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ジェイラボオープンワークショップ(座談会)#01 準備記事「世直し系Youtuberについて考える」

今回、新たな試みとして長らく関係性を築いてきたジェイラボ研究員の有志と一定のテーマについて公開座談会を行なうこととなった。もともとジェイラボは僕の理念に基づいて無名なまま身の丈の情報発信ができる人間(同志)を得ることが目的であった。新しい家族の形を模索するという表現をしたこともあった。

そんな中である程度の期間を共に過ごした研究員の皆さんとなら、それなりに語り得ぬ前提を共有して一緒に何かを作り上げることができるかもしれないという期待から、今回このような新たな試みに踏み切ったわけである。この準備記事を踏まえて、良かったら本配信も見ていただけると幸いである。

さて、初回のテーマを何にするのかをメンバーと話し合ったのだが、

せっかくならあまりこれまで扱ってこなかったようなものに敢えて手を出してみようということで、なんとも妙なテーマに落ち着いてしまった。正直なところ、僕は「世直し系YouTuber」と言われても全くピンとこない。まあ、そこはジェイラボのやること、テーマを俯瞰して得られる抽象を扱っていけば、どうにでもなると言えばなる笑 とりあえず、要素を分解するところから始めてみよう。

「世直し系YouTuber」を「世直し」「系」「YouTuber」という三つの要素に分解して一つ一つ見ていくこととする。

世直しとは何か。

直すという語感には、今が悪いから良くするという意味が含まれている。悪いものを良くするのはトートロジー的ではあるが「いいこと」である。ただ、「世」というワードがなかなか曲者で、これがカバーする範囲を規定するのはなかなか難しい。そして、一般的な認識では「世」とは「公共空間」を指している(はずである)。

つまり、世直しとは「公共空間をより良いものにすること」という程度の意味であろう。この言い換えに、ほとんどの人は何の議論の前進も感じないかもしれないが、僕にとって「世」とは公共空間ではないためこの言い換えは重要だ。僕にとっての「世」は極めて私的なものである。だから、世とか世界とかを何の疑問もなく当たり前に共有され得る空間として認識する人々というのは、それが良いことか悪いことかはさておき、思考、認識が一歩手前で止まっている。まあ、いい。それよりも今回注目すべきことは、「直し」というワードの方である。

何かを直すというのは直すスキルの「ある」者が為す行ないであり、何故直すのかというと、直す動機があるからだ。何かを直す動機が何であるかはケースによるだろうが、動機と言っている時点で、これは明確に一人称の行為である。つまり、「直したい」から直している。それは、自身の内なる欲求かもしれないし外からの要請かもしれないが、動機が生まれない限り直さないし、直すという行為は先ほども言ったように、直すスキルのある(持つ)者が為す行ないであり、一定の施し(give)の要素を含んでいる。直すことがいいことであるというのはここに理由がある。

仮にここで「いいこと=正義」だとして、世直しがどの程度正義であるかというのは、正義についての定義が必要なのでここでは余白が足りなすぎるが、少なくとも世直しが正義とみなされる理由は、何らかのスキルやエネルギーを周囲にgiveしていることに一定の利他性があるという根拠に行き着く。

YouTuberであれば数字を取って収益を得るという明確な目的があるが、そこと切り離したコンテンツの内部では「自分のためではなく他人のために自分のエネルギーをgiveしている」という演出が、強く押し出されている。そして、その「正義」コンテンツの結果として収益が発生するというように仕組みが「分離」されていることで、一体何のための行ないなのかが見えにくくなっている。

世直しについては、まあこの辺にしておこう。次は「系」について。

なんでこんなしょうもないところまで拾うのかだが、このワードについては、以前から僕がわりと目の敵にしてきた教育「系」YouTuberとの絡みがあって無視できなかった。○○系という言葉は非常に便利である。○○の周辺を雑に全部まとめてしまう魔法の言葉である。ぶっちゃけ、○○系と○○ぽいはほとんど同義だと思うが、それなら「教育系YouTuber」は「教育ぽいYouTuber」ということになる。しかし、真面目に活動している教育系YouTuberを教育ぽいYouTuberと分類すると、たぶんよく思われない。しかし、意味は同じだ。「世直し系」もほとんど同じ構造になっていて、本当に世直しになっているかはともかく、世直しぽいコンテンツを生み出すことを全般世直し系と雑にまとめることができるはずである。その「雑さ」というかファジーな感じが絶妙にあらゆるツッコミを緩和する。

教育系については、教育という本来かなり定義がガチガチであるはずのジャンルを雑に扱うことに、僕はかなり疑念を持っていた(いまも持っている)。世直し系については、正直実情に明るくはないが、扱いが雑であることはいちいち個別の動画などを確認するまでもなく断言できる。

こういうファジーな表現は、ソーシャルメディアが浸透するにつれて顕著になっている。それはなぜかというと、定義が雑な方が共有(シェア)しやすいからだ。それは、シェアする側に明確な楽ちんさをもたらすが、シェアされる側にとってもメリットがある。Twitter(X)などでも何らかの情報発信が細かいツッコミを受けて炎上しているような様子をよく見かけるが、とにかく情報が雑であればあるほど細かいツッコミから逃げやすくなる。「系」というワードの使用は、間違いなくそうしたシェア文化の感覚の一環である。つまり、世直し系とは「シェアする前提の世直しぽいこと」という意味に解釈できる。

最後に、「YouTuber」について触れておこう。

これは、まともに扱おうとするとかなりテクニカルな議論を必要とするので、ここではおおまかな輪郭しか触れないが、基本的には「YouTubeというメディアを使用した情報発信でビュー数に応じた広告収益を得ている者」というほどの意味であろう。問題は、YouTubeというメディアの本質と広告収益の本質にある。

この辺が議論の本筋になる気がするので詳細は本配信に譲ろうと思う。

  • YouTubeの運営母体が私企業であること

  • 広告とはコミュニケーションに第三者の意図を割り込ませる手段であること

  • そこに「お金」という本質を無視した数字を固定化するツールが組み込まれていること

その辺がヒントになるだろうか。

とりあえず、準備としてこの程度のことは考えてみたが、いかんせん世直し系YouTuberの具体的なコンテンツを知らないままである笑 時間があれば見てみようかとも思ってはいる(いた)のだが、なかなか見る気が起きない。まあその本質を語る程度なら、具体的なコンテンツをいちいち見るまでもない説はある。

本配信でどこまで議論が進むかわからないが、いつもと違って準備しない方向への脱線なども楽しみながら、皆と意見を交わせると良いなと思う。

本配信、是非皆さんもコメントで参加してくれればと思う。お楽しみに。


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にしむらもとい / ジェイラボ所長
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