雑記①:「心理学を学んでこなくてよかった」と思うことがあった話
1年に1度くらい、「心理学を学んでおけばよかった」と思うことがある。
心理学を胡散臭いと思っているわけではない。
ただ、気づいたら学ばずにこの年まで来てしまった。
他の全ての人と同様に、僕は人の心が分からない。「理解することは出来ないけど、理解しようとすることは出来る」というスタンスでいる。そのための道具として、心理学はきっと有効だったんじゃないか、と思う。
特に、近しい他人が鋭い痛みを抱えているときに、心理学を(もしくは、そこから派生した会話術を)修めていれば、きっともっと力になれたのかもしれないのに、と思うことが、1年に1度くらいある。
それなのに心理学を学ばずにいるのは、明確に怠慢だと思う。
一方で、心理学を学んでしまうことで、自分の言葉で人を励ますことが難しくなってしまうんじゃないか、という恐怖感に似た何かを感じていなくもない。自分の言葉で人を励ますことに、どれだけの意味があるのか分からないのに。
人を励ましたいと思うことは多々あれど、励ましが良い感じに刺さってくれた、という感触を得たことが一度もない。言葉選びが下手だし、思考もとっちらかってしまいがちで要領を得ないから、僕に励まされても「なんとなく励まそうとしていそうだ」という雰囲気以外何も感じることが無く、言葉が薄っぺらく聞こえているんじゃないか、という感触がある。実際、僕の言葉は薄っぺらい。どこまでいっても本人じゃない、本人と同じ経験をしていない、同じ立場にいない人間が、相手の気持ちを推し量る術も持たないまま、ぶっつけ本番で言葉を投げかけている。本質的に薄っぺらいものである言葉を、人に響く形で伝えられる人は本当に凄いと思う。僕は出来ていない。
文字にしてみると、悪い怠慢な気がする。会話術の本くらいは読んだ方がいいかもしれない。鵜呑みにするのではなく、血肉にしていきたい。
他方、何年かに一度、「心理学を学んでこなくてよかった」と思うこともある。直近だと今日、そう思うことがあった。
先日、他大の同期の友人から唐突に「シャニマスのキャラで誰が一番好き?」と聞かれた。シャニマスに触れなくなって3年ほどが経過していたが、好きであることは変わりなかったので「三峰結華」と即答したところ、
「○○高校出身者は七草にちかが好きという仮説が立ったので聞いてみたけど、違った」
という想定外の返答が返ってきた。
「七草にちか」は僕がシャニマスを離れていた期間に追加されたキャラクターで、イラストや漫画などで存在は認知していたが、どういう性格のどういうアイドルなのかは全く知らなかった。知らなかったのでまだ説が成立する可能性がある、と思い、その晩にすぐシャニマスを立ち上げ、3年ぶりのプロデュースを行った。
※以下、「七草にちか」に関するネタバレを多少含みます。
未プレイの方は注意してください。
会話の引用レベルの直接的なネタバレは避けています。
分からなかった。
「七草にちか」が、「七草にちかをプロデュースしているシナリオ上のプロデューサー」が、よく分からなかった。
友人には「一推しは変更なしだが、もう少しコミュを読む」とだけ伝えて眠りについた。
それから2週間、もちろん四六時中というわけではないが、過去イベントのコミュ(「ノーカラット」、ちょうど読み放題期間だった)などを読みながら「七草にちか」と、それに関連するものへ感じる言語化しにくい感覚について思いを馳せていた。
「七草にちか」に関連するコミュは、正直なところだいぶ意地が悪い、もっと言えば露悪的に作られたものだと感じた。
ライターが描き方/描くものを変えれば、心地よい質量を持たせることも出来たと思うが、意図的に描かないことを選択した結果、そのまま嚥下することを拒むものに仕上がっている。これが良いことか悪いことかは置いておいて、個人的に好みか好みでないかで言えば、好みではない。
作中のプロデューサーが持っている情報に比べて、僕が見ることの出来る情報は非常に少なく、「自分は作中のプロデューサーではなく、作中のプロデューサーを操作しているゲームプレイヤーである」ことを強く意識することになる。もちろん、現実の自分は芸能プロダクションのプロデューサーではないし、「七草にちか」などのアイドルの卵たちと街中で出会うことも、彼女たちをWINGの舞台へ導くこともない。作中のプロデューサーはかなり敏腕で優秀な人間なので、これまでの(別のアイドルの)プロデュースでも、自分を重ねられないことはいくらでもあった。
しかし今回は、もしかしたら「七草にちか」そのもの以上に、「七草にちかのプロデューサー」の内面が理解できなかったことが、強烈な隔絶感となって現れた。
「結局、彼はどうして、七草にちかをプロデュースすることに決めたのだろう?」
この根本的な問いが、2週間経っても解けないままでいる。
2週間の間に、「七草にちか」と「七草にちかのプロデューサー」について、頭の中で様々な言語化をすることが出来た。深いネタバレを避けるため、そしてほとんどがココに書き残したいと思わないものだったため書かないが、自分の心の引っかかりを少しずつ紐解いていく感覚は、なかなか久しぶりのものだった。
こういう時、「心理学を学んでこなくてよかった」と思う。
より正確には、「自分でない人が見つけた法則や効果をもとにして心を解釈してしまわずに済んでよかった」と思う。
ちゃんとした心理学徒は既存の法則や効果に疑いを持つことが出来るので問題ないが、僕みたいなのが少し心理学をかじったとしたら、程度の差こそあれいくらか既存の法則や効果に当てはめて解釈してしまうと思う。既存の法則や効果が「七草にちか」を被験者として導かれたものでないにも関わらず、心は人それぞれ違うにも関わらず、「あ~こういう感じね 見たことあるよ」としてしまうかもしれない、みたいな危惧がある。
もちろん、多くの人に当てはまることは特定の人にも当てはまることが多いと思われるし、自分の心のメカニズムを知ることは(少なくとも僕にとって)嬉しいことで、知ることで人生が豊かになる感覚もある。(例えば「単純接触効果」は、何かを今よりもっと好きになるためにはどういう工夫をすればよいのか示してくれたという点で、僕の人生を豊かにしてくれている)
ただ、こういう特殊な例、特に創作のキャラクターについて考えるとき、心理学を学んでこなかったがゆえに生じる手探りの不自由を、愛しく思えることがある。
相手が生身の人間だったら、僕の体験の前に相手の体験が存在するので、こんなふうに2週間経て考えを纏める、みたいなことは難しい。目の前で泣いている人が悩みを打ち明けてきたとき、「うーん2週間待って」はあまりにあんまりだ。相手が創作であるからこそ、双方向のコミュニケーションが行われないからこそ、この不自由を十分に苦しむことが出来る。
2週間向き合った結論として、「七草にちか」は僕には刺さらなかった。
今のところ刺さっていないし、今後追加されるコミュで刺さるようになる気も、あまりしていない。
申し訳ないが、説は立証ならず、ということになる。
その友人が七草にちかを推しているとしたら、推しを否定してしまうような気がして気が引けるので、結論を出してから数時間経った今もまだ伝えられていない。会って話したときに偶然この話題があがったら伝えようと思う。
奇妙な2週間でした。ありがとう友人。ありがとうシャニマス。
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