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「言の葉の庭」の背景美術は私に何を与えているのか

私と新海監督作品の出会いは「秒速5センチメートル」である。

高校生のときに、CSで放送されているのを見て、衝撃を受けた。

一方で、一番好きな作品は? と問われると、迷うところもあるが「言の葉の庭」と答えたい。

「言の葉の庭」は「君の名は。」の前の作品で、制作に東宝が入る直前の作品である。ただ、配給に関しては初めて東宝が行っており、スタッフもそれまでとは違う人を多く起用し、音楽担当も異なるなど、製作面においては自主制作の流れを色濃く残していた時代と、「君の名は。」以降のエンターテインメント色の強い作品との過渡期にある作品と言って良い。

内容に関しては、現時点で新海監督の作家色を前面に出した最後の作品とも言える。

ストーリーに関しては色々なところで語られるし、人によって好みもあるだろうから、ここでは触れない。

今回私が書きたいのは背景美術である。

新海作品において、背景美術は極めて重要な役回りを演じているが、「言の葉の庭」はその中でもトップクラスに背景美術が美しい。

それと同時に、舞台が東京であり、ほとんどのシーンで雨が降っていることも印象的である。

私は東京という街が意外と好きである。住むかと言われると住まないかもしれないが、東京に行くと、自分が社会とつながっていて、「まともな人間」であると感じさせてくれるような気がするのだ。

自分らしく、あるがままで生きたいと願いながら、反面それが不道徳で「ダメな人間」のやることだと、自分で自分に突き付けている。私はいつも自分で自分を傷つけている。生きることはいつだって苦しい。だけど、私は「まとも」ではいられない。この葛藤にいつも心が引き裂かれそうだ。

「言の葉の庭」の背景美術は美しい。現実にそれを見たときよりも、確実に美しい。それがゆえ、だからこそ、東京という街への憧れがものの見事に表現されているように感じる。

その東京への憧れとは何か?

東京はカオスでぐちゃぐちゃである。でも、カオスであるということは、色々なものを飲み込む包容力があるともいえる。人間の汚いところも含めて。そこに私はきっと惹かれているのだ。

その包容力が、満員電車や雨の降る街、そして物語の主要な舞台である新宿御苑に表現されている。

雨は本来ネガティブなものだ。雨が降ると聞くと、憂鬱になる人が多いだろう。私自身、何か出かけなくてはいけないときに雨が降っていると、嫌な気分になる。

でも、その雨が、物語においては登場人物を守るシェルターのような役割を果たしている。周囲がネガティブだからこそ、ネガティブであることが許されるという癒しがある。

だから、雨が美しく描かれているのではないか。

主人公たちにとって、雨は決してネガティブなものではない。むしろ、ポジティブなものだ。美しく見えるに違いない。

満員電車だって普通は嫌なものだが、自分が社会とつながっていると思わせる装置であると考えれば、美しく描かれたって、そう不思議ではない。

「言の葉の庭」の背景美術は、ネガティブを美しく描き、私に癒しを与えてくれるものだ。見ていると何だか泣きたくなるのは、そこにカタルシスがあるからだろう。

「言の葉の庭」は、私にとって東京という街への憧憬を駆りたて、その後ろで「ネガティブの肯定」という癒しを与えてくれる作品だ。

今日も私は、生きるのが苦しいとどこかで思いながら、ここで息をしている。

あなたは一人ではない。

もし雨が降ったら、その雨を通じて、私とあなたはつながっている。


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