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Dual Kaleidoscope 昇藤 8

 何故母親は許せて、"元"父親は許せないのかと改めて考えてみても、そう確たる答えは思い浮かばない。あえて挙げれば、母さんはどれだけ俺に酷いことをしても、最後の一線を越えた十年前のあの夜までは見捨てはしなかったけれど、あの男は早々に俺たちの前からいなくなり、帰って来たかと思えばまたどこかへと消えて行ったから、ということぐらいだ。

 だが客観的に見れば、あの時期において母さんもあの男も、決して褒められた親ではなかったし、仮にどちらがマシかという程度の差があったのだとしても、それはドングリの背比べみたいなものだろう。


 十年前においては間違いなく、俺は二人の親を憎みきっても、失望しきってもいなかった――もちろんその後は、母さんは歪ながらも俺と弟の雅人に愛を注いだ一方で、あいつは何もしないままに姿を消したという、明確な差が生じたのだけれども。

 だから、その十年の行動の差が母親を許せて、元父親を許せない理由なのだと結論付けたとしてもおかしくはない。いや、少なくとも理性の部分ではそう納得している。

 しかし、もっと心の奥深くでは、〝別の何か〟が渦巻いている気もするのだ。


母親である神崎美浦と、息子である神崎駿は同類だが、父親であった柳田善治とは血のつながりはあっても、根本的に相いれない存在だから受け入れられない――そんな拒絶感があるのかもしれない。 

 絶対にそうだと確信は持てていない。

 それでも。

 俺はあの男のことを父親だとは"もう"思っていない。


「助けてくれ、駿」

 望月と別れ、家に戻ってくると、昨日と同じように玄関前に善治が立っており、俺を見つけるなり頭を下げてきた。昨日の今日で一体何をしに来たというのか。


「昨日、話を聞いてあげたでしょう。それに、母さんはあんたに手を貸すと言ったはずだ」

「今の美浦では多分駄目だ。今まで頼った連中よりはましだとは思うが、それでも今の僕を救えはしないんだ!」

 鬼気迫る表情で訴えかけてくる善治の様子は、昨日に比べて明らかにおかしくなっており、頬はこけ、目は充血し、唇は紫に変色している。もう何の力も残っていない俺でも、事態が抜き差しならない領域まで急激に悪化したのだと見て取れた。

 善治はきっともう長くない――一週間としないうちに、この世の存在ではなくなってしまうだろう。


「それで、息子の俺にも手を貸せと? 残念ながら、あなたも知っての通り、母さんと同じように俺にはもう特別な力はないよ」

 だが、少したりとも助けたいとは思わなかった。

 自分でも驚くほど、この男――元父親への情が湧かないのだ。


「分かっている! だが、雅人がいるじゃないか……、あの子なら大丈夫だ」

「それで?」

 雅人は俺と同じかそれ以上に善治を嫌っている。

 助力はまず無理だということぐらい、善治自身もわかっているはずだ。それでも俺に頭を下げにきた事情は、だいたい察しはつくが。


「分かるだろう? あの子は僕のことを嫌っているから、おそらく僕が頼んでも助けてはくれない。だが、兄である駿が頼んでくれれば、きっと手を差し伸べてくれる!」

 思っていたままの言葉だ。

 そして、おそらくこの男は雅人に顔すら見せていないのだろう。自身の過ちを雅人に謝りもせずに、何とか説得出来そうな兄である俺を使おうという魂胆――小心者の善治らしいやり方だ。

 反吐が出るね。


「要は雅人を説得してあなたを救えということだね」

「ああっ、そうだ、その通りだ! 色々あったとはいえ、親子じゃないか。雅人に掛け合って僕を助けてくれ!」

「…………」

 何が今更親子だ、と流石に頭に来たが、このまま見捨てればよい結果にはならないことはわかっている以上、未練たらたらの母さんのために、この屑を助ける方針は崩さない。

 そのために部長に相談したのだ。

 そう、たとえ手ずから殺してやりたくともここは我慢だ。


「分かったよ、あなたを救おう」

「あ、ありがとう、こんな惨めな僕をっ!」

 泣いてすがってくる善治を手で払いのける。

  俺はまだ重要なことを言っていないのだ。


「ただし、雅人の力は借りない」

「えっ!? あの子でなければ――」

「黙れ」

「――っ」

 雅人はこの件には関わらせない。

 こんなくだらないことからは遠ざけておきたいし、母さんの善治に対する未練も、雅人は知らないままの方が絶対にいい。そもそも、部長が提案したあの解決策なら、雅人は必要ないはずだ。

 無論のこと、ただ助けてやるだけではない。


「この程度のことは雅人抜きで十分だよ。そしてこの件が解決したら、二度と俺たちの、少なくとも俺と雅人の前には、姿を現さないと誓ってくれ」

 ご希望通り、解決はしてやるとも。

 だが、その後はお前の顔なんて二度と見たくはない。


「……わかった、約束しよう」

善治は拒絶の言葉にしばし沈黙し、一度目を伏せてから、ゆっくり頷いた。それは期待した通りの反応だけれども、その数瞬の逡巡が、心の深い部分を少しだけ抉ったような気がして、俺は自己嫌悪に陥るのだった。



◇◇◇

どうしてあの男を好きになったのかと問われれば、何となくとしか答えられない。元来、恋とはそういうものだろう。これといった明確な理由などないか、あったとしてもそれは後付けで、直感こそ恋慕の本質であると私は考える。

私が結婚し、その子供まで生んだ男――柳田善治と初めて出会った時は、その直感が強く働きかけてくるのを感じた。


 この男だ、と一目見た瞬間に思ったのだ。

 その見立ては結婚生活の初期までは間違っておらず、私と善治は仲の良いおしどり夫婦として、円満な家庭を築いていたと言える。しかし、長男である駿が産まれてからしばらくして、歯車が一気に狂い、理想的に思えた家庭は崩れ始め、十年前のあの事件、そして東防山で晒した醜態にさえ繋がっていくのだ。

 だから、責任の一端は間違いなく両親の片割れであり、子どもたちから逃げ出した善治にもあるし、私はそのことを全く恨んでいなかったわけでもない。


 だが、どうしてもあいつを心から憎み、完全に切り捨てることは、離婚した今でさえ、出来ないのだ。何故出来ないのかという理由については、何となくそうしたくないからとしか言えない。

 故に。

恋とはそういうもの――そう、私は駿の言う通り、女としての未練があり、依然としてあの男のことが好きなのだ。


「お疲れ様です、部長」

「そうだな、本当に疲れたよ」

 会議室から自分の部署に戻ると、すぐ近藤が出迎えに寄ってくる。手に持った缶コーヒーをさっと渡してくるあたり、こいつもなかなか気が利くようになったことだ。


「首尾はどうでしたか?」

「まあまあと言ったところだな。あの腐れ専務も流石に後手に回るだろうよ」

上の連中と交渉するのは毎度骨が折れる。

 まだ単なる根回しの段階に過ぎないが、少しでも早く人を増やして部下の負担を減らしたいのが本音だ。就任してすぐは難癖ばかり付けてきた専務派閥の古参役員も、事業が短期に黒字化したことを受けて若干態度が軟化しているのだから、一気呵成に必要なものは確保しておきたい。


「では、社長の方は?」

「さあな、表向きは支援してくれるだろうが……、裏で何を考えているかは判らん。あの人の腹芸を見破って真意を探るのは無理だろうし、まだ私の立場も強くはない」

 私をこの会社に引き抜いたのは社長本人だから、色々と便宜を図ってくれてはいるが、完全に私をあてにしているわけでもないだろう。

 むしろ、私をあの糞専務の当て馬にして、自分の立場を守りたいのもあるに違いない。そして同時に、この会社のIT分野進出の遅れにかなりの危機感を抱いているのも間違いはなく、だからこそ専務派へ圧力をかけて、私に好き勝手させてくれているのだ。

 旧態然とした日本企業には珍しいタイプの有能なリアリスト――それがわが社のトップの素顔だと私は分析している。


「今は地道に収益を上げていくしかないな。立ち上げてすぐに黒字化したのは良かったが、今の売り上げではとてもこれ以上のことは要求出来ん」

 一四半期で立ち上げから黒字化までいけたのは重畳だけれども、かといって総売上高に占める割合は一年で五パーセントいくかどうかというのが現状で、本格的に事業が軌道に乗るには三年はかかると考えた方が良い。それまでは一歩一歩実直にやっていくほかないだろう。

 道のりは長くまだ始まったばかりだと言い含めようとする私に対して、近藤は何故か気味の悪い笑顔を浮かべていた。


「何だその嬉しそうな顔は。気味が悪いぞ」

「そうですね、これからのことを思うと、年甲斐もなく胸が高まってきましてね」

「ふん、よく言う」

 こいつは敗れたとはいえ一時は出世争いに絡んだ男だ。

頼りなさそうな見かけによらず、案外競争心は高いのかもしれない――もっとも、私ほどではないだろうが。


「部長、お電話です」

「こんな時間に電話?」

 渡された缶コーヒーを飲もうとしたその時、雑務全般をこなす美崎がデスクから知らせてきたその電話を、私はよく確かめもせずに取ってしまう――取って、電話口から発せられる大音量に固まってしまった。


「――――!?」

 電話の相手が何者なのかは分からなかった。

 いや、話している内容すら理解不能だ。

 分かったことは、時折聞き取れる〝死ね〟という単語と、私にただならぬ悪意を持っているだろうということだけだった。

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