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Dual Kaleidoscope 銭葵・上 1

 あの人はいつもそういう人だった。

 いついかなる時も、綺麗で格好よく、それでいて容赦がない。

 俺の母親、神崎美浦(かんざきみほ)は記憶にある限りにおいて、ずっとそのスタンスだ。他者を威圧すらする美貌、射抜くような眼光、直情的な思考、それらはきっと、俺が物心つく前から不変の母さんのあり方……、いや、きっと生まれる前からそうだったのだろう。


 そんな変わらない姿が誇らしかった――ずっと俺は実の母親を尊敬し、あこがれ続けていたのだ。自分もあの人のように気高く生きられたなら、どれほど素晴らしいことか。日常の何気ない瞬間でさえ、彼女の所作は美しく洗練されているように俺の目には映った。同じ屋根の下で暮らしていれば、杜撰なところの一つぐらい見つけられそうなものだけど、母さんは違う。

 どの一瞬だってあの人はあの人だ。

 俺は今も昔もそんな母さんを――――。


「…………」

 夜の帳(とばり)からわずか洩れ出た月光が母さんの面をぼんやり照らす。

 まるで生気が感じられないくすんだ肌の色と血走った瞳が見て取れ、俺は今の状態をやっと理解することが出来た。

 まるであの時、十年前ようだと。

 十年前――ちょうど七才になる誕生日。

 それは漱(すす)ぎようのない汚濁であり、同時に、今振り返ってみれば、大きな転換点でもあったように思う。


 俺はあの日、轢き逃げに遭い、頭を強打したのだ。

 そしてその事故の後、生まれ故郷である神旺町を離れ、都会に移り住んだ俺の生活は確実に良い方向を向き始めた。誰とも打ち解けられなかったのが、都会では社交的に友だちを作り、部活に打ち込み、真っ当な学生生活を送ることが出来た。


 それに、何より、母親との関係が改善したのが一番大きかった。事故に遭う前はどうしようもない子どもだったから、母さんによく思われていなかったけれど、頭を打ってからはまさしく、前とは打って変わった良い子どもになれた。

 ――だから、今の母さんの目は耐えられない。そんな濁りきった瞳で俺を見ないでくれ。子どものころは駄目な子だったかもしれない。

 でも、今は……。


「ッ、逃げなさい! 何をしているの!」

「?」

声が聞こえた気がする。

部長の声?

しかし、あの人があんな声をだすのか? 

いつもクールに淡々と喋っているじゃないか。


「――かんざ 、早―逃―いと―死――」

"全てが遠い"。

目の前の眼(まなこ)だけが俺の意識を捉え、他は何も見えない。


「ああ……」

嘆息する。

やはりキレイだ。


「――ガ ァ ト――シ――ォ ト――」

この人はこんなになっても――――

 


◇◇◇

「待ったか?」

赤と白の横縞模様のTシャツに、白のデニムとブーツ、腰に上着を格好良く巻き付けた出で立ちで、待ち人は改札口から現れた。

シャツの丈は少し短く、ヘソ出しだ。

男として素直にその扇情的なくぼみを瞼に焼き付けてから応える。


「いいや、今来たところ」

捻りのない返しだが、付き合い出したばかりの恋人同士みたいで、なかなか面映ゆい。もちろん、目の前の人物が本当に恋人なら最高だけれども。


「そうか、なら良かった」

「ああ」

しかし何というか、ぎこちない。

初めて部活以外、しかも私服姿でこいつと会ったから、若干緊張しているのだ。相手もそうなのかはともかく、少なくともいつものような距離感で会話出来ていないのは確かだろう。


「そこに入らないか? グランハイツに行く前に話したいことがあるんだ」

「わかった」

彼女が指差したのは駅真横の喫茶店だった。

果たして部長のところに行く前に話すことなどあっただろうかと少し緊張しながら歩き出す。


何の話か?

おそらくは他愛ないものだろう。

だがそうでない何かを期待してしまうのが女の子と二人っきりになった男子高校生という生き物で、そしてその期待は間違いなく妄想なのだ。

ここは自分の気持ちを解きほぐし、馬鹿な考えを振り払うために一つ軽口でもたたいておこう。そうすれば部活と同じように振る舞えるはずだ。


「なあ、望月」

「うん?」

立ち止まって振り返る部活仲間、望月晃(もちづきあきら)は大人びた美人だけど、きつい性格をしている。きっといつものごとく軽口を言う俺に駄目出ししてくれるに違いない。


「私服、すごい可愛いよ」

「……」

望月は何も答えない。

普段のようにからかうなとか、くだらないとか言いながら、きつい視線で睨んでこないのだ。

 代わりに彼女の顔は赤くなった。


「……ありがと」

「――――っ」

 予想を裏切る反応に思いっきり面食らう。

 けれど、恥ずかしそうに礼を言う様は最高だった。

 勝気な望月だけに一層その恥らい方はくるものがある。

 思わず愛しているとか言いそうなぐらいに。


「……早く入ろうぜ。暑いから何か冷たいものが飲みたいし」

「そ、そうだな。神崎は外であたしを待ってたから喉も乾くよな」

 しかし、緊張を解すという目的は完全に失敗しているどころか、むしろ余計に望月を意識してしまっている。当の望月も慌てたように言葉に詰まっているから、もうどうしたらいいのか皆目見当もつかない。


 こんな時、元男子校特有の女性経験のなさが悔やまれる。

 一時期剣道と結婚するとか考えて、彼女などいらないと言っていた自分にたっぷり後悔していると、望月は先に喫茶店に向かってしまう。

 慌てて追いかける俺はまったく大間抜けだ。


「おい、望月?」

「……お前の服もなかなかいいよ」

 間抜けに待っていたのは痛烈な一本だった。

 見事すぎて言葉が出ない。

 構えた瞬間に面を食らった気分だ。

 

「これうまいな。都会のチェーン店より、やっぱりこういう個人でやっているところの方がおいしい」

「そうか、あたしは一度神崎の言う都会のチェーン店に行ってみたいけどな。神旺みたいな田舎にはないから」

 淀みない会話だ。

 どれぐらい淀みないかと言うと、座って五分以上経って今初めて口を開いたぐらいに心はリラックスし、コーヒーの味がまったくわからないほど冷静だ。


「それで、話って?」

 なるべく自然に、さも気軽な風を装って言えたと思う。

 ついでに飲んでいる物がコーヒーではなくただの水であることに気付く。

道理で味がわからないはずだ。


「ああ、実はお前にどうしても伝えておかないといけないことがあるんだ」

「な、何だよ?」

 そういえばまだ注文していなかったなと現実逃避的に考えることで気を落ち着け、隣に座る望月の意図を想像してみる。そもそも何故テーブル席なのに向かい側でなく、隣に座ったのだろう。しかも体が触れ合いそうなぐらいに近い。


「あたしは……」

 神崎のことがと続くのか?

 もしそうだったら、どうしたらいい?

 こっちが思い悩んでいる間に相手は決意を固めたらしく、迷いのない視線が向けられてくる。


「いや、やっぱり"まだ"いい」

「望月?」

 ここまで引っ張っておいてそれはないだろ。

 そう俺が言う前に望月は真剣な面持ちのまま続ける。


「たぶん部長は昼食をごちそうしてくれる」

「昼食?」

 いきなり何を言い出す?

 今日の望月はまったく予想不可能だ。


「ああ、昼食だ」

「それがどうかしたのか?」

 あの適当な部長がそんなことをしてくれるのは意外だけれども、神旺グランハイツに着く時間を考えれば、ありえないことでもないだろう。俺を案内してくれる望月だって、ちょうど正午前に着くと言っていたのだから、ある程度はそういうことを予期していたのではないのか。


「それは……」

「それは?」

「いや、何でもない」

 勝気で美人な女子高生はまたはぐらかす。

 そうやって純情な男の子の気持ちを弄ぶつもりなのかと憤りを感じたが、どうしてか悲壮な表情をしている望月にしつこく追及するのは憚られ、結局有耶無耶のままコーヒーを一杯だけ飲んで、グランハイツに向かうのだった。

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