表裏一体
先日、YouTubeのライブ配信で一緒だった妹弟子が、日々の過ごし方について話してくれた。彼女は毎朝、「今日、自分が何をしたいのか」をじっくり考えるのだという。
その話を聞き、僕もやってみようと思った。
朝ではないがちょうど今コインランドリーで洗濯が終わるのを待つ時間があったので、自分自身と向き合ってみる。
まずは、自分の気持ちを整理する。日々は忙しいが、とても楽しい。仕事を通じて関わる人々は幸いにも良い人ばかりで、嫌な思いをすることはほとんどない。唯一の悩みといえば、やりたいことが次々と増えるのに時間が足りないことくらいだ。ただ、もし時間がたっぷりあれば、布団でゴロゴロしてしまうのが僕である。だから、この忙しさは今の自分にとって絶妙なバランスだと思っている。
それでも、忙しい日々を楽しんでいる一方で、胸の奥には小さなモヤモヤが残っている。
この「楽しさ」は本当に「ホンモノ」だろうか?
人と冗談を言い合い、和やかな会話を楽しむのは確かに心地良い。けれどそれは、どこか表面的な楽しさのように感じることがある。例えるなら、プロの棋士と本気の勝負をしているのではなく、指導対局を受けているような感覚だ。自分が弱く、相手の土俵に立てていないもどかしさ。それが心のどこかに引っかかっている。
修行時代を思い出す。上位の相手に練習をお願いするだけでも、大変な覚悟が必要だった。
受けてもらえたとしても、歯ごたえがないと判断されればすぐに切られてしまう。
実力だけでなく、精神的な姿勢までも見抜かれて評価される厳しい世界。だからこそ、やる気を示し、闘争心を全面に出す必要があった。
糸谷先生に教わった「闘争心は本能から湧き上がるもの」という言葉や、
山崎先生からの「弱い者が馴れ合いに甘えるのは相手にとって迷惑だ」という叱咤は、今も私の胸に深く刻まれている。
人と関わる中で感じる楽しさは、人生を豊かにしてくれる大切なものだ。しかし、その楽しさが真に長続きするためには、その裏側に「実力の楽しさ」が必要だと私は思う。
対等な立場で互いに高め合える関係性――それこそが、本当の楽しさの根源だ。修行時代に感じたこの真理を、私は今も大切にしている。
せっかく良い出会いに恵まれている今だからこそ、そのチャンスをしっかり生かしたい。表面的な楽しさに甘んじるのではなく、その裏にある深い楽しさを追い求めて生きていきたい。
そしたらもっと、同僚とのお酒がうまくなるんだろうなあ。