『思考を開き、意図を離れる』



○橋本健 による 青木淳/平田晃久 の建築論・設計論 (2017/8/21)

 今回は、403architecture[dajiba] の橋本健史の論考『思考を開き、意図を離れる』をもとに学んだこと・考えたことを書きます。

 これは大学三年当時、 Facbook の投稿とコメント機能を利用して、非公開で自分の思考を書きなぐって纏めたものです。この手法は意外と有用で、あと30 題くらい同様に考えを纏めたので、それも追々こちらに投稿します。

 そして、この論考を基にした考察を通して、建築内部 / 建築と都市の間 (その建築が利用されるに至るまで) が相対化され、〔建築の都市への影響〕〔主役 / 脇役 として機能する建築〕へと興味が膨らみました。

 要するに、建築を利用することが前提で建築論・設計論が議論されるわけですが、そこに違和感を感じたのです。利用する前提であること自体が、すでに恣意性の介在ではないか、という具合に。


○論考を拝読してTwitter・Facebook に投稿した内容

Twitter:

「観察力を磨かねば。
"前者は人間からの関わりを根本的に必要としていないが、後者は人間が発見し関わることで初めて成立する。平田の言葉でいうところの「巨樹」は、それ自身人間の意図とは無関係に存在しているが、そこを空間として発見する人間の働きかけがあって、はじめて建築となる。"」

藤本壮介のある項間の関係による建築、つまり「2人以上いるときに おもしろい建築」というのは、ここまで抽象化した意味だったのかもしれない。読み返さねば。」


Facebook:

「"前者は人間からの関わりを根本的に必要としていないが、後者は人間が発見し関わることで初めて成立する。平田の言葉でいうところの「巨樹」は、それ自身人間の意図とは無関係に存在しているが、そこを空間として発見する人間の働きかけがあって、はじめて建築となる。"

この論においてここが新しいと感じた。
が、言っていることは、言われてみれば確かに、である。

あの時、何も分からないなりに感銘を受けた、ガウディの言葉をまたも思い出す。」

「あの展覧会 (ガウディ×井上雄彦 展 @ 兵庫県立美術館) に行った意味は大きい。
設計した建築を観れた事、また何より思想と言葉に触れられた事が大きい。
後に青木の思想に触れ、設計を、0から考える英雄的行為ではなく、発見し変化・調節を行う事だと思えた事は、ガウディの言葉が心に残っていた事も理由としてあるだろう。」

「SARUGAKUから平田晃久を知り、興味を持ったのも結果的に私の思考を豊かにしてくれている。」

「橋本さんを知っていたのも、奇跡である。本当に恵まれている。」

「引用文を中心としたこの気付きは、青木と藤本の思想をちょうど分けているポイントのように感じる。前者は青木(自由さ)、後者は藤本・平田(心地よさ)。
橋本は、これらは「根本的なところが違う」と感じ、その違いは上記のような、目指した豊かな状態の違いではないかと考えた。
しかしそのためにとった(或いは必要とされた)手段は、いずれも「恣意性の排除」であった。」

「ここで私がはっきり宣言しておくべきなのが、私は「恣意性の排除」という設計手法が、建築を考える上で核心を突いているように思う、という事だ。
しかしこの手法はあくまで、その先の豊かな状態の像があってこそ核心をつく(意味を持つ)のである。だから、私自身の中で、橋本のいう「根本的」なもの、どんな状態が豊かな状態なのかという点を自分なりに持つ必要があるだろう。
そしてその豊かな状態を徐々に確立させ(させきりはしないが)、手法を運用・試行する内に、先人達を超える何かを発見できると思う。」

「さて、豊かな状態とはどんな状態であろうか。」

「手嶋保にこの質問をぶつけてみた所、「ずっと佇んでいたくなる場所・空間」との回答を得た。」

「青木の感じている豊かな状態、「自由さ」は何というか、作り手側の気付く人が気付く豊かさというような印象を今は持っている。
藤本・平田の「心地よさ」は手嶋に近い。きっと伊東豊雄の言っていた「場」という考え方にも近いのだろう。また、2人の主張から、それは自然界にある、物と物との関係性そのものである様にも思える。」

「建築の用途によるものか?
長時間一定の場所に留まる種類の用途か、否か。
いや、青木の「自由さ」はどちらにも当てはまる。なぜならそれは、言ってしまえば何でも出来るのだから。その何でもに対応するべく考えられたものであろうから。
そう考えると後者の「心地よさ」は、少なからずそこに留まる事が前提である。
「心地よさ」が「自由さ」の中に所属している様に考えるべきか、2つは全く別のものと考えるべきか。」

「一旦まとめると、「心地よさ」は直感的に分かりやすいし、何というか、すごく王道というか、そう、誰にでも理解しやすい。
自然界の中に、独立したある状態に使用者が寄っていくという構図を発見し、それを実現しようとしているのが、彼らである。」

「あー
「独立したある状態に、使用者が寄っていくという構図」がまさに「恣意性の排除」そのものなのか。
後者の2人がよく言う、自然界の関係性の様な状態というのは、1つ1つ独立したある状態たち(現実では物理的質量をもったものが想像される、あえて複数形)が否応無く関係を持つ事、(またそれらの総体が全体として現れる事)
その構図に後者2人は面白みと「心地よさ」が現れると感じており、前者は「自由さ」を感じている。
その視点からいうと、「自由さ」と「心地よさ」は言い回しが異なるだけ?
いや、でも上記の使用者の前提条件は無視できない。それかこの条件はまた違う次元の話か?」

「いや、やはり言い回しの違いなんかではないだろう。
これは一番最初のコメントに書いた通り、「根本の、豊かな状態の違い」と「同じ手法」である。混同してはならない様に思う。」

「いや、「自由」な状態って「心地良い」よな笑
青木もそういう意味で使ってるよな笑」

「ようは、始めは、前者と後者の目的の違いを、橋本に習い、「独立したある(豊かな)状態にすること」と「独立したある(豊かな)状態に人が関わること」とした。
どちらをもって建築と呼ぶかということであろう。
人が居なくても建築か、人が居て初めて建築か。」

いや、前者は木の前で立っている。そして木をとことん運用してやろう、遊び尽くしてやろうと思ってるのではないだろうか。そう思うと、木はすごく「原っぱ」であるのだろう。うん。どんな遊び方でも思いつきそうで、わくわくする。その木は、自然に出来た形のみで、ある枝が座るための形に予めなっている事はないだろうし、それを見るとわくわく感が少し消失し、幻滅する。
対して後者は木の横に座っている。木を運用すると言うよりかは、木の存在感を堪能している。落ち着く。木がもたらす木陰であったり、木漏れ日、匂いであったりが癒してくれる。

「 ×人が居なくても建築か、人が居て初めて建築か
○建築を運用してやろうとしているか、建築の存在感を堪能しようとしているか」

「そう考えると、青木は後者を考慮に入れた前者、と言うのが今の私の印象である。
藤本・平田らは完全に後者であろう。」

「この考え方に於いては、「堪能する場所」と決めて、木の根っこの部分を椅子の様な形に絶対にしてはならない事に注意しなければならない。あくまで木は「独立した状態」である必要があると思う。それによってそこに新たな木の使い方・見方、建築の使い方・見方が生まれる余地が残されるからである。」

「いや、この考え方は、結局木を運用する考え方を基にしたものであろう。」

そうか、木を「堪能する」方は、木だけでは成り立たないのだ。橋本もそう言っていたではないか。木と使い手が居て、初めて「堪能する」シーンに成るのである。これ以上これを分解する事は意味のない事であろう。

「最終的には、青木が「堪能する」事も考えているかどうかである。言動的には勿論、含まれているように思うが。」

「自分なりの豊かな状態とは何か
から
前者と後者の立ち位置まとめ
になってしまったが、一旦まとまった。」

「前者に対しては、若干近寄りがたい、理解し難い青木独自の意見なんだろうと思っていたが、何のことない、好奇心そそられるわくわくした状態であった。
後者も、2つがあって初めてシーンと成ることを明らかに出来た。」

「この木に対する感覚を、設計中に失わずに持ち続けるのは難しいだろう。。しかし、これで完成した空間の楽しさと言ったら、どちらも恐ろしく素晴らしく成るだろう。」

「補足。
前者の、「関わりを根本的に必要としていない」というのは、つまりそこに立っている木に対して、人が寄っていく等の何かが起こるのである。そして青木のいう「自由さ」(木に関わってから生まれるわくわく感)を、使用者は感じるのである。その場合、木は人が居なくたって木である。居たって木である。人が勝手に運用するのである。
対して後者には木を見つけて近寄る工程はない。いきなり堪能しているシーンから始まるのである。」

「そうなると、後者は建築に入るという行為が、木と利用者がそのシーンに入るという事になるのだろう。
多分これが最近感じている違和感の正体。恣意性が無いと言いつつその関係になることを強いている、その関係にならないと始まらないという感じ。これが建築の内部、恣意性が排除された所の外部で発生している。
そして、この恣意性に関しては、どうしようもないと感じていた反面、「通りすがりで目的にすり替える事」、それ程の強度を持った建築にしたいと考えていた。」

「そしてそれに対して、昨今の交通の充実や電子機器の発達は、始発地から目的地までを円滑に繋ぎ、間に別の事象が入る事を中々許さない強度に達している。」



参照:橋本健史(403architecture[dajiba])による「太田市美術館・図書館」(設計:平田晃久)のレビュー「思考を開き、意図を離れる」, DEZAIN.NET, 2017.08.19



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