏臣はさらに肩を揺らす。
「これ、治るの?」
「普通に水飲んだり物食ったりしてたら落ちますよ」
 落ちないもの売っちゃダメじゃん、と至極当然の答えを示すと、夏臣は「そだね、よかった」と安堵して涙を掬った。

(続)
※完成版は次回イベントで頒布予定です。

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