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コーヒーを飲みながら



ドトールで飲む熱々のコーヒーが、好きだ。

土曜日の夕方。店内はやや混雑している。
店員はいささか慌ただしい。
前に並ぶ客の対応をしながら、後ろの僕に声をかける。

「少々お待ち下さい。」

滑らかに放たれる言葉は、滑らかすぎるのか言葉以上の意味を持たない。耳に届くのは「少々お待ちください。」という音。それ以下でも以上でもない。

僕が子ども食堂を開いている時、混雑した時にはどんなふうに対応してるっけ、とふと思う。
「ちょっと待ってくださいね。」だったかな。
ばあいによっては「すこし待てますか?」ということもあったかもしれない。

いずれにしても、ドトールよりもちょっとだけ距離が近い。あえてそうしているというよりも、何となく自然にそうなっている。子ども相手なら「ちょっと待っててね。」だ。もっと近い。

その距離感がこちら側としては、ちょうどいい。でも、逆の立場ならどうかな。
状況によるけど、近すぎて少し嫌かもしれない。そういうふうに感じる時もあるかもしれないな、とも思う。

なによりも、ドトールの冷たい、関係性も何もない、縁があるようなないような、その空気感がむしろ心地よくて、だから僕はここに来ている。
店員の顔は覚えてないし、覚えてないから覚えられていないし、いつ来たか、何をしたかも定かじゃない。

気持ちも何もあったもんじゃないけど、温かなコーヒーは、それでも美味い。
ビニールから取り出したレモンのパウンドケーキは、コーヒーとよく合う。
両サイドと遮断された空間でひとり、ただただ染み渡る。

縁のつながりが求められる社会にあって、無縁は否定されがちだけれど、僕自身もその無縁な関係性が何より心地よいと感じる瞬間も確かにある。

コンビニで買うパンも、好きだ。
出勤時、孤独に無表情でいられるのは無縁社会がゆえだ。その時間は僕にとって、確かに大切な時間になっている。

この文脈において、子ども食堂が取り戻そうとしているものは、一言で言えば「有縁」だ。それはもちろん大切だけど、それが絶対で唯一ではないのだろう。

最近はつい、考えが二元論や二項対立的になりがちで、反省する。よきもの、わるきものに分けてとらえがちで、どんどん思考が狭くなってしまう。

なにごとも、よきバランスで、ひろくとらえて、頭ごなしに否定したり、礼賛したりすることなく、向き合ってゆけたらいい。
そんなこと思いながら、すっかり冷えたコーヒーをすする。

ドトールの熱々のコーヒーが、好きだ。

でも、冷めたコーヒーも、悪くはない。

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