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じへークリスチャンのつぶやき

長年在籍した教会が緩やかにカルト化

白い壁にちょっと奥まって控えめについたドアをはじめて開けた日から、たぶん1年が経ちました。

実はそのドアを開けた1週間前にも訪ねていったのだけれど、たまたまお休みだったというか、後で聞いたらその日は他のところで礼拝がある日だったそうで、開かないドアの前で右往左往したあと諦めて帰ったのが1年と一週間前のこと。

教会の日曜日は年中無休だと思い込んでいたから、あの時はびっくりしました。

それまで私は20年近く別の教会に通っていました。今思うと、その教会の牧師は結構なじへー。(ここでは自閉症スペクトラム障害という意味ではなく、自閉タイプという軽い意味で「じへー」と呼びます)

私もじへー。じへークリスチャンがじへー牧師の説教を20年も聞き続けてしまい、そのせいでずいぶん偏った「信仰」を持っていました。

20年の間に教会は緩やかにカルト化していきました。じへーが持っている「なにがなんでも自分の思いを遂行する。周りの声は聞こえない」という特性と牧師という地位が見事に合わさり、気が付くとカルトに似た組織になっていました。イエスマンだけを幹部に据えて、牧師の思い通りに取り仕切ることができる教会になっていくのを見て、自分が信じているものは何かがおかしいと思うようになりました。


どう偏っていて、どうおかしかったのか、それをどうやって気づいていったのか、いろいろあって忘れてしまったこともあるけれど、こうやってnoteに残していって、同じようなことになっている人がいたら参考にしてほしいと思います。


聖書は答えありきで読むものじゃない

いま現在お邪魔させて頂いている教会の礼拝メッセージの中で、「この部分は聖書に書かれていないので、推測するしかないのですが、みなさんはどう考えていますか?」と牧師さんが会衆に聞いた場面があり、私は驚きました。

というのは、以前の教会の牧師は、聖書に書かれていないことを推測するのを良しとしなかったからです。会衆は牧師が説く「正しい答え」を教えてもらう一方通行スタイル。推測すると間違った信仰に行き着くからやめなさいと日頃から注意されていました。

正解か不正解。白か黒。そんなシンプルで極端な思考はじへーならではのもので、じへーの心にスンッと入る居心地のいい世界です。じへーな私はそれに違和感なく従っていました。

これは信徒の正しい信仰を守るためだと教えられてきましたが、そうではなく、牧師の地位を絶対的なものにするための、教会運営のひとつの手法なのだと思います。なんでも上から下へ教えるスタイルです。みんなは疑問があれば牧師を頼り、牧師を見上げます。教会を管理しやすいスタイルの出来上がりです。

たしかに、聖書は神様の書で、神様のこころを示す書です。意味を取り違えないように読むことはとても大事なことです。

だからといって、神様は足し算や引き算の答えのように一つの正解しかないような単純思考でしょうか。私たちの生活全般で、一つの正解しかないような単純な事柄が身の回りにあるでしょうか。時によって、場面によって、人によって、物事にはいろんな側面があって、それぞれ導き出す答えは違います。一つしか正解がないなんてことは、現実的ではないのです。

聖書を読んでいても、それを実生活に適用できなければ意味がありません。それには、聖書の文言だけなぞるのではなく、その奥行きや本質を知ろうとする必要があります。そうでなくては実生活で役に立たないからです。

そうやって考えることを神様がNOと言うでしょうか。言うはずがありません。


聖書について、書かれていない部分を自分で考えることを危険視する教会はご注意ください。

出て行った人と連絡を取るのは危険だと言う教会も十分ご注意ください。

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