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雑記2-1:涙を流せることに安心する話

一つ前の記事を書いてから、3か月半が経過した。noteくんももう「記事を投稿して〇か月連続投稿にしませんか?」とか言ってくれない。ごめんて。

この3か月半は何もなかったのかというと、たくさんあった。それはもうたくさんあった。人生で一番忙しかったまである。人間社会に戻るのは大変に大変だった。「だった」というか、現在進行形で大変の真っただ中にいる。自分はいまだにまともな人間からは程遠く、他の人に出来るはずのことが出来ずに日々苦しんでいる。やらなきゃいけないこともやりたいことも出来ていない。ここ最近は特にひどく、体に力が入らなくなってしまうことも少なくない。それでも一応まだ、諦めないでいようとしている。


昨日は特にしんどい日だった。1日何もできず、自室の真ん中でくずおれていた。空腹なのでご飯を食べに行かなければならないが、空腹ゆえに動けない。自重を支えることが出来ず、倒れるまま倒れていた。浅い眠りではなく、短い失神を繰り返していた。

無音に耐えかね、YouTubeを起動し、ゆっくり音声がまとめサイトを読み上げる何でもない動画を開いてBGMとして流すことにした。機能をほとんど停止した頭には内容がスッと入ってきて、記憶するでもなくただ聞き流していた。すると、3動画目あたりか、SSの読み上げが始まった。

どういう内容だったかは割愛するが、とても良かった。倒れながらボロ泣きした。


本当に沈みきっていた数年前の自分は、感情を持つことそのものに罪悪感のようなものを持っていた。自分のような人間は「楽しい」と思ってはならない、「嬉しい」と思ってはならない、「悲しい」と思ってはならない、「苦しい」と思ってはならない。当然のように、「泣く権利」も持っていない。
当時の自分にとって、感情は「今の自分にはない権利」だった。
さらに付け加えると、当時の自分は「生きる権利」も持たなければ「死ぬ権利」も持っていなかった。後者の取得は特に難しかった。

あれから3年ほどが経ち、赦しと助けをもらい、いつの間にか自分を縛る「権利」の概念は、少なくとも他人に関わらない感情については、薄れていった。笑うようになった。喜ぶようにもなった。悲しくなることもあるし、自分について「苦しい」と言えるようにもなった。
泣きたいときに、泣けるようにもなった。


部屋の中心でぺしゃんこになっているとき、自分が人間なのか、人の形をしている何かなのか分からなくなっていることが多い。頭は働かず、やらなきゃいけないことにぐるぐると取り囲まれながら、何もできずにただボーッとしている。こうなった日は大抵の場合、そのまま意識を手放し、明日を迎える。

この日はボロ泣きしているうちに、意識が返ってきた。自分が何かに心を動かしてボロ泣きしていることに、自分がまだボロ泣き出来ることにひどく安心した。涙が頬を伝うたびに、自分のことを人間だと思えた。


都合のいい話だ。結局やらなきゃいけないことすら出来ずにいるくせに、自分を人間だと感じようとしている。人間だと感じられることに安心している。でも、そういう身勝手な希望のおかげで立ち上がることが出来た。少し歩いて、ラーメンを食べ、帰ってきて、寝た。

もう少し頑張れると思った。頑張ろうと思った。
ありがとう、匿名のSS作者さん。ありがとう深夜3時までやってるラーメン屋。ありがとう。


夜明けまであと20日。ここをなんとか耐えられれば勝ち。

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