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子どもの自由とその責任

雨上がり、園庭に出来た水たまりは、泥遊びの格好のエリアとなる。
砂場用のシャベルとバケツを持ってきて数人が集まって、泥んこ遊びを始める。

近くにいる大人(僕)は微笑ましく見守りつつ、遊び時間が終了する頃には、道具の片付けとともに掘り返した地面を平らにするよう促し、それでも平らにしない場合には、僕自身がスコップを使って綺麗に戻して遊びは終了となる。
保育園の、当たり前の一場面だ。(A)

だが、異動してきたばかりの三年前は、ちょっと違った。

そういった遊びを始める子がいたら、「園庭で砂場のシャベルは使いません」と声をかけ、やめさせていた。
なぜなら、そのような遊びをすると園庭がボコボコになってしまうからだ。ボコボコになったら見栄えはもとより、つまづいて危ない。そうなったらよくないよね?と子どもにも諭して、泥遊びをやめさせていた。水を集めて、砂場でやるように促していた。(B)

この泥遊びに対する対応を、仮にA、Bとする。
AもBもたぶん間違いではない。だが、僕はAを押したい。なかなか言語化が難しい保育に対する考えの違い。
先日同様の場面に接しながら少し考えがまとまったので、言語化してみる。

つまるところ、「自由とそれに伴う責任」についてなのではないかと思う。
大人には自由が与えられている。とともに
、やったことに対する責任をとることも求められる。
逆に言えば、責任をとれる存在だから、自由が与えられているとも言える。

だが、自由にやったことに対する責任が取れない子どもの場合はどうなのか。
責任がとれないから、自由を与えるべきではないのか。
それとも、自由を与えて、責任を取らせるべきなのか。
僕は、自由を与えて、責任を取らせるべきだと考える。あるいは、責任を取るように伝えつつ、取れない場合には、大人が肩代わりすればよいと考える。

でなければ、いつまでも自由は与えられない。自分で考え、行動して、失敗して学ぶこともない。

前述の、「園庭の地面で泥遊びを始めたら、見守りつつ、平らにするよう促し、それでも平らにしない場合には、保育士が片付ける。」
というのは、責任が取れない子どもの場合であっても、まず自由を与え、責任を取るよう伝えつつ、それでも取れない場合には大人が肩代わりする。ということの一例だ。

このことは保育の別の場面や、あるいは家庭での育児においても同様ではないかと考える。

そのように、大人が手助けをすることで、自分なりに考え、実践し、失敗し、学び、また実践することができる。手助けしてくれる大人のもとで、いずれ自分の行動に責任をもつこともできるようになるだろう。

話がやや飛躍するが、「責任を取れる主体にのみ自由を与える」という価値観は、新自由主義下における自由のイメージともリンクする。

あなた(みんな)には自由が与えられている。といいつつ、本当に自由が与えられているのは「経済的に自立している主体」のみだ。

何もかも、お金で手に入る、困ったらお金で解決できる新自由主義においては、お金を持たない主体には、本当の意味で自由は与えられていない。

例えばお腹が空いた時、お金さえあれば、コンビニでたやすくパンを買える。しかし「お金があれば空腹を満たせる」ということは、お金を持たなければ、コンビニで空腹を満たすことが出来ないということだ。その意味では誰にでも「パンを食べる自由」があるわけではない。

経済的自立が自由の条件となる社会では、生きにくさを抱える人も多い。
そして、その生きにくさは、あなたの「自由」の結果だと言われてしまう。自己責任論。
本当は助け合うべきなのに、「僕が成功したのは僕の努力の結果」「努力をしない君が悪い」「自己責任だ」などと言われてしまう。
「自由が与えられているんだから」と。
しかし、そもそもその「自由」は本当の自由だろうか。

話が飛躍してしまった。保育の話に戻る。

自由は誰にでも与えられるべきだ。保育の子どもたちの世界でも、自由を条件付きのものにしてはいけない。
だから、保育の場において、自分自身で責任を取ることを自由の代償としてはいけないと思う。

周りの、取れるだれかが、責任を肩代わりすればいい。
お菓子を食べたら、こぼす。こぼすからお菓子は食べてはいけないものにするのではなく、こぼしたら掃除をする。
掃除をするのは、初めは大人かもしれないが、その姿を見ているうちに、いずれ自分でできるようになる。

おもちゃも、片付けられない子がいたら、得意な誰かが片付ければいい。その手伝ってくれた誰かは、またどこかの場面で、きっと別の誰かに助けられている。

お金を持っていない人、お金を稼ぐことが出来ない人だって、同様に、社会全体で支えればいいと思う。
困っている人がいたら、困っていない人が、手を差し伸べればいいのだ。

保育の場でも、大人の社会でも本当は変わらないのだと思う。
条件なく自由がある、みんなが自由に行動できるというのは、そういう社会を作ることでもある。

誰もがお互いを支え、支えられ、支え合う社会には、まだまだ程遠いが、そんな社会のために、ひとつひとつ考えながら、保育の世界で実践を積み重ねていきたいと思う。

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