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私の実家はキラキラ世界だった。 「ここ」での表現を作るために。

現在、住んでいる家から然程遠くない場所に私の実家はある。
同じ県内、なんなら同じ市内だ。しかし、私は畑をしたり、ヤギや鶏を飼いたい、という願望のため、今まで住んでいた実家とはまた異なる土地に引っ越したのだ。

GWという事もあり、たまには実家でゆっくりしようと昨日から帰省(最早帰省という距離感でもないが)していた。今朝は天気予報の通り、快晴。実家から見える外の景色を見ると、何ともキラキラしていた。快晴だからであろうか?久しぶりに感じるこの感覚に、今住んでいる所と比較して考えた。

外を散歩しても、開放感に溢れている。新緑の季節らしい青々しい緑に、少し強い日差し、風は心地よくて、水辺の水面は輝いている。こんな環境にいれば、自ずと気持ちも希望に溢れてくる。私の視界にあるもの全てがキラキラと輝いているように見えた。もしや、私が今までいた環境はもしやキラキラ世界だったのかもしれない。

2〜3ヶ月ほど前、ヤギと鶏を飼うために、田舎での物件を探している事を大学の恩師に話した。その時、恩師からは「何百年と変わらなかった、変えられなかった人達の風土や考え方は根暗で後向きだ」と教えてもらった。その時は、そうなのかぁ、ぐらいにしか考えていなかったが、今になってその言葉がどういう事なのか、実感として感じることが出来た。

私が今住んでいる集落は小さな高台にある集落だ。近所の人達も良い人たちばかりで、いつも畑で作業をしていたら声を掛けてくれたり、会社から帰る道中にばったり出会うと「今、帰ったのね〜」なんて声を掛けてくれる。
その分、彼らは些細な変化によく気付く。例えば、どこかの家に救急車が来たとする。すると、次の日にはどの家の誰が救急車で運ばれたのか皆知っている、という状態だ。
ポジティブに考えると、スーパー最強のセキュリティシステムが集落には構築されているという事だが、その分いつも誰かがどこかで見ている可能性がある、という事なのだ。そのせいか、住民の家のほとんどの窓はきっちりとカーテンが閉まっている所がほとんどである。
何とも形容し難いが、これがある種の閉塞感に繋がっているのだろうか?と考えたが、そんなに安直な話ではないように思えた。しかし、開放感という観点では、キラキラ世界に存在する実家の環境を上回る事はない。

私は目下の課題として、今後いかに自分がいる場所で表現を行っていくのか、を考える必要があった。そこで、集落に住んでいる時に無意識に感じ取っていた閉塞さ、緊張感が自らの表現の手を止めてしまっていたとするならば、それに対しては何かしらの解決策を練らなくてはならない。
これは単純にキラキラ世界に戻れば良い、という話ではない。キラキラや閉塞感にもグラデーションがあるように、どの具合かによって解決策は全く異なってくる。私は、この場における最適解を見出したいのだ。

キラキラ世界は集落に比べて圧倒的に歴史が浅い分、人は多く、施設やお店の入れ替わりは激しい。ギリギリ隣にどんな人が住んでいるのか知っているぐらいで、救急車が呼ばれても、どこの誰かなんて誰も興味がない。
集落はまさにその逆を行く。しかし、全ての田舎と言われる村や集落が同じような閉塞感がある訳ではない。その土地の地形や気候や歴史によって大きく住んでいる人の考え方に影響を及ぼす為、一つづつ丁寧に考えていきたい。

大学院を卒業し、新生活を迎えて約1ヶ月。私はようやく最初の越えるべき壁を見付ける事が出来たような気がする。


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