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Dual Kaleidoscope 銭葵・上 2

 ツンとしたエスニックチックなスパイスと、酸味を想像させる果物の混じり合った芳香が鼻腔をくすぐった。はて、部長はカレーを作ると言っていたけれど、部屋中を満たしているこの得も言われぬ匂いは、今まで嗅いだことのある〝カレー〟とは一線を画しているように思う。

……正直、あまりいい予感はしない。

 むしろ一抹の不安が心の中に生まれはじめる――そもそも、我が民俗学研究部の部長さま、ここ神旺町では押しも押されぬ名家のご息女であらせられる桂明梨(かつらあかり)さまは、料理という庶民の営みにふれたことがあるのだろうか。実は箸より重いものを持ったことがないのでは? 


 ついで言うなら、あのノリのいい宍戸が手料理と聞いた瞬間に逃げ腰になり、結局部長の誘いに応じなかったというのも気になる。

 一番部長との付き合いの長いあいつのえらく回りくどい断り方は、思えば少し変だったのだ――〝えっ、部長がごちそうしてくれるんですか!? いやー、想像するだけで涎が出そうですね! ところで、その日は夕方のお祭りの時間までバイトなんですよぉ。ここは残念ですけど、部長の手料理は神崎と晃(あきら)に譲ると言うことで!〟

いや、本当に大丈夫なのか? 

多少味が良くなくてもかまわない。

でも、ちゃんと食べられるものが出るんだよな?

不安になって喫茶店で昼食のことを言いかけたもう一人の部員へ視線をやると、望月晃(もちづきあきら)は神妙な面持ちで眼前に敷かれたテーブルクロスの模様を見つめていた。


「なあ、望月は部長が作ったもの食べたことある?」

「……二、三口食べたら、水でも飲んで間を持たせろ。後はあたしが何とかするから」

「はい?」

 何とかするってどういう意味だよ。

 思わせぶりな言葉で余計不安になった俺が詳しい説明を求める前に、望月は急にぎゅっとこちらの手を握りしめる。


「大丈夫だ」

 力強い言葉だ。

 その瞳からは普段よりも一層強い意思が窺え、薄くルージュが塗られたわずかに光沢を放つ唇は真一文字に結ばれている。


「望月?」

「大丈夫だから……」

 俺は大丈夫じゃない!

 握られた手から伝わる望月の体温を意識すると同時に、自分自身で音が聞き取れそうなほど胸の鼓動が高鳴り、顔は真っ赤に紅潮してしまう。ファッション誌の表紙でも飾っていそうなモデル体型と、シャープで整った顔立ちを併せ持つ美人である望月に手を握られて何も感じないはずないだろう。

 いくら部活で普段から見慣れているとはいえ、抜けなく染められた茶髪からのぞくその美貌は、男子高校生には刺激的すぎるのだ。だいたい、ほんの一ヵ月前まで険のある態度だったくせに、仲良くなった途端にやたらめったら優しくされたら困る。今朝のことと合わせて何か勘違いしてしまいそう。


 しかし、それよりも心をかき乱すのは、明らかに望月の手が震えていることだ。何かにおびえるように彼女の左手は小刻みに揺れ、うっすら手汗をかいている。突然手を握ったのも、俺を安心させるというより、むしろ自分の不安をかき消すために誰かに縋りたかったからではないか?

 もちろん、大丈夫と望月は気丈に言い切った。

 けれど、たぶん、これは、まったくもって大丈夫じゃないな。


「部長の料理は――」

「お待たせ、出来たわ」

 疑念は突然のアルトボイスによってかき消される。

 異様に広いダイニングキッチンの奥にある調理場から、漆のような艶をもった黒髪と対をなす真白のエプロンドレスを着こんだ部長が現れたのだった。


「ふふ、待たせてごめんなさい。でも、自分でもうまく出来たと思うわ」

 ――強烈な黒と白のコントラストだ。

 ぴったり体に密着した白色の布生地の上には、なだらかな曲線が浮かんでおり、フリルの下からはしなやかな脚線が生え出ている。


「どうかした? 変な顔になってるけど」

「何でも……、ないです」

 浮世離れした美を漂わせる部長のエプロン姿はあまりに刺激的で、勝手にどぎまぎしてしまった。

一方部長はこちらの動揺などお構いなしに、自慢気な顔で両手に持つ二枚の大皿を俺と望月の前に並べ、向かい側に座り込んだ。テーブルには運んできた二枚の大皿と、元から置かれていた二つの水の入ったグラスがあるだけで、部長の前には何も並べられていない。


「部長は食べないんですか?」

「それが、余らせないように分量を少なめにしたら、二人分しか作れなかったの。だから、私はいいから神崎君と晃が食べて頂戴」

「悪いですよ。二人分を三人で分けて食べませんか?」

「いいの、いいの。ちょうど朝食を食べるのが遅かったらお腹空いてないし、元々いつもお世話になっている私のかわいい部員を労うために作った料理だから」

 遠慮せず召し上がれ。

 部長はニコニコしている。

 対して大皿に盛られたカレーライスらしい何かを見る俺と望月の表情は引き攣ったものになる。

 あれ程望月が怯えていたのだ。

 部長のエプロン姿に悶えている場合ではない。


「本当に私のことは気にしなくていいから、冷めないうちにどうぞ」

「……ええ」

 運ばれてきた大皿の中身へのファーストインプレッションは、悪くないんじゃないかといったところ――色はカレーというよりハヤシライスに近い黒褐色、匂いは甘さと香ばしさを同時に感じさせる不思議な香り。少し変わってはいるが、十分にカレーと分類してもよさそうな見た目と空きっ腹を刺激する匂いに一先ず安心する。あんなに不安を煽る反応を望月がするものだから、えらく身構えてしまったけれども、何ともなさそうだな。

 と、試しにまず一口スプーンですくって食べてみる。


「……ぅっ!?」

 こっ、これは――――お酢をラッパ飲みしたかのような強烈な酸味に加え、香辛料を直接舌に塗り込まれたかのごとき辛みというよりもはや痛みを感じさせてくれるルー、生野菜を直接齧ったのと同等の硬い歯ごたえとゴムそのものの弾力で素晴らしき食感を演出する人参とスジ肉、しっとりした瑞々しさの中にもしっかりした硬さで炊きムラを連想させる米。

 それらが織りなすハーモニーは……。

 マズイ。

 議論の余地もないほどマズイ。

 しかも、マズイけど一応食べ物だよねといえる一線を軽く逸脱した不味さだ。人間としての本能が口に入れてはいけませんと警鐘(けいしょう)を鳴らし、おそらくそれを無視してこれ程の量、まるまる一皿を、食べれば――。

 ゲロる。

 冗談抜きで。


「……いやー、今までに食べたことのない味だ、ははっ」

「でしょう。これでも市販のカレールーは使わずにスパイスから選び、お肉はオーストラリア産のを一晩煮込み、野菜は採れたてのやつをそのまま鍋に入れ、お米はフライパンで炊いた、自信の一品よ」

 なるほど、まともな作り方をせずに自己流で調味料やらスパイスを混ぜ合わせ、脂が過剰にのった外国の肉を旨みが無くなるまで煮込み、買った野菜をおそらく皮もむかずに放り込み、炊飯器で炊けばいいものをわざわざフライパンで米を炊いたと、そういうわけか。

 うん、部長らしい適当さだ。

 せめて味見ぐらいしろ。


「晃はどうかしら? 確か辛いのは得意だったわよね」

「……はい、いたただきます」

 隣でまさに一掬(ひとすく)い、望月は口へ放り込む。

 次に何故かやおら目を閉じ、数瞬の後、カッと見開いた。


 その目は澄みきっており、横顔からは何か冒しがたい崇高さが漂っている。例えるなら、明日に迫る決死の戦いの前に、愛する子供たちへ生還を誓う戦士のごとき覚悟がそこにはあった。

 そして、右手に握るスプーンでどんどん部長作のカレーをかきこんでいく。一口、二口と進む毎に、額からは大粒の汗が流れ、左こぶしは今にも血が流れ出さんばかりに握り込まれている。

 けれども。

 彼女は見事完食したのだった。


「とてもおいしかったです、部長」

 一気呵成に食べ終えた後にそう言う望月は、文句なしに格好良かった。

もう、むしろ漢(おとこ)だ。

 未だに五口目を口に運ぶかどうか、まごまごしている俺とは段違いと言っていい。


「どうした神崎、スプーンが進んでいないぞ? いらないならあたしが貰おう」

「お、おい……」

 望月はほとんど減っていない俺の大皿をさっと手元に引き寄せ、またスプーンでかき込む。表面上はさもおいしそうな表情を装って、どんどんカレーという名の危険物を処理していく。

 言った通り、自分だけでなく俺の分まで〝何とかした〟わけだ。


「やっぱりおいしいです、部長」

「そう。でも神崎君の分まで食べてしまうなんて、ちょっとがっつき過ぎじゃない?」

「朝を……うっ、食べてっぷ――なかったもので。それにしてもっぅ、本当においしかった――っふ、です……」

「ふふ、急いで食べるから」

 吐きそうになりながらも、望月は部長を立てることを忘れない。

 きっと望月は部長の料理の腕が壊滅的なこと知っていたのだ。知っていながら、宍戸のようには逃げなかった。つまり彼女は、自身が尊敬する部長の顔を立てるために黙って凄惨な手料理を食べ切り、さらには俺まで助けたのだ。

 まあ、涙の出そうな美談ですよね。

 世がお侍さんの時代なら、その貴い自己犠牲の精神は武士の鏡として崇められたことだろう。もっとも俺としては、助けてもらっておいてなんだけど、望月の行き過ぎた部長への忠誠心に若干引いていた。

 お前はどんだけ部長が好きなんだよ。

 そして、当の部長は望月の献身にはちっとも気付いていないのだから、世はままならない限りである。


「しかし、このままだと神崎君もお腹が空くでしょう? もう一度私が何か作りましょうか?」

「いやいや、俺は大丈夫ですから! 部長は料理をして疲れているでしょうから、どうぞ座っていてください!!」

 悪いが俺は望月の様な忠誠心は持ち合わせていない。

 たとえ部長のことを大好きだったとしても、さっきの自称カレーは無理だ。だから何とか話題を料理から逸らし、隣で死人のような顔をしたまま、ピクリとも動かない望月みたくなるのを避けなければ。


「それより、そのエプロン似合ってますね! 自分で選んだんですか?」

「いいえ、姉から借りたものよ。この部屋もその姉に都合して貰ったのだけどね」

 姉?

 思いもよらぬ単語を訝(いぶか)しむ。部長に姉妹がいるなんて話は都会から神旺へ帰ってきてから聞いていない。ついでに"十年前"も――大昔に二人きりで遊んでいた時にも、そんな話は聞かなかったはずだ。

 まさか俺が都会にいた間に親が再婚して、義理の姉が出来たとか? 

   気になるが。

「桂水無(かつらみな)、私の二つ上で今は大学生をしてる」

「へー、部長にお姉さんがいたなんて知りませんでした」

 軽々しく詮索できるはずもない。

 部長の家、桂家は色々と複雑なのだ。

 この一帯――神旺町に厳然たる影響力を持つ由緒正しき名家の中では、親族間で骨肉の権力闘争が行われているともっぱらの噂だ。

 水無さんとだって単純な姉妹関係ではない可能性がある。


「この無暗に広いダイニングキッチン付きの部屋は、その水無さんが普段生活している部屋ですか?」

「ええ、水無の通っている大学に近いから」

「……そう、ですか」

 考えてみれば、今俺たちがいる神旺グランハイツこそ、そんな複雑な桂家のお家事情を反映しているように思えてくる。こんなエントランスからして、そんじゃそこらのマンションとは格の違う豪勢さをかもしだす高級マンションの一室を、一介の大学生に宛がっているのは何か特殊な理由があるからではないだろうか?

 あるいは、内輪もめしている実家に俺たちを招くのを躊躇ったのかもしれない。何せよ、部長の神旺での立ち位置を知ってしまった以上、家のことを部長に聞くのは抵抗がある。部長自身も、俺たちに自分の家の話をあまりしないし、気にかけているそぶりを見せようとはしない。


「えっと、色々と想像してるみたいだけど、神崎君と晃をここに呼んだのは、単に場所の問題よ。ほら、私の実家はここと反対方向じゃない」

「そう言えばそうですね。部長の家と九旺祭(くおうさい)をやる中神泉(なかしんせん)は学校を挟んで反対側にありますね」

 今日この神旺グランハイツに集まった目的は、部長の手料理を食べるだけではなく、近くで行われる九旺祭に部活仲間で参加するためだった。むしろどちらかといえば、部長の手料理は前座で、メインは九旺祭というお祭りに参加することだ。

 なので、部長の場所の問題という言葉はその通りといえばそうだけども、やはり素直には受け取りづらかった。


「それから、水無は正真正銘、血縁関係上の姉で、こんな豪勢な所に住んでいるのは、ここの管理会社がうちの会社の系列だからよ。昔神崎君にも姉がいるって言わなかった?」

「そうでしたっけ?」

 そこら辺の記憶が曖昧なのもある。

 俺は小学校に上がる直前まで神旺、小学校から高校の半ばまでを都会の私立の一貫校、高校二年になってすぐ神旺へもう一度戻った転勤族っ子で、部長とも二度の出会いを――幼い頃と高校二年に転校した時――経験している。

 しかし、一度目の部長との記憶は、十年前の事故で頭を強打したせいですっかり霞がかってしまった。せっかく十年ぶりに幼馴染と再会したのに、当時のことをほとんど覚えていないのだ。


「たぶん言ったと思う」

「たぶんですか」

 まあ、この人は一月前の約束さえ忘れるような適当な人なのでお相子だろう。

 そして、あまり細かく気にしても仕方ない。過去は過去、今は今だ。過去にこだわるより、部の女子とお祭りに行くという目の前の青春を楽しみたい。

 部長もそれを望むだろう。

 何となくそんな気がする。


「まあ……、ともかく、九旺祭楽しみね」

「はい」

 九旺祭。

 五百年以上の歴史がある御祭りで、室町時代に起こった応仁の乱が終結した際に、大乱の終結を祝い、死者を追悼する目的で行われた祭典がその起源とされている。

 今日から三日間にわたって開催される神旺町の一大イベント――――


「男の子と行くのは初めてだから、楽しみだわ」

「楽しみましょう、部長」

 部長は微笑み、俺は郷愁の念にかられていた。

 あれから十年。

 ああ、生まれ故郷に帰ってきたのだ。

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