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宗教と戦後思想史③

統一教会報道に飽きた方。サタンて書いてあるよもういいよ👨🏻‍🚀👩🏻‍🚀。

宗教空間の意味について、数々の宗教建築を残した建築士横山公男さんの手記がありました。
他にもたくさんの文化人の方が大石寺について書き残していたので、こちらに掲載しています。

新興宗教についてこれから活動されたい方はぜひ一読してください。また、現在信者の方の一助になれば幸いです。

建築というものは、使っていただき、見ていただき、感じてい ただく以外にないと私は思うので、建築家というものは、その作品についてあまり多くを語らない方が良いと思う。建築を創る基底にある思想なり主張なりについて述べることは、これはむしろ不可欠と云うべきだが、その建築が語り得ていないことについて言葉で補足するのは意味がない。
 しかし、これまでに幾つかの宗教建築を創って来てみて、また今回大石寺の正本堂を完成してみて、私が考えている宗教建築というものと、かなり多くの人々に考えられている宗教建築というものの概念との間に、いくらかの、或はかなり本質的な喰い違いがある様に思われるので、そのことについては書いておいた方が良いと思う。

 宗教建築を設計するに当って、とりわけ今回の正本堂の設計に際して、私は当然ある考え方に基づいてその建築を創って来た。その考え方とは、いうまでもなく、基本理念と云うべきものであり、また幾つかの意図、主張を含むものである。そして、先に述べた様な概念の喰い違いの原因は、その幾つかの意図にある様に思われるので、ここでは主としてそのことについて書いておきたい。

 基本理念について云えば、それは特に宗教建築に限ったことではなくて、建築というもの全般にわたって、少くとも私にとって適用するものであって、それは一口で云えば、統一の論理とでも云うべきものである。

 建築家が建築を設計するすべての行為の過程を、しかしどうも設計という言葉は、建築家のその全行為を表わすのにはあまり適切ではない様に私には思われるので、たとえばいわゆる設計という行為をはじめる以前にも、建築家は建築をつくることにかかわっているし、また設計図の完成をもって一応設計という行為は終了したと考えられるのだが、実は決してそうではなくて、その後も、ある意味ではその工事が完成した後でも、建築をつくるという行為は続けられているということも出来るので、もちろんそれらを全部含めて設計と呼ぶのだという見方も成り立つわけだが、やはり私はこの間の建築家の全行為は、建築を創ると呼んだ方が適切な様に思うので、ともあれそう呼ばせていただくことにして、その建築を創る全行為を正確に詳細に叙述することは不可能に近い。しかしこの間の行為を、「あらゆる因子の影響が、一つの不可分の統一に達するまで、相互の関連において追求されなけ ればならない。」とユルゲン・イエーディケ (Jürgen Joedicke) が大へん簡潔に要約している。たしかに、建築を創るということは、この追求を繰り返し行なうことにほかならない。

お虫払い大法会

そしてここで重要なことは、何故統一が必要とされ、何によって統一される のか、になければならない。「すべて物はその用途のためと同時に歓びのためにあるのであって、用途と歓びは不可分の関係にあるという考え方は、人間にとって生来のものである。」 とエリッ ク・ギル (Eric Gill) が云う様にそれはもともと不可分のものであるから、分析的に把握されたこの二つの要素の統一が求められるわけである。

しかし、もともと不可分のものを分析することによって理解しようとすることは不可分の統一体を破壊することになり、それは結局その統一体を誤り伝える、ということをトイ ンビーは「歴史の研究」の中で云っている。したがって建築を形成する二つの重要な因子、ギルのいう用途とよろこびを、或は機能と表現を二元論的に把えようとする限りそれは不可分の統一に達することは出来ないであろう。 二つのものとして把えられるならばそれは不可分ではあり得ない。

建築を創ろうとする我々の内面にはたらく理性と感性を、二つのものとして把えるならばそれは不可分の統一に達することは同じ様に出来ないに違いない。それならば、この二つのものを不可分の統一体に導く論理を何処かに求めなければならない。そしてそれはもっと根源的に、心と肉体の統一を導く論理によって導かれるに違いない。精神と物質を二元論として把える立場にたつならば、その関連を説明しなければならない。

八葉の池

この後、4、5、6とページを分けます。

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