見出し画像

あの頃は、バレーボール選手だった

かつて一度、バレーボールの選手だった。私が「スポーツ選手」だったのは、あの頃だけだったろうな、と思う。

沖縄出身のコーチには、たくさんのことを教わった。気弱だった私を、コーチはあの手この手で立派な選手に育ててくれた。あの頃のことを書き留めてみたい。

「友達が入っているから」という理由で入ったバレーボールクラブ。月・水・金の放課後に練習があったけれど、今思えば、ポップコーンみたいに飛び跳ねていただけだった。和気あいあいとした雰囲気があった。

そこへ、沖縄出身・体育大学へ通う女性のコーチがやってきた。くりくりっとした目がよく動く、少し色黒で小柄な、元気なコーチだった。コーチはいつも、大きな口を開けて「はいさ~!」と体育館に入ってきた。沖縄から小さな太陽がやってきたみたいだった。

コーチはまず、私達に声を出すことを教えた。ボールを受けるときには「はい!」と大きな声を出して、「私が取るよ!」と周りにしっかり伝えること。

ボールは体の正面で受け取ること、1,2,3,のリズムでレシーブすること、膝を使ってボールを送ること。コーチは、バレーボールの「いろは」を教えてくれた。

年明けには、初めての「合宿」が行われた。みんなで夕飯を作って食べるのがメインの交流会だったけれど、「合宿」という耳慣れない響きのカッコよさに満足していた。

翌朝、ユニクロで新調したブルーのフリースが配られた。お揃いのフリースに腕を通すと、チームに一体感が生まれた。新しい匂いのするウェアに身を包んで、みんなで白い息を吐きながら、小学校の体育館に向かって走った。何もかもが楽しかった。

土日も試合が入るようになり、他のチームと対戦することが増えた。コーチはあるとき「強いチームはほぼ間違いなく、挨拶がしっかりとできるから、見てごらん」と言って、礼儀作法に注目させた。確かに、体育館に入ってくるときの雰囲気が違う。お辞儀が揃っていて、圧倒される。私達のチームはまだ、バラバラとしていて、締りがなかった。

「こんにちは!今日一日、よろしくおねがいします」「よろしくおねがいします!」

いつもの体育館で、私達は横一列に並び、キャプテンに続いて大きな声で挨拶の練習をした。最後にはぴしっと決まって、拍手して喜びあった。次からは堂々と、挨拶ができるようになった。

こんな風に、プレーも礼儀作法も一つずつ覚えていき、気づけば「弱小チーム」ではなくなっていた。

ある日、コーチは10本連続ワンマン、という練習をさせた。このメニューは、四方八方に投げるボールを10本連続で返すというもので、技術も、体力も、根性もいる。

私は、その日、ヘトヘトになって、泣きながらボールを受けていた。チームのみんなが応援してくれていたけれど、最後の8本目、9本目で、どうしてもボールを落としてしまう。これでまた1からなのだと思うと、気持ちが折れそうになる。「がんばれよー!」とコーチの励ましの声が飛んでくる。

ようやく10本目が終わったあと、円陣になり、コーチの話を聞いた。 

「今日は、さほがすごく頑張っていたね。どんなに辛くても、手が届かないボールでも、最後まで追うのを辞めなかった。こういう姿勢を、みんなにもぜひ見習ってほしいよ」

てっきり、早く終わらなかったことを指摘されると思っていたから驚いた。コーチはいつでも「どんな気持ちで取り組んでいるか」を見てくれていた。コーチの優しさがじんじんと胸に響いて、せっかく泣き止んだのに、私はまたしゃっくりを上げてしまった。

★★★

練習は厳しくなり、日数も増えた。勝つために、試合に出られない選手も出始めた。チームメイトは仲間であり、ライバルにもなった。

初めてスタートメンバーとしてユニフォームをもらえたときには、こらえきれない喜びを爆発させて、家に帰って、ユニフォームを着て飛び跳ねた。お風呂に入った後もまたユニフォームを着て、しまいには胸に抱いて眠った。絶対にいいプレーをするぞ!と、夢の中でも意気込んでいた。

個々の技術が一定のレベルに達したら、一人に一つずつ、得意技を仕込まれた。セッターなら、トスフェイク。アタッカーなら、クイック。レシーバーなら、二段トス。個々の得意技が合わさって、チームの強さは確実に向上した。

コーチはさらに「相手チームのレベルに合わせるな」と教え始めた。相手チームが自分たちより格下ならば、0点に抑えること。自分たちのサーブミスも、許さないこと。落としてしまった1点の重さについて、反省することが増えた。

21ー5点と相手に許していたところを、21ー0点で勝てるようになってきた頃には、区大会では優勝、都大会出場は当たり前というレベルに達していた。

コーチは常に「スポーツマン」であることを私達に求めた。

「どんなにプレーが上手な選手でも、ベンチに座っている仲間のことを思えないなら、コートに出る資格はないよ。仲間の代表としてコートに立っているという気持ちを、いつでも忘れちゃいけないよ」

実際、コーチは思いやりのない態度を見せた選手は、すぐに交代させて「理由は自分で考えなさい」の一言だった。一度交代させられたら、誰も同じことは繰り返さなかった。

コーチは一歩ずつ、鮮やかに、私達を導いていった。

普通の小学生が、コートに立てば立派な「バレーボール選手」になって、活躍できた。

6年生になる直前、コーチにキャプテンと私が呼び出された。なぜ、私とキャプテンが呼ばれたのかといえば、副キャプテンを私に任せたい、ということを告げるためだった。

また聞けば、コーチは次年度で沖縄へ帰るらしい。寝耳に水で、絶句してしまった。もうすぐコーチがいなくなってしまうなんて。

また、自分はアタックを打てるわけでもなく、チームを引っ張っていくタイプでもなかった。どうして副キャプテンが私なんだろう。

コーチは、私の目を見て、言った。

「あなたは決して目立つ選手ではないけれど、いつも周りのことをよく考えて、声をかけている。練習のときには、自分に厳しく、最後までやり遂げる。チームを支える雰囲気を作ってくれている。だから、コーチがいなくなったあとのチームを、あなたに任せたいと思ったんだよ」

責任ある立場を任されるのが初めてで、身が引き締まる思いがした。

お別れのとき、コーチからもらった手紙には、「チームを頼むぞ、副キャプテン!沖縄っ子・コーチより」と書かれていた。今でもその手紙は大事に取ってある。コーチは私に、自信をつけてくれた。

コーチが沖縄へ帰ってから、とある強豪チームと合同練習を重ねて、都大会でベスト32位まで進んだ。それなのに、神様のいたずらか、いつも一緒に練習していたこのチームと、都大会本番で戦うことになってしまった。

相手チームの監督は、私達一人ひとりの名前はもちろん、得意技に至るまで、知り尽くしていた。裏を返せば、どんな戦術を仕掛ければ私達が対応できないかもよく知っていた。都大会に出場するすべてのチームの中で、最も当たりたくない相手だった。

本番で、相手チームは、ブロックにあえてアタックを当てて、どこへ向かうかわからないワンタッチボールで攻める、という高度な技を繰り出した。私達のチームは、予測不能なボールの連続に、全く対応できなかった。

容赦がない。でも、勝負の世界だから仕方がない。ボロボロに完敗して、6年生最後の大会が終わった。成績は、都大会ベスト16位だった。

私が「バレーボール選手」になって見た世界は、1点を争い、厳しい練習に耐えて、勝つ喜びを味わう世界だった。優勝する1チーム以外、その他すべてのチームが、悔しさを噛み締めて去っていく世界だった。

まだまだ書ききれないことがたくさんある。バレーボールに関わる多くの人達から、たくさんの愛情と時間をかけてもらった。特に、コーチがしてくれたこと、かけてくれた言葉は、こんなにも生き生きと私の中に残っている。

今でもスポーツは大好きだ。楽しむためのスポーツも、その後たくさん経験した。

でもやっぱり、バレーボールの世界大会は特に、夢中になって応援してしまう。たぶん唯一、コートに立つ選手の気持ちがわかるスポーツだから。そして、コーチや仲間たちとのかけがえのない経験を、思い出させてくれるスポーツだから。

バレーボールという、スポーツがくれたもの。

私にとって、一生の宝物だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?