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音飛びを愛せるか

本屋で平積みされた本。一番上の一冊を手にとって見る。
パラパラとめくってみて、買うことを決める。
だが、他人が読んだかもしれない、ほんの少しだけよれたその一冊は、元あった場所に戻す。
その下にある、まだ「綺麗な本」を手にとってレジへ行く。

あるいは、気に入っていつも着ている洋服。
たったひとつシミが出来てしまっただけで、それがどうしても許せなくなって着なくなる。
それは、クローゼットの奥にずっとしまわれたまま。

そんな風に、過剰なまでの「完璧」を求める性質はいつから自分の中に存在しているのだろう。

中学生の頃、音楽に初めて触れた頃。
TSUTAYAでCDを借りてきては、MDに録音をしていた。
その頃のMDコンポは少しの振動でも簡単に音飛びしてしまった。
だから録音をするときには、本当に慎重に、慎重に。
古いアパートに住んでいたので、一歩一歩の足音が命取りだった。
弟や母にも声をかけて「足音気をつけて」と。

そうして出来上がったMDを聴いてみる。
なのに、なんでか、ほんのちょっとだけ音飛びしていて、やり直し。
ガーン。そんなことを繰り返す。

今でも覚えている。
JUDY AND MARYのベストアルバムの一曲目。
あれだけ慎重に録音も確認もしたのに、なぜだか音飛びしていた。

再生しても、その音飛びが気になっちゃう。
「もう!」と怒りのような気持ちが出てしまう。
だから、僕のジュディマリのベストはいつも二曲目から再生された。
一曲目は、いっそなかったことにした。

そんな僕も30を超えたが、今も、その「完璧を求める性質」は自分の内の奥深いところに存在しているように思う。

でも、その感覚が少しだけ変わった事に、ついこの間気づいた。iPhoneで音楽を聴いていて、「音飛び」に遭遇した時だ。

ジュディマリの一曲目を思い出すが、でも、感じ方が違った。
「まぁ、これはこれでいいか」と。

嫌だなと思わずに、むしろなんだか悪くないんじゃないと思った。
この部分で音飛びをする、いま聴いているまさしく「この一曲」は、
誰のものでもない、いま聴いている僕だけのもの。
この景色と共にある、僕だけのもの。

あの日のジュディマリは忘れて、いま、今日この曲を、僕は好きになれる気がした。

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聴いていたのはapple musicで、当然音飛びはたまたまのもので、
もう一度聴いても、同じところで飛ぶことはなかったのだけれど。

その曲の音飛びを愛せるか。
あの本のよれを愛せるか。

「完璧」ではない、その個別の「ひとつ」の違い。その具体性を愛することができるか。

話が飛ぶけれど、大人になるというのは、友達を、同僚を、他人を 、
そういった「弱い点」も含めて愛することができるということではないだろうか。

世の中、誰しも完璧じゃない。弱いところもあるし、ミスもする。そんなみんなの個別の「音飛び」を愛せたらいい。みんな「音飛び」しても、それはそれでいいじゃないって。思えたらいい。他者の弱さを愛せる大人になりたいなって思う。

そして、 同時に、そんな弱さを持つ自分もだれかに愛してもらえたらいいな、と思う。

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