多層化建築、いわゆるビルと呼ばれる建築にはそれなりの必然性があったし、それなりの意味もあった。それは将来もあるであろうし、社会はそれを必要とするだろう。けれども街を埋めつくすビルを建てるとき、その一人一人の建築家が、ゴシック聖堂のアーチを架けるときのマイスターの、重力にして行為することの重みを、自然というものへの敬虔な恐れを実感したとは思えない。それはたしかな科学の裏付けがあるからだと云えよう。それはその通りであって間違ってはいない。しかしそうであるからこそ、そこに過信と安易な慣れがなかったとは云えない。その過信と慣れが、建築は自然とのかかわりなしに存在出来ると錯覚させ意味の追求の喪失は、同時に根源的なものへの探究の姿勢も失なわせた。安易な結合は相互に干渉し合って、夫々が夫々の意味において存在することをさまたげ、それは真の結合をさまたげ る。自然との共鳴であるべき空間はそこからは生れない。