【小説】村上春樹でつかまえてーまたは、2003年のグレゴール

やれやれ。
僕は39678回目の「やれやれ」を言い終えると、いかにもうんざりしたといった、閉館間際の貸出カウンターに並んだ列を眺める図書司書みたいな面持ちでその青年に語りかけた。
「また来たのかい」
「また来ました」
「迷惑なんだ」
「僕だって困ってるんです」
「何度もダメだと言っただろ」
「あきらめきれないんです」
「無理なものは無理なんだ。帰ってくれないかな」
「お願いしますよ」
青年は眉間にしわを寄せ上目遣いに僕を見てそう言った。
「ねえ君、世の中にはどうしても無理なことってあるんだ」
「わかってます。それでもあきらめきれないんです」
「ねえ、龍の方じゃないけないのかい」
「だめです。僕、サッカーも経済もキューバ音楽も好きじゃないんです」
「じゃあ何が好きなんだい」
「ビール、スニーカー、ジャズ、ヤクルトスワローズ、スコットフィツジェラルド、ビーフカツレツ…」
「おい、もうたくさんだ。やめてくれないかな」
「趣味は翻訳とマラソンです」
「やれやれ」

39679回目の、今日2回目の「やれやれ」。
毎年春が近づくこの時期になると、この青年と同じ年頃の若者たちが僕のうちにやって来て、ひっきりなしに僕のうちのチャイムを押し続ける。そしてきまって、こんなふうに、不条理な小説みたいなことを言い始めるんだ。
「村上さん、僕、どうしても村上春樹になりたいんです。どうしたらなれるんですか」
こんなふうに、だ。
「しらないよ。だいいち、その方法を知っていたとしても、なぜきみに教えなければいけないんだい。だって、君が村上春樹になったとして、たとえば僕のナイキのランニングシューズや、アップルのパワーブックや、スタンゲッツのレコードなんかも君のものになっちまうんだろ」
「ええ。そういうことになりますね」
「僕の女房もかい」
「もちろんですよ」
青年の目は真剣だった。冗談をいったり、誰かを困らせようとするときの目ではなかった。
「オーケー。君は少し疲れてるんだ。病院へいってお医者さんに会って帰りになにか美味しいものを食べて、それからふかふかのベッドでぐっすり眠るといい。すぐによくなるよ。そして、僕になりたいなんてつまらない思いはすっとどこかに消えるはずさ」
「村上さん!つまらなくなんかないんです!とても大事なことなんです。僕はずっとずっと決めてたんです。二十歳になったら村上春樹なるってずっと昔から決めてたんです」
「ちょっときみ落ち着いてくれよ。もし君が村上春樹になったとしよう。すると村上春樹である僕はいったいどうなっちまうんだい」
「そんなのわかりません」
「わからないってきみ、それはずいぶん無責任じゃないか」
「じゃあ。えーと。毒虫にでもなったらいいじゃないですか」
「毒虫だって。そいつは文学的だね。悪くない」

そこへまたひとりの訪問者。
チャイムの音。僕はドアを開ける。初老のよく日に焼けた男が立っている。
男は僕の顔を見てそれから深々とお辞儀をした。
そして青年の方を向いてこう怒鳴った。
「こーら、田吾作!やーっとみつけただよ」
「父ちゃん!」
青年があわてふためく。どうやら青年の父親のようだ。
「こーの忙しい時期に田植え手伝わねーで親に黙ーって家飛び出してからに」
「ごめんよ。堪忍してけろ」
「さあ、うちさけえって牛のめんどうみてもらうっぺよ」
そういって青年の父親が青年の腕をつかもうとしたとき、青年はするりとそれをかわし、僕を突き飛ばして家の中へと逃げ込んでしまった。青年の父親があわてて靴を脱ぎ「すつれいします」と言って家にあがりこむ。僕もその後を追う。
女房の部屋のドアが開いている。
中を覗くと女房が呆然とした表情で突っ立っている。
「ねえ、ここに男の子がこなかったかな」
「ええ、来たわ。そしてあそこから出て行ったわ」
彼女の指差す先には開かれた窓とそこからはいった風にゆらゆらと揺れるレースのカーテンがあった。
「なんなのいったい」
「例の彼だよ。村上春樹になりたいっていう」
「まあ、またあの坊や来たのね」
「申し訳ねえずら!」
大きな声をあげて青年の父親が僕らにむかって土下座をする。
「先生に息子がえらいご迷惑かけちまって本当に申し訳ねえずら」
「まあまあ、顔をあげてください」
「あいつ、田吾作のやつ、むかしから先生の大ファンなんです。いんや、ファンなんてもんじゃないですよ。ありゃ狂っとります。むーかしっから、いつか東京さ行って村上春樹になるって言っとりましたんでさあ。うちは先祖代代農家をやっとります。百姓の子は百姓になりゃあいんじゃっていつもあいつにゃ言い聞かせてたんです。そんで、あいつもなんやかんやぶつぶついいながらも、毎日真面目に働いとったんです。それがある日、農協に行くとうちを出たきり蒸発しちまいましてね。それでもしやと思って、先生のお宅をうかがったらこの有様。情けなくて涙がでます」
青年の父親は本当においおいと泣き出してしまった。
「どうかおねがいです。警察沙汰にするのだけは勘弁してくだせえ。あいつも根は素直な良い子なんでさあ」
涙まじりにそんなことを言われては僕もまいってしまう。
「村上先生、これ、うちのビニールハウスで採れたトマトです。どうか食べてくだせえ」
そういって、ビニール袋いっぱいのトマトを残して青年の父親は帰っていった。
それから僕はリビングに行きカウチに腰を落ち着けた。
女房がグラスにはいったぺリエを持ってきてくれる。僕はそれをひとくち飲むとぼんやり窓の外の景色を眺めた。夕日に照らされ街がみかん色に染まっている。通りを行く子供たちの転がるような笑い声が聞こえ、そして次第にその声はだんだんと彼方へと消えていく。
僕にもあんな時代があった。
かつて僕も村上春樹になりたいと思う若者のひとりだった。
村上春樹になろうと東京に行き、村上春樹になるために村上春樹なことをしたあの日々。村上春樹になるための手段と機会を常に模索していた。たくさんの本を読んだ。ジャズを聴いた。ビールを飲んだ。「僕」になろうとしていた。
本当に村上春樹になって、村上春樹として生活する今となっては、遠い昔の思い出だ。
テーブルに置かれたぺリエの炭酸がサーっと気持ち良い音をたてる。
はたして、今この日本に、いやこの世界中に、今日来た青年のように村上春樹になりたいと願う若者がいったい何人いるのだろう。村上春樹になるために村上春樹を真似る若者がいったい何人いるのだろう。
どうして若者たちは村上春樹になりたがるんだろう。
僕にはわからない。
わからないよ。
夕日が沈み、空は星星を迎えるべく夜を目指し、銀行員のスーツみたいな灰色から少しずつその色合いを深めていく。
ねえ、プール何杯分ものビールを飲んでも、デビットカッパーフィールドを読み終えるまでスパッゲティを茹でても、双子の女の子が100組遊びに来ても満足させられるくらいのドーナツとコーヒーを用意しても、村上春樹にはなれやしないよ。
村上春樹になるには方法があるんだ。
それはいささかワイルドなやり方で、そして僕、村上春樹だけが知っている。

完全な、夜としか呼べない夜がくる。
女房とひとつのベッドにもぐりこむ。
「ねえ、彼、また来るかな」
「そうね。来ると思うわ。よっぽど村上春樹になりたいらしいもの」
「そうらしいね。まいっちゃうよ」
「ふふふ。自分だって昔はそうだったんでしょ」
「うんまあ…。ねえ。僕が村上春樹になった日のこと、憶えてるかい」
「もちろんよ。あたし、すごく驚いたんだから。旦那、つまり、かつての村上春樹が旅行に行くと家を出たきり、いつまでたっても帰ってこないじゃない。それである日、目が覚めたらキッチンであなたがパンケーキを焼いていて、今日から僕が新しい村上春樹だよ、なんて嬉しそうにいうんですもの」
「そうだったね。ねえ、あの頃僕は25歳だったんだ」
「そう。若かったのね」
「うん。あの頃僕は若かった。ねえ、今の村上春樹、というのはつまり僕と、かつての村上春樹、どっちが素敵かな」
「ばかね。なにいってるのよ。村上春樹は村上春樹よ」
「たしかにそうだけどさ。僕も、かつて村上春樹であった男も、村上春樹で、村上春樹の家に住み、村上春樹の生活をして、村上春樹の妻である君と週に何度かは性交をした。でもね、そこには大きな違いがあるはずだ。ねえ、かつての村上春樹が45歳になろうとしていたとき、僕は25歳だったんだよ。だからさ、ほら、セクシャルな意味で、どっちがより素敵だったかってことがききたいんだ」
「いやあね。しらないわ。おやすみ」
そう言って女房は布団を頭から被った。
それで僕もそれ以上は訊かず、ランプを消して黙って目の前の闇をみつめた。
聞こえるのは外を吹く風の音だけ。まるで、世界の終わりみたいに静かな夜だった。
眼を瞑り、いつも寝るときそうするように、頭の中で羊を数えた。
123匹目の羊を数え終えたとき女房が僕に声をかけた。
「ねえ。ひとつきいていい?」
目を瞑ったまま僕は答える。
「なんだい」
「あなた、どうやって村上春樹になったの」
それまでに女房は一度もその質問をしたことはなかったし、僕も彼女に話そうとしたことがなかった。
話したくなかったというわけじゃない。いつか話すべきなのかもしれないとも思っていたし、いつか話すことになるだろうとも思っていた。
いま、そのときが来た。
急速に口の中が乾くのがわかった。
体を起こし、ベッドテーブルに置かれたボルヴイックのボトルの蓋を開け、水を一口飲んだ。沈黙の中で、喉がごくりと音を立てた。外では雨が降り始めていた。
そして僕は語り始めた。

その頃僕は、村上春樹になるために東京へと出たけれども、結局はその夢をあきらめ、実家に戻って家業の旅館を手伝っていた。父は僕が高校生のときに亡くなり、以来母が女手ひとつできりもりしてきた小さな旅館だ。
生活はひどく単調で、ひどく退屈だった。山奥の小さな街には洒落た会話をかわすための友達もいなければ、黙ってビールを飲むためのバーもなく、そして壊れた車の上から眺めるための海さえもなかった。
休みの日に僕がいく場所と行ったら、子供ばかりが集まる小さな図書館と、演歌ばかりが幅をきかせるCDショップ、そして、釣りをするための深い緑色をした湖があるだけだった。
毎日、パートの仲居さんたちに混ざって、布団を畳んだり押入れにしまったりまた出して敷いたりするうちに一日が終わった。朝起きてから夜眠りにつくまでに、きまって15本のマルボロを吸い、2本の缶ビールを飲み、数え切れないほどの愛想笑いをした。そんな生活が僕をスポイルするのがわかっていたけれども、もはや村上春樹になることをあきらめ、失望の中で暮らす僕には何かを始める気力などなかった。いつか何かが変わるだろうと、ただこの生活を打破してくれるなにかが僕の身に起こるのを待ち続けるだけだった。
そんなある日、宿泊予定者の名簿によく知った名前をみつけた。
僕の本棚にいくつも並ぶその名前は、何枚かの、おそらくは二度と見ることはない名前たちに混じって、ある種の輝きを持ってそこに存在していた。
僕は震える手でその紙切れ(そのとき、僕にとってはキューリー婦人にとってのラジウムほどにみえたわけだけれど)を掴み、何度もその名を声にだして読んだ。
ムラカミハルキムラカミハルキムラカミハルキ、と。
日曜の、玄関口からむこうの山のほうに太陽が沈むのがみえた夕暮れ時、村上春樹が我が家の旅館にひょっこり現れた。はじめて現実にみる村上春樹は雑誌や本の裏表紙で見る容姿とはずいぶん違っているように思えた。
ポロシャツの襟をたて、濃いトラサルディのジーンズを履いて、脇にハンティングワールドのセカンドバッグをはさんでいた。土色の不健康そうな色をしたその顔には、薄い眉毛、つりあがった目に、上向きの鼻、そしてぶ厚い唇がこじんまりと並び、頬は貧相にこけ、ひたいは狭く、その上に鈍い茶色に染まった髪の毛がのっかっていた。
僕は同姓同名の別人なのではないかと少し訝しげたけど、その村上春樹は宿泊者カードの職業欄に堂々と大きくそしてひどく汚い字で、文筆業と書いた。
まじまじとそれを眺める僕にその村上春樹は、
「おれ、小説家なの。ノルウェイの森ってしってる?」
と甲高い声で、どうにも品のない調子でそう言った。
「は、はい」
とうわずった声で返事をする僕の肩をぽんぽんとたたいて村上春樹は満足気に笑った。へっへっへっへ、と、そんなかんじで。
横にいた母が、
「村上さん、温泉のほう先にはいられますか。それとも、もうお部屋にご夕食お持ちしたほうがよろしいでしょうか」
と尋ねると村上春樹は、
「ご飯さきにもってきてよ、はーらへっちゃてっさ」
と言い残し、うちの旅館で一番良い部屋へとベテラン仲居の武田さんに案内されていってしまった。
僕は、がにまたで歩く彼の後ろ姿が廊下のむこうに消えるまで、しばらくはぼうっと眺めていた。
村上春樹の部屋に夕食を持っていったのは僕だった。
本当は武田さんの仕事ではあったのだが、僕が持っていきたいとかわってもらったのだ。
部屋に入ると浴衣に着替えた村上春樹がタバコを吸いながら横になって笑点をみていた。
「あの、夕食おもちしました」
「あんがと」
村上春樹はテレビに顔をむけたままでそう言った。
「失礼します。ごゆっくり」
あまりに素っ気無いのでがっかりした気持ちで部屋を出ようとしたとき、村上春樹はくるりと顔だけをむけて僕に言った。
「ねえ、彼氏、ちょっと」
「え。はい。なんでしょう」
「マッサージ。やってんの?」
「あ。はい。按摩さんですね。いまお呼びします」
「や、あのさ、彼氏、マッサージっていっても、ほら、そっちのマッサージじゃなくってよ」
「はい」
「ほら、もっとやわらかいほうの。ね、わかるでしょ」
「え。と、いいますと」
「んもう。だからさ、ほら、主に下半身のほうをほぐしてくれるやつよ。ね。そういうの、やってないの?」
そういうことか。村上春樹も人の子だな、と思った。
「申し訳ありません。うちではそういうのやってないんですよ」
「じゃあさ、彼氏、なんかこのへんで楽しめるとこってないかなあ」
「はあ。むかしはあったんですけどね、ストリップが。でもそこの踊り子さん、去年の暮れに死んじゃって。もうだいぶ歳でしたからね」
「なんでえババアかよ」
本当の村上春樹はずいぶんと汚い口をきくんだな、と思った。
「講談社のナベちゃんがさー、いいとこだっていうから来たんだけど、なあに、なんにもねえのな」
「いや、でも、あの、温泉が自慢ですので」
「混浴?それとも女風呂がのぞけちゃうの?」
「いや、その、そうじゃないんですけど。でも露天風呂はありますよ」
「まあ、いいや。ねえ、彼氏、あとで風呂のとき俺の背中流しにおいでよ」
「え?」
「わかるんだよ。彼氏さ、おれのファンだろ。わかっちゃうんだよね、そういうの。顔とか、話し方とか、そういうのでさ」
これには驚いた。
「あとでサインもしてあげるよ」
僕はもうまったくもって感激してしまった。
「はい。おねがいします。背中流しに伺います。お風呂行くとき、声かけてくださいね」
「あいよ。じゃあ飯くったら行くからさ、あの玄関のとこにある熊の剥製のへんにいてよ。」
「はい。それじゃあ失礼します」
それから僕はそわそわしてしまって、無意味に廊下をうろうろ歩き回ったり、一度やったはずの玄関の掃除なんかを再びしたりしていると、つまようじを咥えた村上春樹がやって来て、アゴをひょいっと斜め上にあげて僕を呼んだ。それから、約束どおり僕は村上春樹の背中を流し、星空を眺めたりなんかしながらふたりで一緒に露天風呂につかった。
村上春樹はとてもきさくで競馬のことだとかお気に入りのエロ動画サイトのことなんかを語ってくれた。
そして唐突に、「ねえ、彼氏、おれ何歳にみえる?」
と僕に尋ねた。
髪を茶色く染めたりなんかして、若作りをしてはいるけれども、僕にはどうしても40代半ばにしか見えなかった。
それでも僕は、直感的に嘘をついた。
「35歳くらいですか?」
「ブー。こうみえても俺、もうすぐ45歳なんだよね」
「へー。そーなんですかー」僕は驚いたふりをしてそう言った。
「びっくりした?よく若くみられるんだよね。キャバクラのおねえちゃんたちもみんなびっくりすんだよ。へっへっへっへ」
村上春樹はこころから嬉しそうに笑った。
機嫌のよさそうな村上春樹に、僕は思い切ってこんなことを言った。
「あの、村上さん、僕ね、むかし村上春樹になりたかったんです」
「あっそう。で、いまはなりたくないんだ」
そういわれてどきりとした。僕は知っていたんだ。僕がいまでも村上春樹になりたいってことを。実家に戻って以来、その思いを殺して暮らしていることを。
「いまは親の後継いでこの旅館でっかくすることが夢ですから」
僕は嘘をついた。その嘘は、自分自身をだますための嘘でもあった。
「へえ。えらいんだな。ねえ、彼氏、なんで昔は村上春樹になりたかったの?」
そんなふうに素朴にきかれて、僕は考え込んでしまった。なんでだろう。どうして僕は村上春樹になりたかった、いや、なりたいんだろう。
それで僕は逆に村上春樹に質問してみた。
「村上さんは、村上春樹になりたくてなったんですよね。どうして村上春樹になりたかったんですか」
「んー。いや、俺はべつに全然村上春樹になりたいなんて思ったことなかったんだ」
「え。じゃあどうして」
「気がついたらさ、村上春樹になってたの」
ぼくはひどく混乱してしまった。村上春樹が村上春樹になろうとはしていなかっただなんて、そんなことってあるんだろうか。
質問を変えた。
「あ、あの、村上さんは、村上春樹になる前は何をしてたんですか」
「えーとね。工業高校いってたんだけどよ、そこ二年で中退して、板前の修行に大阪のほう行ったのよ。厳しい世界でよ。ほら、ああいうとこって、上下関係があんじゃない。俺さ、すぐかーっとくるタイプだもんでさ、ある日先輩にうるさくいわれて、プッツンいっちゃったのよ。先輩殴ってさ、そんでクビ。それからはさ、水商売だね。これは長くやったんだ。たまに客と喧嘩したりもしたけどさ、店のオーナーがえらく俺のことかわいがってくれてさ、けっこう真面目にやってたのよ。ほんでさ、そんとき職場の女とできちゃってさ、結婚。で、結婚を機会にさ、独立したんだよね。それまでの貯金とさ、親からの借金で。地元で喫茶店はじめたのよ。これがけっこう繁盛したんだよね。バイトも雇ってさ、俺が考えた特製パスタが地元のるるぶにのったりしてさ。うまくいってたんだけどなあ。俺さ、できちゃったんだよね、バイトの子と。ようは不倫だ。で、馬鹿なことしたなあとは思うんだけどさ、嫁さんと、あ、そんとき子供も生まれてたのよ、なのに、女と逃げちゃった。北海道に。そんで二人でさ、スポーツ新聞でみつけたパチンコ屋で住み込み店員やってさ、まあ金はなかったけど、けっこう楽しく暮らしてたんだよ。でもさ、ある日、事件があってさ、俺、村上春樹になっちゃったの」
「え、事件って、あの、どういうことで」
僕の言葉を遮るように村上春樹は言った。
「ねえ、彼氏、ふだん休みの日はなにして遊んでるの」
「あ、はい、えーと、バス釣りなんかしてますね」
「お、いいね。俺、釣りってしたことないんだよ。ねえ、彼氏、日当出すからさ、明日俺をそのバス釣りってのに連れてってよ」
「ええ。もちろんですよ。ちょうど僕、明日休みですから」
「よし。じゃあ昼くらいに俺の部屋呼びにきてよ。おれもう寝るわ」
そう言って、村上春樹は風呂から出ると脱衣場のほうへ行ってしまった。
空を見上げると、さっきまでの輝いていたはずの星たちはどこかに消えてしまって、真っ暗な闇だけがずんぐりと横たわっていた。
翌日、昼食の後、ふたり分の釣竿とウキ、それからクーラーボックスにビールを入るだけ詰めて、さらにはカバンにカティーサークをしのばせて僕は村上春樹の部屋をたずねた。
村上春樹は寝転んであんぐり口を開けながらテレビの昼メロをみていた。
「村上さん、いきましょうか」
「ほいきた」
村上春樹はぴょんっと跳ねるように立ち上がった。
そして僕たちは僕の車で近くの深い緑色をした湖へと向かった。
湖に着くと、平日ということもあってか、僕たちの他に客はみつからず、貸しボート屋のおやじが退屈そうに大きな音でテレビを見ているだけだった。
僕たちふたりはボートを借り、ふたり交代でボートを漕いだ。
頭上の太陽に僕たちは目を細め、東のほうから吹く風が僕たちのシャツをゆらした。
湖の真ん中にきたところで、僕たちはおのおの釣竿を持ち、糸をたらし、バス釣りをはじめた。他愛のないおしゃべりをしながら、互いに背をむけて竿をかまえ、水面を眺めていた。
一時間くらいしたとき、村上春樹が言った。
「ねえ、彼氏、ぜんぜん釣れないじゃない」
「え。いや、そのうち釣れますよ。まだまだ一時間じゃないですか。ずっと待ってずっと待って、ようやく釣れたときの喜び。そこにバス釣りの楽しみがあるんです。釣りって、そういうもんですから」
「なあんだ。つまんね。彼氏、おれもう釣り飽きちゃったよ」
そんなふうに言われては僕も困ってしまう。
「あ、そうだ、村上さん。ビール、たくさん持ってきてますよ」
「え、ほんと?彼氏、ずいぶん気がきくね」
それから僕たちの、真昼の水上宴会がはじまったんだ。
村上春樹はすぐに顔を赤くし、饒舌にいろんなことを語った。
どの作家がインポテンツだとか、どこの出版社で不倫が多いかだとか、どこの風俗店が良いかだとか、そういう類のことだ。
僕には村上春樹にききたいことがたくさんあった。たとえば、外国文学のことなんかだ。
「村上さん、最近村上さんのオススメ外国作家なんていますかね」
村上春樹は苦虫を噛み潰したような顔で僕をみた。そして、唐突に、こんなことを言い出した。
「あのさ、彼氏、ここだけの話だぜ。おれ、小説なんか書いてないよ」
「え!?」
「小説さ、よくわかんないけど、いつのまにかできてんだよね。おれ、書いたことないよ」
「え?え?じゃああの、エッセイやなんかはどうなんですか」
「書いたことないよ。全部うそだし」
「うそ?」
「俺みりゃわかるでしょ。全然本とちがうじゃない。ヨーロッパで暮らしたりさ、アメリカの大学で教えたりさ、そんなこと俺ができるわけないじゃない。マラソンなんかまっぴらごめんだよ」
そういって村上春樹はブルゾンのポケットからライターとKENTライトを取り出して火をつけた。酒で顔を赤らませ、ぶあつい唇をとがらせてタバコを吸う彼は、まるで漫画のタコみたいにみえた。
「あの、顔も写真とずいぶん違いますよね」
「そうだろ。あれ、出版社が勝手に用意したんだ。素人だってさ。たしか岩手でうどん屋やってるって聞いたな」
「はあ」
「ねえ、彼氏、テレビなんかでさ、動く村上春樹ってみたことあるかい?」
「ないです」
「だろ。だって、俺が出ちゃったらイメージくずれちゃうもんな。うどん屋出したんじゃボロがでるし」
「はあ」
「とにかくさ、俺、文学のことなんかぜーんぜんわかんないの」
「あ、あの、で、でも、村上さん、村上さんは小説家じゃないじゃないですか。小説を書かない小説家の村上春樹なんておかしいじゃないですか」
「ねえ、彼氏、俺は小説家じゃない。村上春樹なんだよ。小説を書いてるわけじゃない。おれは村上春樹をしているんだ。わかるかな」
「はあ」
「まあいいじゃない、今日は飲もうよ」
そういって、村上春樹はグビグビと音をたてて、ビールを飲み干した。
僕はカバンからカティーサークを取り出して言った。
「村上さん、ウィスキーもありますよ」
「やあ、うれしいな、彼氏ももっと飲みなよ」
「僕、車の運転ありますから」
「なんだ、かたいんだな。じゃあ、俺全部飲んじゃうよ」
村上春樹は僕からカティーサークを奪うようにとり、ラッパ飲みをはじめた。
そんな村上春樹に、僕は昨日いいそびれた質問を試みた。
「村上さん、どうして、なにがあって、村上さんは村上春樹になったんですか?」
村上春樹の顔が一瞬凍りついたようにみえたが、すぐにもとの酔っ払いの顔にもどって、こう言った。
「ねえ、彼氏、彼氏はもう村上春樹になんかなりたくないんだよな」
「ええ。もうちっともなりたいとは思いません」
また僕は嘘をついた。でもこの嘘は、この場においては、つかざるをえない嘘ではあった。
「じゃあ、言ってもいいかな」
そして村上春樹は語り始めた。

あのさ、俺、女と北海道に駆け落ちしたじゃない。ふたりで暮らしてたんだよ。パチンコ屋で働きながらさ。おれさ、残してきた嫁さんのこととか子供のこととか気にはなったけどさ、幸せだったんだよね。好きな女と暮らしてさ。ほんとうに幸せだったんだ。ずっと幸せだと思ってた。でもさ、ある日、俺、みちゃったんだよね。女がさ、男と歩いてるの。その男、同じパチンコ屋のバイト学生だったよ。俺、ピーンときてさ、後をつけたんだ。案の定、ふたりはホテルにはいったよ。なかなかいいホテルだった。ラブホテルなんかじゃなくってさ、なんかさ、ネクタイ締めた大学出の野郎なんかが泊まるそんなホテルだった。俺さ、もう完全にプッツンきちゃってさ、近くの金物屋にとびこんで包丁買ってさ、ホテル乗り込んでいったの。
フロントのやつが、気の毒になるくらい気の弱そうなやつでさ、すぐ部屋の番号教えるんだもんな。だめだよな。こっちはむき出しで包丁持ってるんだぜ。まったくマヌケなやつだよな。俺さ、やつらの部屋に行ってさ、ドンドンとやつらの部屋のドアを叩いたよ。そしたら、阿呆みたいな顔して男がでてきた。何もいわずぶすりと刺してやった。それから部屋に入ると女がいた。何かおれに言った気がしたけど、よく憶えてない。何回も何回も刺した。それから、血まみれのままさ、部屋でぼうっとしてたのよ。冷蔵庫からビールを出して飲んだりもした。そのうち、パトカーの音がきこえたんだ。フロントのやつが呼んだんだろうな。ほんとうにマヌケなやつだよ。事件が起きてから警察を呼んだんじゃ遅いっていうの。俺さ、急にこわくなっちゃってさ、とにかく部屋をでたんだ。そしたらさ、すぐ目の前の部屋に男が鍵をさして入ろうしてるじゃない。俺さ、男と一緒にその部屋に逃げ込んだんだよ。
妙な男だった。包丁を持って血まみれの俺を見てもさ、まったく顔色を変えないんだ。それでもってこんなことを言うんだ。
「やれやれ、ずいぶん派手にやったみたいだね」って、すごく落ち着いた調子でさ。
さらに男は言うんだ。
「丁度いいところに来てくれた。ついでに僕も刺してくれないかな」
「いったいおまえは何者だ」気が動転してる俺はずいぶんでっかい声できいたと思う。
男は答えた。「僕は村上春樹だ」ってね。
俺、名前だけは知ってたんだよね。女がさ、読んでたんだ。ノルウェイの森。そのときすごく売れてたんだよ。教養のねえ俺でも知ってるくらいに。ずいぶん稼いでるんだろうなって羨ましく思ったりもしてた。そんな男がさ、目の前にいて殺してくれっていうじゃねえ。
「どうして死にてえんだ」っておれは聞いたんだ。
「村上春樹であることに、飽きたんだ」ってそいつは言うわけ。
俺、言ってやったんだ。
「あんた、あんたのこと好いてる人がこの世に何人いるか知ってるか。なあ、みんなを悲しませちゃいけねえ。死ぬなんて馬鹿なことをはよしな」
すると、村上春樹はこういったんだ。
「ねえ、きみ、正確にいうと、僕は死にたいわけじゃない。ただ村上春樹をやめたくなった、ただそれだけさ。僕は一度死んで、村上春樹じゃない別のものになるんだ。先代の村上春樹がね、教えてくれたんだ。一度村上春樹になったものは、好むと好まざるに関わらず、別の何者かとして再生するんだってね。ねえ、きみ、きみが次の村上春樹になりなよ。本当は、次の村上春樹なんてみつける気なかったんだけどさ、ひっそり死んじまおうって思ってたんだけどさ、丁度いい、君が次の村上春樹になってくれよ。小説は書かなくてもいいんだ。ぼくの家のキッチンに床下収納がある。そこに、必要となればいつだって小説やエッセイや翻訳なんかがいつのまに入っていて、それを編集者に渡すだけでいい。ねえ、だから大丈夫、きみが村上春樹をやってくれないかな」
俺は呆然とやつの顔をながめてたよ。やつは黙って備え付けの机の引き出しからピストルをだして、そんな俺に渡した。
「さあ、撃ってくれ、僕の心臓を貫いてくれ。自分で自分を撃つのはちょっと怖くてさ、困ってたところなんだよ。それに、村上春樹を殺したものだけが、村上春樹になれる。そういうきまりなんだ。誰が決めたか知らないけどそういうことになってるんだよ」
両手を広げてやつはいった。
ピストルを持ったまま俺はまだ呆然とやつの平静な顔を眺めていた。そのうち廊下にたくさんの足音がきこえた。警察がきたんだ。
「さあ、はやく、はやくしないと警察につかまっちゃうよ」
村上春樹は俺をせかした。
誰かが、部屋をのドアをノックした。
それで俺は、もっていたピストルを村上春樹の心臓にむけて、引き金をひいた。
そんなふうにして、俺は村上春樹になった。

日が暮れて、カラスが僕たちの頭上をカアカアと鳴きながら旋回していた。
話を終えた村上春樹は、カティーサークの瓶に張られた黄色いラベルを黙ってながめていた。
そんな村上春樹に僕はさらに質問をした。
「村上さん、もし村上春樹をやめることになったら、次は何をします?」
「んー。そうだなあ。うーん。なんにも思いつかねえなあ」
「ライ麦畑」
「ん?」
「ライ麦畑のキャッチャーなんてどうです?」
僕にしてはよくできた冗談だと思った。
「ん。なんだいそりゃ」
「あの、サリンジャーの」
「うーん」
この目の前にいる村上春樹は、村上春樹であるけれども、本当は村上春樹なんかじゃないと思った。
「しらないなあ。なんだいそりゃ」首を傾げて村上春樹は言った。
「主人公がね、どこかのライ麦畑でキャッチャーをやりたいっていうんです」
「うんうん。キャッチャーか。いいね。おれさ、中学のとき野球やってたんだよね。練習するより部室でタバコ吸ったりよその中学のやつらと金属バットもって喧嘩したりする時間のほうが長い、そんな野球部だったけどね。野球好きなんだ。いいね、キャッチャー。彼氏、ピッチャーやりなよ」
「あの、そうじゃないんです、村上さん、ライ麦畑のキャッチャーっていうのは、えーと」
村上春樹はどう説明しようかと困っている僕の顔を視点の定まらない眼でみていた。そして唐突に、こんなことを口走った。
「麦畑」
「え?」
「オヨネーズだよ。オヨネーズの麦畑。彼氏、知らない?いい曲なんだよ。よく女とさ、スナックのカラオケでデュエットしたんだ。なつかしいな」
それから、急に村上春樹はひとり手拍子を叩いてそのオヨネーズの麦畑という歌を唄いはじめた。
「おらの嫁こにくるってか~♪オヨネえがったな~♪」
そこまで唄い終えると、村上春樹はさっとボートから身をのりだし、水面にむかって、昼食の、我が家の名物のほうとうをげえげえと吐き出した。
「大丈夫ですか、村上さん」
僕は村上春樹の背中をさすってやった。
「うんうん。大丈夫。彼氏、ありがとな。でも、大丈夫。ちょっと飲みすぎちまったよ。お、おえええ」
深い緑色の湖に小さな波紋ができる。波紋の半分は波となってボートにぶつかる。
村上春樹は吐き続ける。僕は彼の震える背中をさすり続ける。
もうあらかた全て吐き出したように思えたが、村上春樹はボードのへりにつかまったまま顔を水面に向けたままだ。その背中はさっきとは違った調子で小刻みに震えている。
村上春樹は泣いていたんだ。
「大丈夫ですか、村上さん」
「なあ、彼氏、おれさ、あの頃にもどりてえよ」
震える声で村上春樹はそう言った。
「おれさ、もうこんな生活嫌だぜ。そもそも村上春樹なんてガラじゃねえんだよ。あのころにもどりてえ。あのころの幸せな生活にもどりてえ。うっうっう」
嗚咽しながら服の裾で涙をふく村上春樹。しだいにその嗚咽は激しく調子を変え、ついにはわんわんと泣き出してしまった。
僕はそんな彼の様子を黙って見下ろす。村上春樹はそんな僕に尻をつきだし、上半身をボートからはみ出させ、おいおいと泣き続ける。目の前で偉大なる村上春樹が泣いている。十代の頃から憧れだったあの村上春樹が不恰好な様子で泣き続ける。そして、だらしない泣き声に混じってぷぷぷっという屁をこいた音も聞こえた。
僕は村上春樹の尻を思い切り蹴り上げた。
どぼんっという音とも村上春樹は湖へと落っこちた。
「よお、彼氏、なにすんだい」と水中をもがきながら村上春樹が叫んだ。
ボードのへりをつかみ、村上春樹はボートにはいあがろうとする。
僕はクーラーボックスを担ぎ上げ、そんな村上春樹の顔面に思い切りぶつけた。
へりを掴む村上春樹の手は力を失い、今度はずぶずぶっといった調子で湖へと吸い込まれるように沈んでいった。
ボートの上には、いくつもの空き缶と、村上春樹が着ていた白いブルゾンと、ふたつの釣竿、そして僕だけが残った。
僕はその白いブルゾンから財布とおそらくは村上家のものと思われる鍵を抜き取ると、ボートをレンタル小屋へと返し、車に乗って家路へとついた。途中、車を止めて財布の中身を確認すると、そこには村上春樹のクレジットカードや彼の住所が記載された名刺だとかが入っていた。
家に帰ると、母親が僕を迎えた。
「あら、おかえんなさい。村上さんは?」
「あのさ、母さん、あの村上さんはもういないよ」
「まあ、帰っちゃったの?」
「ちがうんだ。今日から僕が新しい村上春樹になったんだ」
「あらまあ」
「だから、この旅館、もう継げないや」
「そう。残念だわ」
「ごめんよ」
「いいのよ。あんた、昔から村上春樹になりたかったんでしょ。よかったじゃない」
「ありがとう、母さん」
「あたしも嬉しいわ。息子が村上春樹だなんてちょっと素敵じゃない」
そう言って母は気丈に笑ったが、目尻ににじむ涙を僕は見逃さなかった。
「じゃあ今日で僕、この家でるから。ちょっと荷物まとめなくちゃ」
そう言って部屋に行こうとする僕の背に母が声をかけた。
「ねえ、ちょっと」
「なに」
「ちゃんと宿泊代はおいてってちょうだいよ」
それから僕は、僕の部屋の本棚から全ての村上春樹の作品をカバンに詰め込み、母親にかつての村上春樹のぶんの宿泊代を払い、東京へとむかった。
旅館をでるとき、母は「ありがとうございました。村上さん、またおこしくださいね」と僕に深々とお辞儀をして言った。
以来僕が母を訪ねることはなかった。

東京ではホテルの一室で一週間ほど過ごした。その間僕は実家から持ってきた村上春樹の本全てをゆっくりていねいに読んだ。村上春樹として、より村上春樹らしくふるまうための準備をしていたんだ。
そしてある日の朝、僕は村上春樹の家をみつけ、白いブルゾンのポケットからみつけた鍵で村上春樹の家に入った。キッチンの床下収納には本当にいくつかの小説とエッセイと翻訳がはいっていた。それから、かつての村上春樹がかつての村上春樹よりも前に村上春樹だった男を殺したときのものと思われる、ピストルもそこにあった。
以来僕は村上春樹として生活をはじめた。
かつての村上春樹よりも、ずっとうまく村上春樹をやっているつもりだ。
「ねえ、そうだろ。僕ほど村上春樹らしい村上春樹はそういないんじゃない?」
横にいる女房にたずねた。
女房はぐうっといういびきでそれに答えた。
やれやれ、僕も寝ることにしよう。

その夜僕は夢をみた。
かつての村上春樹がどこかのライ麦畑で野球のユニフォームを着てキャッチャーマスクとプロテクターを着けてミットをかまえて座っていた。かつての村上春樹は僕をみつけると嬉しそうに手をふった。
「なんだ、おそいじゃない。はやくはやく。はやくこっちにおいでよ」
僕は叫んだ。ねえ、そうじゃないんだ。ライ麦畑のキャッチャーっていうのはそうじゃないんだよ。
村上春樹はうれしそうに笑いながら、
「彼氏、ちゃんと肩はあったまってるかい」
と言って、僕にボールを投げた。ボールは僕の頭上をはるかに越えて飛んでいき、ライ麦畑をころころと転がっていった。僕はそれを全速力で追いかけた。
気がつくと、僕はいつのまにかライ麦畑を端まで走りきり、谷となったその場所から奈落の底へと転げ落ちようとしていた。うわあああああ。
そして僕は夢からさめた。

ドアを開ける音と同時に、廊下から灯りが差し込んできた。
目をこすりながら上半身を起こすと、ドアの前に、女房と、それからあの青年が立っていた。青年は僕の黄色いバスローブを着ていた。女房は白いパンティだけを履き、上には何も着ておらず、白い乳房をあらわにしてそこにいた。
「おはよう」と僕は言った。
「おはようございます」と青年は言った。
「あなたたち、おはようを言うにはまだはやすぎるわ」と女房が言った。
ベッドテーブルの上の置き時計を見た。午前3時45分。
「こんな夜中に君たちは何をしているんだい」
「村上さん、僕、やっぱりどうしても村上春樹になりたいんです」
そう言った青年の右手には、床下に隠してあったはずのあのピストルが握られていた。
「というわけで、村上さん、死んでもらいます」
そう言って青年は銃口を僕に向けた。
僕は女房にむかって叫んだ。
「ねえ、たすけてくれ。ぼくはまだ村上春樹のままでいたいよ。君とも別れたくない」
「あなた、ごめんね。あたし、そろそろ新しい村上春樹が必要なの。より素敵な村上春樹が。というのはつまり、セクシャルな意味においてね」
そういって女房は僕にウィンクした。
「ねえ、僕はどうなっちまうんだろう」
「毒虫になるんじゃなかったの」
「そうです。毒虫になるっていってましたよね、村上さん」
「ちょっとまってくれ、僕は毒虫なんかになりたくないよ。いつまでも僕は村上春樹でいたいんだ」
「村上さん。僕だって村上春樹になりたいんですよ」
青年は声を荒げてそう言い、ピストルの引き金をひいた。ズドンという音とともに、弾丸が、僕の心臓を貫ぬく。
真っ白いシルクのパジャマに赤色の染みができる。
染みは円状にじわじわと広がり始め、それとは反対に僕の意識はどんどんと薄れていく。
しかし痛みは全く感じない。
僕は思った。これは夢にちがいない。だって痛みを感じないもの。
そうだ。これは夢だ。現代日本で最も偉大な小説家、村上春樹がみた陳腐な夢の続きだ。
やれやれ。まったくもってひどい夢だ。
目の前を、そして頭の中を完全な闇が支配する。つまり僕は完全に意識を失って、深い深い眠りに着いたのだ。

そして夜が明けて、目が覚めると、僕は毒虫になっていた。
みしらぬ部屋の、埃くさいベッドの上で、毒虫になった僕は仰向けになって寝ていた。
何本もの手足をばたばたさせてなんとか体を起こし、窓の外の景色を眺めた。部屋の温かみで少し曇った窓の向こうには、古い、東欧らしき街があった。
しばらくぼんやりと窓の欄干に腰をかけて通りを行く人たちを眺めた。それから僕は目の前にある窓ガラスの最も曇っているといえる部分のところに、右手、というのは、正確にいうと一番前についた右足をつかって、窓辺のカフカ、とくだらないダジャレを書いてみようとしたけれども、硬い節足動物である毒虫の僕の手はカシャカシャと嫌な音をたてて窓ガラスの表面をすべるだけだった。
そして、こんなときいつもそうしたように、やれやれ、とつぶやいてはみたけれども、何度試してみたところで、「やれやれ」を言うはずの僕の口からは、ギギギギギッギギギギギッと、ひどく不快な虫の声がもれるだけだった。

ドアのむこうから誰かがゆっくりと階段を登る音がきこえた。
やがてそれは廊下を歩く足音へと変わり、僕のいる部屋の前でとまった。
誰かが部屋の扉をノックした。コッツコッツコッツ。
しばしの沈黙。そしてガチャリと音をたててドアノブがまわる。
僕はありったけの憂鬱と困惑をこめて、もう一度、ギギギギギッと鳴いた。

(おわり)

*20年前に書いたものです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?