〔中心性〕と〔透明性〕を兼ね備えること



○〔中心性〕と〔透明性〕とは

 これは大学3年次、

①福井駅前の新栄地区に計画されたテラスについてのレポートの執筆時に考えたこと

②それまでの設計活動でうまく設計できたと思っていた『明石高専キャンパスギャラリー(以降 CG )』『大壁のある2.5世帯住宅』『福井市立図書館(以降 図書館)』

③直前に考えた『過渡期の家(コンペ)』

④『日本の家 展』をみて印象に残った思想

⑤Y-GSA主催のon going を聴講して感じたこと


を用いて、自分の作品において、建築の〔中心性〕と〔透明性〕はどう表れているかを検証した内容です。

ここでいう〔中心性〕と〔透明性〕とは、

〔中心性〕: その建築が都市の中で主役として使われるように計画されていると感じられること

〔透明性〕: その建築が都市の中で脇役として使われるように計画されていると感じられること

であり、以下はその両方が必要であると考え始めたころの文章です。

その後、『東急プラザ銀座』に異なる角度での〔透明性〕を発見することになりますが、こちらは別投稿でご紹介します。


○Facebookの投稿 (2017/10/28)


中心性と透明性を両方兼ね備えること。
新栄テラスのレポートを書くとき、過度期の家を考えたときに、中心性について考えさせられた。

図書館は、5:5に近いものであった。
CGも、5:5に近い。
大壁のある2.5世帯住宅をそういえばやっていた。
あれは、家族内の関係において、5:5になる可能性を持っていた。

公共施設ではやりやすい。
不特定多数が使う事に誰も異議を唱えないからだ。5:5の関係性を心地よく感じる。

住宅が難しく感じる。
過度期の家では、図書館と同様に5:5をそのまま目指した。大壁2.5を意識していたわけではないが、家族内だけで成立する5:5を乗り越えたかった。家族内でのみの5:5は、都市全体で捉えると10:0だと思ったからだ。
(本当にそうなのか?とつい今思ったが)
しかし、住宅において都市全体に対する5:5になり得る可能性か本当に求められているのか?という点で、手が止まった。

一週間ほど前、日本の家展を観てきた。
「都市に開くのは、環境に調和するためである」
プリミティブな建築が屋根や壁を欲したように、強烈なコンテクストのある場所で、順応して暮らすように。納得である。
今見返して見ると、周辺環境に調和する事と別に、人間の中で領域的な感性もある。
プリミティブなものはその両方を満足させるものだったはずなのに、いつから矛盾する軸のようになってしまったのだろう。
1次元上にではなく、2次元上に捉える事が必要だろう。

横国大で北山恒、長谷川豪、中山エリカ、纏め役門脇耕三のトークセッションも聞いた。
中山エリカさんには同意する点が多い。が、違う所も考えないと。
長谷川豪には勉強しろと言われた。おっしゃる通りである。ただ、長谷川豪の思想は、ヒロイックである。「建築の力を信じている」とかっこよく纏めることもできるが、うーん。
そこにも建築の中心性と透明性の比較を感じた。」


参照:新栄テラスHP 


いただいたサポートでもう一日長く生きていけます :)