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Dual Kaleidoscope 昇藤 6

 自分の社会人としての歩みを一言で表すなら、〝平凡そのもの″だろう。地方国立大学を卒業し、地元では有名であった出版社に就職、少しばかり人より早く出世して、鼻息荒く派閥争いに足を突っ込み、運悪く敗れて閑職に追いやられ、気付けば後十年とちょっとすれば定年という年齢になっていた。本当にどこにでもいそうな中年負け組リーマン、それが僕という人間だった。

 しかし、あの方、神崎部長が転勤してきてから、そんなありふれた僕のサラリーマン人生は全く変わってしまった。


 着任と同時、くだらぬプライドで噛みついた僕を完膚なきまでにやりこめ(人生で初めて女の人に泣かされた)、仕事をしない部下をあの手この手で激励し(中には罵られて喜んでいる奴もいたが)、二ヵ月と経たないうちにお荷物だったうちの部署を改革し、取締役会で聞いたこともないような予算を取り付けるプレゼンを成功させ、事業もあっという間に黒字化させるというサクセスストーリーを身近で体験することになったのだ。部長との仕事は、まるで今までの三十年に渡る勤続年数を凝縮したかのような、とてつもなく濃い時間が流れていた。

 そう、神崎美浦という人間は、僕なんかおよびもつかないぐらい優秀で、同時に僕のような駄目リーマンをうまく使いこなす程器用で、上にいるタヌキどもと渡り合う老獪さをも持ち合わせ、そして、何よりも華があるのだ。

 モデルのような整った顔立ちに、意志のこもった鋭くも怜悧な眼差し、オフィススーツの上からでもその見事さがはっきりわかるプロポーション、黒のストッキングに包まれた肉付きの良い美脚、その全てをさらに際立たせる高いカリスマ性。本当にこんな人間が存在するのかという話題性でもって、うちの会社を掌握してしまったわけだ。

 部長を初めて見た時は、なんでこんな入社数年の小娘みたいな奴の下につかねばならないのだと不満を隠しきれなかったけれど、今となっては共に轡を並べ、その下で働けることを神に感謝する程度には、あの方を敬っている。


 だから、そんな素晴らしい人と、仕事とはいえ昼夜を問わず一緒にいれば、淡い恋心を抱いてしまうのも仕方ないことだろう。何せ神崎部長は綺麗なだけでなく、とてつもなく若々しいのだ。今年で四十になるとは到底考えられない、というより殆ど冗談としか思えない若さをあの人は持っている。

僕も長い社会人経験があるから、仕事の出来る綺麗な中年女性は何人か見てきたが、神崎部長はそういう必死で若作りして美しさを保っている連中とは、もう何もかもが違う。

まず肌に艶がある。皺やほうれい線をファンデーションで隠したりはしておらず、むしろ化粧っ気の少なさがより素材の良さを強調する美肌の持ち主なのだ。加えて、体に張りがあり、動作がキビキビしており見ていて子気味良い。そして、良い働きをした際に、時折見せてくれる笑顔が無邪気で眩しすぎて、僕にはもう――――


「起きろ、近藤」

「……っん?」

 この声は、神崎部長?

 近くから甘い声が聞こえると言うことはまさか、ついに僕は部長と結ばれたのか!?


「早く起きろ!」

「ひっ!?」

 耳元に響く音は甘い囁きではなく、よく聞くあの方の怒声だ。

 驚いて身を起こしてみれば、神崎部長が腕組みしてこちらを見下ろしていた。


「部長? どうして?」

「寝惚けるな。二人でずっと残業していたのだろうが」

「ああ、そういえば……」

 我らが電子出版促進部がリリースしたスマートフォン向けのアプリにバグが見つかり、それを急遽修正するために、残業しなければならなくなったのだった。初めはたいしたことのないバグだと思って、僕が一人で直しておきますと願い出て、一応部長も残って最終チェックをすることになったのが、想像していたよりずっとやっかいなものだったせいで、こうして週初めから朝方まで残業ということになってしまったのだ。


「私の方は終わったから見に来てみれば、まさか転寝しているとはな」

「申し訳ございません! すぐに終わらせますので、部長は先にお帰り下さい」

「馬鹿を言うな、お前のやった部分を確認しないで帰宅など出来るわけないだろう」

「……重ねて申し訳ありません」

 元々僕の見積もりが甘かったせいで迷惑をかけているのに、寝入って余計に時間をとらせてしまい、本当に部長には申し訳が立たない。だが、当の部長は殊の外おだやかで、特に腹を立てている風にも見えないのだ。


「ふん、まさかこの齢になってコードを現場で書くことになるとは思わなかったな。しかもお前みたいな中年リーマンと机を並べて」

「そうですね。ただ、うちは老舗とはいえ所詮は中堅どころなので、どの部署も基本ギリギリの人員なんです」

 うちの社は規模にしては中々頑張っている方だが、出版不況の波には逆らえず、ここ十年は常に赤字すれすれの決算で、既に何度かの人員整理も行っている。むしろ、僕たちの部署は完全に窓際扱いにも関わらず、予算も人員も昔からそこそこには付いていた。


経営陣のテクノロジー全般に対する知識不足に付け込んで、色々と適当なことをやっていたが、神崎部長が転職してきてからは、そんなお為ごかしは通じなくなり、人も金も不足してきたわけだ。

 しかし考えてみれば、その人手不足が原因で、この齢になって取締役クラスである神崎部長と、同じプロジェクトのバグ直しなんてことをやるはめになるとは、不思議なことが起こるものだ。


 そもそも、平凡極まりないサラリーマンである僕が一時は出世コースにのり、社内政治にまで口を出せたのは、僕らの年代にしてはとても珍しく、コンピュータ全般、若い世代の言葉でいうならITに心得があったからだ。若手時代はその知識をいかした記事を何本も書き、中堅になってからはホームページの作成やら、電子機器導入の急先鋒やらになって暴れたものだった。

 そして、権力闘争に敗れて閑職に押しやられ、部長と出会い、また表舞台に立とうとしているのだから、まったく人生はどうなるかわからない。


「流石に予算だけでなく人も増やさなくてはいけないな。まあ、来た当初の体質では何人増やそうが面倒が増えるだけだったから、後回しにしたが、そろそろいいだろう」

「はい、今なら人が増えても問題ないでしょう」

 頷く部長はどこか遠い目をしている。

 この方にはめずらしく、仕事以外の何かに気を取られているようだった。


「部長、その、昨日のことなのですが……」

「昨日? ああ、昨日のことか」

 昨日という言葉に部長は、ほんの少しだけ顔をゆがめた。

 やはり、あの〝告白〟は唐突すぎで、迷惑だったのだろう。

「えっと、昨日はつい勢いであんな恥ずかしいことを言ってしまって、ご迷惑をおかけしました」

「ほう、つまりあの結婚を前提にお付合い云々は気の迷いだったのか?」

 攻撃的な笑みをつくる神崎部長に、狼狽えそうになるが、ここで告白そのものを否定しても逆効果であろうし、何より男らしくない――どうせなら潔く玉砕特攻だ。


「それは違います。あの言葉に嘘偽りはありません。が、時と場所を考えるべきでした」

「ふっ、言うな。四十になってそんな熱烈なアプローチを受けるとは、女冥利に尽きるよ」

「女冥利ですか……」

 なんだ、この得も言えぬ違和感は。

 その茶化す様な口ぶりはどうもしっくりこない。

 僕の件とは別に何かあって、それに気を取られているのだろうか?


「昨日、僕と別れた後に何かあったのですか?」

「うん? どうしてそう思う?」

「いえ、いつもと何かが違うというか、変に優しい態度なので……」

「失礼な、私ほど部下思いで優しい管理職はいないだろう」

 シニカルに笑む部長はやはりどこかおかしい。いつもなら、変に優しいとはどういう意味だと、難癖をつけていびってくるところなのに、何故そんなに寛大な態度なのだ。寛大で心優しい神崎部長なんて、神崎部長ではない――映画版なんてまっぴら御免、普段の尊大で横暴なのがいいのだ。

 これはどうにかして励まして、普段の部長に戻って貰おうと、適当な言葉をかけようとしたその時、ふと、部長は目を伏せ、うつむきがちになった。


「……お前と別れた後、すこしあって息子と喧嘩してしまってな。あんなにきつく言われたのは初めてだったよ」

 さっきとは違う、本当に自分を皮肉っているような哀しげで、憐れみを誘う笑み――息子さんと喧嘩したということより、この人がこんな庇護欲を誘うような表情をすることに僕は驚いていた。


「私は仕事に生きてきた人間だ。だからというわけでもないが、どうも息子たちとうまく折り合いがつかなくてな。良い母親にはなかなかなれない」

「そんな……、そんなことはありません!」

「近藤?」

 突発的に大声を出して否定する僕を、部長は訝しんでいるが、あの少年が、駿君が、母親を嫌っているなんてこともなければ、これだけ立派な人が良い母親でないはずもないのだ。

 確かに神崎部長も人間だから、子育てで間違いをおかすこともあるかもしれないが、それをそのままにしておく人でないことは僕が一番よく知っている。

 そして、あの映画館で駿君と話した時、あの子は母親のことを敬い、気遣っていた。子どもから完全に嫌われ家庭をなくしてしまった僕には、あの思いやりがとても羨ましかったぐらいだ。


「僕は妻と離婚し、子どもたちにも完全に嫌われてしまったので、よくわかりますが、駿君は決して、部長のことを嫌ってはいません。僕に母のことを頼みますとまでいったのですよ」

「……あの馬鹿」

 どうしてそんな切なそうな顔をするのだ。

 男としてその陰があるセクシーな感じは最高にそそるものがあるけれど、もっと素直に喜べばいいだろう。


「だから、部長はもっと自信を持ってください。私は駄目なんだなんていう部長はらしくありません」

 そう、自信満々で、傲慢でこその神崎部長だ。

 殊勝に顧みたりせず、いつも通り自分の正しさと強さを疑わないで、突き進めばいい。


「ふっ、ふふ、はははははっは!」

「部長?」

 突然破顔して大笑いする部長を今度は僕が訝しる番だ。

 常日頃のクールさはどこへいったのですかと問いたいぐらい、今日の部長は表情豊かにふるまっている。


「どうしてお笑いに?」

「いやいや、お前にそう言われる自分が可笑しくてな。一本取られたよ」

「可笑しくなんてないです! 部長は立派なお方ですから!」

「ふふ、そうだな、私は立派なお方だよ」

 優しいげに言う部長はやっぱりらしくない。

……らしくないけど、胸の高鳴りを押さえられないのも事実だ。

 ああ、この人は掛け値なしに美しく、僕はそんな神崎美浦が好きなのだ。

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