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雑記⑥:影響を受けやすい人にとって、強いコンテンツに触れることは命がけである、という話

「07月31日までに記事を書くことで連続投稿を4か月に伸ばすことができます。今月もnoteを書いてみませんか?」


noteからまた通知が来た。
書きたいこと自体はいろいろ溜まっていたのだけど、7月は全体的になんとなく忙しく、書かずに末日になってしまった。本当にいろいろあった。ここで書けないようなことがたくさんあった。

今日は書けることのうちの一つ、「強いコンテンツに触れることは命がけである」という話をしよう。


以前(雑記③)、「自分はコンテンツの摂取速度が遅い」という話をしたのだけど、これはその理由の一端に相当する。

自分は良くも悪くも影響を受けやすい人間だ。
『RRR』を観にいけば、映画館を出るころには「山を打ち砕きたい!山を打ち砕かせろ!」という衝動に支配されるし、『嘘喰い』を読めば、命がけのギャンブルをしているわけでもないのに、日常の違和感がやけに目についたりする。頭の回転を速くしようという気分にもなる。
まぁこんなのはかわいいもので、真に警戒しなければならないのは「そのコンテンツに触れる前と触れた後で、不可逆的に、思考に影響が出る」タイプのコンテンツだ。僕はこれを「強いコンテンツ」と呼んでいる。

基本的に「強いコンテンツ」とは「質が良いコンテンツ」だ。少なくとも僕が出会ってきたものは全てそうだった。本当は(僕にとって)という前置きが必要なのだけど、そもそも「強いコンテンツ」自体が今作られた言葉なのと、僕のnoteなので省略する。適宜補って読んでください。


なにがなんだか分からないと思うので、例を挙げよう。
『三月のライオン』という漫画に、こういう見開きのシーンがある。

(「アル」というサイトにnoteに載せるためのURLがあり、「アル」が許諾を取っているので著作権的に大丈夫らしい。ありがたい話!)

このシーンを読んだのは6年前だが、自分の心の一角にずっと居座り続けている。一度これを目にしてしまった以上、それ以前に戻ることはできない。


『サイハテ』というボカロ曲がある。

出会ってから10年以上経つが、僕の死生観というか、死観に大きく影響し続けている。これも出会う前には戻れない。


これまでに出会った「強いコンテンツ」たちは、ほぼすべて、僕の人生を豊かにしてくれている。運が良いともいえるし、都合の良いものだけを選び取っているともいえる。
(2か月後追記:自分が主催している大会の対策問題など、一度でも目を通すことで望まぬ歪みを生じかねさせないものは見ないようにしていることに気づいた。僕は都合の良いものだけを選び取っている。)

今振り返ってみれば「触れてよかったな」と思えるものばかりだが、触れるまでは、触れた後の自分がどうなってしまうのか見当がついていない。だから「強そうなコンテンツ」に触れるときは、毎回命がけの気分で手を伸ばしている。

いよわさんの曲をそう簡単に聴けないのは、きっとこれが原因だ。

手を伸ばすことを躊躇ってしまうことが多いが、それでも、手を伸ばすことをやめたいとは思わない。いつか自分の中に外から持ち込んだ強いコンテンツが充満して破裂してしまうんじゃないか、という危惧は常にあるが、まだ破裂していない。
今後も勇気をもって、軽率に触れていこうと思う。

ひとつを除き。


おそらく、僕の身近にある最も強いコンテンツは、友達の内面事情なんだろうと思う(人の心を「コンテンツ」と呼ぶことに抵抗があるが、ほかに正しい表現を持ってこれなかった。すみません)。

人の内面に触れる際、自分が強いコンテンツに触れるのと同時に、自分が相手にとって「強いコンテンツ」になることを覚悟する必要がある。

正直言ってしまえば、自分は本当に大したことのない人間で、相手にとっての「強いコンテンツ」になるに足る人間だとは思えない。だからこそ、相手の内面に触れる際は、誠実であろう、と強く意識して臨んでいる。

こればっかりは軽率にはできない。出来るようになることもないと思う。


今後どれくらいそういう機会があるかわからないが、自分が(ないし、自分の作るものが)他人にとっての「強いコンテンツ」側に回るとき、与える影響に相当するような、相応の誠実さを湛えていたい。

結論としては、もっと頑張っていきましょうね、となる。
今後もよろしくお願いします、人々。

オチなし。とりとめなし。また来月以降。
23:43 セーフ。


こういう不確かな道に踏み出すことを、軽んじすぎず、恐れすぎずにいたい、みたいな話


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