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EPPY 01 「二十歳の原点」を読んで

「はじめてのnote」を書いて、早1ヶ月、、、
本当に歳をとるに連れて一日一日経過するのが早い。

ここ最近は、自分で仕事を始めようと思い、本を読みながら、考えに耽る毎日です。

今回の「二十歳の原点」は、荻窪駅の出たところにある、【岩森書店】さんで、購入した古本になります。
高野悦子さんは、その時存じ上げていませんでしたが、「二十歳」という言葉と「原点」という言葉に、思わず手を取りました。
かなり、読み返されたであろうボロボロさで、さっと読むだけのつもりでしたが、裏表紙を見て背筋が伸びたのを覚えています。

孤独、未熟、死

僅か二十歳ながら、何があったのだろう
僅か二十歳ながら、何を考えていたのだろう
そういう疑問符が頭の中を巡回し、読んでみることにしました。

「二十歳の原点」を読んで

人間の生存本能

高野悦子さんはとにかく、孤独を感じていた。
周りの人と相容れない、何か違う
腑に落ちない、人との関係性

僕自身、人と関わらなくてもという思いが強い人間だと常思っている。
でも、思っていることと実際の行動は相反するものだなと、この本を通して感じる。

人間が、社会に溶け込む、グループに溶け込む、それは先人の頃から、
「人間は一人では生きられない」
という生存本能があるから。

もう少し、具体的にいうと、
他者の人から認識(それはいいことでも悪いことでも)されないと、生きているということにならないんだと思う。
もちろん、心臓は動いているから生きているのは生きている。

でも、その上で生きているということを認識するには必ず、外部の刺激が必要になってくる。
それは、人間に限らず、コンクリートに傷つけられる、空気と触れることも一部だろう。
ただ、人間が生きていると認識し、生きようとするか死のうとするかのパラメータは人間との触れ合いで決まるんだろうなと。

実際、僕自身、人間関係は正直少ない。
仕事で関与するのは2人。
地元の友人とは年に一回話すかどうか。
たまに親からの連絡がある。
年に置き換えても、僕の中で刺激となっている人は10人弱だろう。
関わる人があまりに少ないと、自分がわからなくなる。
何が好きで、何が嫌いでとかもそうだが、自分の存在がそこらの置物と何ら変わらないのではないかと考えることもある。
だから、生きると死ぬの境界も、それほど大きな違いではなくなってくる。

「あと10年生きたとて何になるのか。」

「二十歳の原点」 高野悦子著

この文章が、嫌というほど、頭に残っている。

高野悦子さんと境遇が似ている、
とは口が裂けても言えないが、
日記に書いている、「孤独」や「死」についての言葉は、度々腑に落ちた。

ただ、僕は死という行動にまでは及んでいない。
そこの違いはどこにあるのか。
まだここは納得いく回答が出ていないので、気が向いたらまた読んでみる。

まとめ

「二十歳の原点」はとにかく、高野悦子さんの文章表現に圧倒された。
こんな文章を二十歳で書くのか。

ただ、自分の思いを表現する部分は、すごく曖昧?な表現になっているなと感じた。
ここは若さからなのか、自分でも理解できていないのか、

私の中に一人の他人がいる

「二十歳の原点」 高野悦子著

ここは人間誰しもあるんだろうなともいつつ、僕の中でも腑に落ちない。
多くの人がいう自分の中の他人は人間付き合いでというところで多用されている気がするが、僕のは何か違う気がする。
多重人格?に近いもの?
自分なんだけど、何をしでかすかわからない自分?
さっぱりわからん、、

最後に

ともかく、今回の本で、

本って探すよりも、出会うもの

という感覚がある。
この1ヶ月でも本は5冊くらい買ったが、どれも、古本で乱雑な中からスッと手が伸びたものを買うようにしている。
本巡りはこれだからやめられない。


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