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Dual Kaleidoscope 昇藤 10

 出版という仕事柄、ああした奇怪な電話や脅迫まがいの文章が社に送られてくることは珍しくなく、昨日の部長に対するあの電話もそうした手合いだと判断され、取り立てて騒がれることはなかった。

実際、部長は辣腕キャリアウーマンとして何度か地元のメディアにも取り上げられているから、嫉妬した誰かが嫌がらせの電話の一本ぐらいしてくることは、そうおかしくもないだろうと僕も思っている。それに、あの部長があの程度のことであたふたするはずもなく、あの後も何事もなかったかのように仕事を続けていた。


 しかし、しかしだ。

 心の片隅で何かが気にかかるのだ。ここ最近の部長は、ほんの少しだけだけれど、浮かない顔をしている時があり、一昨日は息子さんとうまくいっていないなんて愚痴を僕に漏らしていた。もし、普段通りの部長――エネルギーの塊といっても過言ではない、いつもの状態なら、大抵の逆境や苦難など跳ね除けてしまうので、僕もあんな電話ぐらい気に留めなかったろう。


 だが、今のあの人は何かの事情で、もしかしたら鬼の攪乱とでも言うべき状態になっており、そこに予期せぬアクシデントが重なれば、この部署の行く末はおろか、部長の身にも危険が及ぶのではないかと、そんな考えが頭をもたげている。

 十中八九杞憂であろうことはわかっている――けれど、念には念を押し、僕はこの杞憂を確かめることにしたい。

 ……何とか部長を飲みに誘って。


「部長、今夜あたり一杯どうでしょう?」

「死ね」

「まあ、そう言わず」

 予想通りだ。

 すぐさま死ねという切り替えしがくるということは、部長は僕の思っていた通り、調子が良くない。もし万全なら、死ね等という短絡的暴言ではなく、もっと心を抉るようなえげつない言葉が飛んできたはずだ。少なくとも悩みが軽いものではないということは確信がもてるぐらいに、今の部長は歯切れが悪い。


「もし何か悩みでもあるのなら、僕で良ければ相談に乗りますよ。ぐっと生でも飲みながら、どうです?」

「悩み? そんなものはない。あえて言うなら、気色悪い中年男に言い寄られて困っていることぐらいだ」

「ははっ……」

 歯切れが悪いというのは撤回だ――辛辣さは変わらずか。

 しかし、部長はどこか陰を感じさせる表情で溜息を一つ吐く。


「お前に心配されるようなことは何一つとしてないよ。だから、安心して業務に励め」

「はい、部長」

 安心してと言う部長の瞳には力が籠っている。

 それでもやはり普段よりは調子を落としていると感じるが、気力が衰えているわけではなさそうだから、心配のし過ぎだろうか。そう安心しかけた矢先、部長がふと思い出したかのように呟いた。


「ただ、今日は少し早上がりさせて貰う。"外せない約束"があるからな」

「外せない約束……?」

 何だ、このそこはかとない嫌な感じは。

 単に調子がどうのこうのとは別の何かの悪寒を感じ、男の第六感が警鐘を鳴らしている。

 駄目だ――今の部長を一人にしておいては。



◇◇◇

 気がつくとそうしていたとしか言いようのない無意識さで、僕は早上がりする部長を尾行していた。

 部長が退社する寸前、美崎からマスクを、別の部下からは上着とネクタイを借りて装いを変え、退社すると同時、付かず離れずの距離で彼女の後をつけ、社から十分も離れていない喫茶店に入るのを見届けると、迷わずそこに入って、相手には気付かれない、されどこちらからは様子を窺える格好の距離の席に座ったのだった。


 間の抜けたところがある普段の自分からは到底想像できない、器用さと絶妙さでもって尾行したので、勘の鋭い部長も僕の存在には気付けてはいないだろうが、しかしそれを差し引いても、今の部長には落ち着きがない。

 そして、その落ち着きのなさの原因を知り、今度は僕が平常心を失いかけることとなった。

 一人で座っていた部長の元に、男がやってきたのだ。


「……やぁ、美浦。待たせてすまないね」

「ああ、別にかまわんよ」

 現れたのは四十代前後の疲れ切った風体の優男だ。

 なかなか整った顔立ちをしているが、それを打ち消して余りある負の雰囲気をまとっている――痩せこけた頬、くぼんだ眼窩、異様なぎらつきを見せる充血した眼、それらは死体が動いているかのごとき生気のなさと気味悪さを感じさせるものだ。


 そんな気味の悪い優男は席に着くなり憔悴しきった様子で、助けてくれと何度も繰り返し部長に訴えている。その様はどう見ても正気の体ではないが、男の懇願を部長は遮ったりせずに聞き続けており、そして、彼女は今まで一度も見たことない、いや一度も見せては貰えなかった情の籠った目線で、男を見つめているのだ。

 その目は僕に一つの事実を悟らせるに十分だった。

 何故自分にも他人にも厳しい部長が、醜態をさらしている優男に情を感じさせる目線を向けているのか、納得に足る理由一つしかない。

 きっとこいつは部長の"夫だった男"だ。


 神崎美浦――彼女は辣腕キャリアウーマンで二児の母で現在は独身、つまり一度は結婚し配偶者もいたのだから、情を持っている男がいたとして何の不思議もない。

 そう、おかしなことではないのだ。

されど、部長が憐憫を向けるほど入れ込んだ男が〝これ〟なのか? この男からは何の魅力も感じず、落胆より疑問符が先に頭に浮かぶ惨めな体たらくだ。 


「わかったから、少し落ち着け、善治。お前のことは必ず私が助けるよ」

「落ち着けるわけないだろう! もう僕は限界なんだ! 明日にでも死んでしまいそうなんだよ……」

 ついに半狂乱状態になった優男は、かすれた声で怒鳴ろうとするが、もう怒声と言えるだけの大きさもない尻すぼみの叫びにしかなっていない。僕が知る部長なら、こういう輩は完全に無視するか怒鳴るかのどちらかだろう。残念ながら、そのどちらでもない部長が今僕の見ている部長だけれども。


「大丈夫だ、大丈夫だから……」

 語りかける声色は優しく宥めるようなものだ。

   対照的に男は責めるような口ぶりで次々捲し立てている。

 あの苛烈で攻撃的な部長が、相手に言いたいように言わせているのだ。


「何故そんなことが言えるんだい? 君にはもうなんの力もない。駿も同じだ。口では助けると言うけれど、実際には何もできないじゃないか。雅人だ、あの子だけが僕を助けられる。雅人に、あの子に会わせてくれ!」

「私だけで何とかする。雅人や駿は必要ない」

「そんな――」

「桂家に伝手がある」

「ぅっ!?」

 予期せぬ単語に思わず声が出そうになった。

 しかし、今部長は桂家と言ったのか?

 ここ一帯において出版や報道に携わる者で、噂を聞いたことのない者はいないであろう、悪名高き桂家のことを指しているのか? 男が駿君の名前を出したことにも驚いたが、桂家の名は軽々しく口にしていいものではない。まして伝手があるなんてことは、分別ある人間なら絶対に言わないことだ。


「桂家だって?」

「ああ、ここ神旺では知らぬ者のいないあの桂家だ。連中の力を借りれば、この程度のことはすぐに解決出来るだろうよ」

「…………」

 男は部長の桂家宣言で押し黙ってしまった。

 神旺町のことを知る人間なら、常識的な反応だろう。桂家の助けを借りるということは、以後見返りにどんなことを要求されても構わないと誓うのと同義だ。


 連中はこの一帯のありとあらゆる組織に影響力とコネッションを持ち、自分たちの利益のためなら何でも、本当に何でもするのだ。

 桂家の真の恐ろしさはその権威や影響力ではなく、目的のためには一切手段を選ばない無機質な非情さにある。奴らに比べれば、仁義だの任侠だの一応の建前のあるその筋の人たちなんて可愛いものだ。

 桂家には恥も外聞も、大義も信念も、慈悲も容赦もない――あるのは利を得るという一点のみだ。だから、桂家に借りをつくるなんて、冗談でも言ってはいけないし、部長みたいな人ならそのことを重々承知しているに違いない。


 そして、あの人は冗談は言わない人だ。

 そう、つまり、彼女は――神崎美浦は全てを承知で桂家に伝手があると言ったわけだ。

 目の前の男を助けるために。


「ここまで言っても不満か?」

「……いいや、美浦を信じるよ」

「ああ、私はお前を必ず助ける」

 安心しろ――ほんの数時間前に僕に言ったように、部長は力強い眼差しで言い放つ。そこに込められた覚悟は、どれほどのものなのか、僕には分からなかった。

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