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満州 関東軍初年兵 痰壺の水を飲む

ああ北満州 越川三郎 経済往来社
 この本を読んでまず感じたのは、上が上なら、下も下というところだろうか! そして、ノモンハン事件の翌年に満州に赴任し、身を挺して戦いに備えながらも、知識欲への飽くなき追及に青春を捧げている当時の若者の姿か。
 昭和15年1月から18年4月(満21歳から満24歳)まで、越川さんは関東軍の重機関銃要員として北満州に駐屯された。その在満中の激しい訓練の中、5分間の休憩中に息を弾ませながら書かれた日記。その日記をもとに40年後(昭和58年)に書かれたのが、この「ああ北満州」である。当時の関東軍の風土が良く判る貴重な記録である。非常に興味深い。以下、特に興味を引く記述について追ってみた。

当時の情勢
 光栄ある関東軍と言えば、僕らはまず頭に浮かぶのは、昭和6年9月18日に始まった満州事変を想い出す。当時、僕は小学校6年生であった。大学を出ても就職の難しい不景気の時代、浜口内閣から若槻内閣と世情騒然たる頃であった。農村大不況で、冷害や早害などが続き、一般に生活が苦しかった。村では小学校から中学校に進む者は4、5人で、一部の金持ち以外は小学校を終えると丁稚奉公や女中に雇われて行った時代だ。東北あたりから娘たちが売られたのもこの頃だ。
 先生が満州の地図を黒板に書いて、事変の話をしてくれたのは、今も覚えている。この戦が、関東軍司令部作戦主任参謀であった石原莞爾と、高級参謀の板垣征四郎を中心とする一部将校に拠る柳条溝鉄道爆破などとは、知るはずもなかった。抗日気勢を高めていた張学良軍の軍事挑発を受けて関東軍が已む無く起こったという事を、ずっと信じていた。
 その頃、北満州では馬占山が黒竜江省の実力者で、嫩江(ネンチャン)の鉄橋爆破事件があり、関東軍の神経は益々過敏になっていた。一方、関東軍による満州国独立工作は着々と進められ、天津日本租界に隠棲中だった宣統帝溥儀を満州に連れ出し、昭和7年3月1日、満州国の独立を迎える。
 昭和12年7月7日、盧溝橋事件を契機にして日華事変が始まったが、近衛首相の不拡大方針にも拘らず、次第に戦闘は中支にも及ぶに至った。

210131ああ北満州地図


 僕らが、黒河省孫呉に到着したころ、まだ、馬占山は健在であったが、その前にカンチャーズ事件(12年6月)、張鼓峰事件(13年)、そして有名なノモンハン事件(14年)が起きている。
 カンチャーズ事件というのは、ソ満国境に流れている黒竜江上の島をめぐって生じた国境紛争事件である。昭和12年6月19日、ソ連軍が同島に上陸、採金作業中の満人苦力40名に退去を命じ、一部を拉致した。またカンチャーズ北方で、満軍の一部がソ連砲艦と交戦したという事から始まる。モスクワの重光大使とリトビノフ外務人民委員の外交交渉では、ソ連側が現状回復、兵力撤退で調印解決を見た。関東軍はこの時ソ連艦船を砲撃し撃沈している。
 昭和14年5月、外蒙軍が、関東軍側が国境としていたハルハ河を越え侵入した。いわゆる第一次ノモンハン事件である。当初、小競り合いを続けていたが、三度に及ぶ侵入に対して第23師団長(小松原道太郎中将)は山縣支隊を編成、攻撃を開始した。5月27日に行動を開始した山縣支隊は、機械化された強力な火力を持つソ連軍と戦闘を交えたが、彼我の力は日本軍に不利になり、徹底的な打撃を受けるに至った。2000名足らずの出動日本軍は、死者159、負傷者119、行方不明12の損害を出し、31日、遂に戦場から撤退せざるえなくなった。戦闘としてはまさに惨敗であった。しかし、この時点で関東軍は、これ以上戦闘を拡大するつもりはなかった。
 本格的なノモンハンの戦闘は、第二次ノモンハン事件と言われる7月から8月にかけての大規模な戦闘であった。カンチャーズ事件、張鼓峰事件と、ソ連軍よりも劣勢、敗北した事件が引き続いた中で、関東軍は何とか機を見てソ連軍に大打撃を与えようと焦っていた。軍中央部もこれを容認したことから、空前のノモンハン大戦闘が始まったのである。7月2日から5日にかけて日本側の大攻勢が展開されたが、これは、ソ連の近代化された重火力の前に失敗に終わり、7月末から日本軍は、再度の大攻勢の準備に着手した。
 ソ連側はジューコフ将軍指揮下の第一軍団、外蒙軍、その両者を纏めるシュテルン司令官の下に六方面軍集団を形成し、大量の武器、弾薬を準備した。8月20日早朝、ソ連空軍150機以上による猛爆撃、続いて全戦線にわたる地上軍の攻撃が開始された。数日にわたる死闘の結果、またしても日本軍にとって惨憺たる結果となった。第23師団は投入した15,000名余の人員中、32%が戦死、36%が戦傷、その他を合わせて74%に及ぶ壊滅的な損害を受けたのであった。その後、この戦闘における戦死者は全部で8440人と伝えられた。
 この戦争は、日本軍がソ連軍と行った最初の本格的な近代戦であった。この戦闘によって、日本軍の装備の近代化が如何に遅れているかが暴露された。
 関東軍が本格的に、装備と共に内部教育に力を入れるのはノモンハン戦後で、僕らはその翌年、つまり15年1月に北満に着任したのであった。14年9月1日、モスクワでノモンハン停戦樹立が締結された。
 昭和15年から16年の開特演に至るころ、つまり僕が初年兵から2年にわたる頃が関東軍としては世界一の最精鋭部隊という事になるが、従ってその訓練は実戦以上に厳しく、激しいものであった。ノモンハンで苦杯をなめた関東軍の死に物狂いの体制整備であったのである。


初年兵教育 重機関銃中隊

 入隊したその日こそ、歯を磨き、洗面所で顔を洗ったが、翌日からとても顔を洗うヒマなどは無かった。地方(軍隊では入隊前の生活の事を地方と言った)にいる時と同じ気分で悠々と歯ブラシを使っていると、いきなり後ろから二年兵が怒鳴り込んで来た。
 「貴様ら、軍隊で、顔を洗うヒマがあると思うか。そこに一列に並べ」
文句はあとでやるのが軍隊の習わしである。向き直ったと思ったら、イキナリ眼から火の出るようなビンタが飛んで来た。
 「貴様たちは毛布を片付けたか、メシは運んで来たか」
目先がクラクラする様なビンタの後
「二人ずつ、正面を向け」
という命令である。
 お互いに顔を見合わせて、マゴマゴしていると、
「しっかり殴れ」
という大きな気合がかかった。要するに仲間同志のビンタの交換である。力一杯にやらない奴は、二年兵が後ろから勢いよく殴り掛かった。30分くらいの間、初年兵同志で往復ビンタをやり合った。
 中には泣き出す兵隊もいた。名古屋医大を出た駒沢はヒョロリと背が高く、一方の板倉は大工の丁稚小僧であった。この二人が僕の隣でビンタを交換していたが、板倉は、体は小さいが力がある。駒沢は医者の倅で、やられる度に体をグラグラさせ、しまいには涙をポロポロと流していた。それこそ地方に居れば医者の卵である駒沢も、ここでは術もなく悲しみのあまりの精一杯の涙であろう。相手の板倉を殴り、そして殴りながら泣いているのだ。
 僕の相手は宮内で、これは菓子屋の小僧上りであった。宮内とビンタを交わしているうちに、初めは優しかった彼が次第に勢いを増してきた。二年兵の”しっかりやれ”と言うのを、彼はまともに受けて、力一杯に僕の頬を打ってくるのだ。”よし、こうなったら俺も負けんぞ”こう思って、今度は宮内の横面が破れんばかりにやり返した。かつては、僕も中学時代に剣道で鍛えた事もある。”菓子屋の小僧に負けてなるものか”と思った。宮内も負けじと僕に殴り込んで来た。かくて初年兵はビンタの応酬により、互いに相手の辛さ悲しさを身を以って知るのであった。
 泣く子も黙る関東軍の厳しい第一期検閲訓練が始まったのは昭和15年2月の初めであった。興安嶺は白雪で覆われ、毎日零下30度から40度という肌を刺すような寒気が続いていた。黒河省の孫呉に着いてすぐ、我々はトラックに分乗して黒竜江沿岸の「チカトウ」という第一線の部落に派遣された。雪の原野に、点々と満人の民家が散在している淋しい部落である。すぐ近くに黒竜江が流れ、この川を700m隔てた対岸はソ連である。

210131ああ北満州黒竜江


 我々の機関銃中隊は三個小隊に分かれ、一小隊ずつ部落の兵舎に駐屯した。厳しい訓練は毎日続いた。機関銃の「機」は機敏の「機」だと分隊長は口癖のように言い、古兵のビンタは朝となく、夜となく、理由もなく飛んで来た。
 機関銃は行軍する時は分解して馬に乗せ、戦闘が始まるとこれを降ろして組立てて弾丸を装填、射撃体勢に移る。馬に乗せるのを”乗せ”といい、馬から降ろして発射態勢へ入るのを”降ろせ”という。この動作は、数秒を争う早さで行われるものだが、”乗せが5秒で、降ろせが3秒、野暮な時計じゃ計れません”という歌があるくらい、5秒、3秒でやってのける。
 機関銃中隊は、朝食前に毎日、銃剣術か、この”乗せ” ”降ろせ”の訓練が行われる。地方にいる時は、動作の緩慢な坊ちゃんも、一か月ほど訓練を受けると、実に素早く機関銃の分解と、”乗せ、降ろせ”が出来るようになる。”乗せ” ”降ろせ”は分隊毎に競争で行われ、分隊長はその都度ストップウォッチで時間を測る。遅い組は連隊の周りを駈足で一周させられ、下手をすると朝食にありつけないばかりか、後でビンタの雨が飛ぶ。

 その次が分解搬送だ。分解搬送と言うのは、機関銃を銃身と脚とに分解して競争で走るのだが、これがまた銃身が重く、しかも負けたら大変だ。更に二人搬送というのがある。これは、60キロある機関銃を二人で両手で下げて走るものだ。初年兵の時は100mも走ると両腕がちぎれそうになるくらい辛いが、これも毎朝続く。二か月もすると肩の付け根が盛り上がって、むっくりと腫れてくるほど訓練は厳しい。
 一期の検閲まで、機関銃の訓練も実に厳しいが、内務班のそれは毎日目が廻る様に忙しい。洗濯はもちろん、靴の手入れをする時間もなく、”消灯”のラッパが鳴る。毛布の中に入ったと思うと古兵は
「起きろ」
という。
「この靴はどうした」
「この銃は手入れしたか」
寝台の前に、一度も三度も五度も立たされて、激しいビンタが飛ぶ。”片パンかじる暇もなく、消灯ラッパは鳴り響く、五尺の寝台ワラ布団、これが我らの夢の床”こんな歌を涙交じりに歌いながら、古兵の履いたドロ靴を磨く日が続く。真赤な太陽が遥か地平線に沈む頃、故国の肉親を偲んでは望郷の涙にくれた事も一再ではなかった。

非常呼集

 ソ満国境の第一線チカトウでは、深夜にしばしば”非常呼集”がかかった。非常呼集というのは、対岸のソ連軍が、深夜に襲撃してくることを想定して、実戦さながらに行われるもので、予告なしに号令が出る。
 暗がりの深夜に、初年兵は完全軍装をし、重機関銃や弾薬を馬に積んで、営庭に整列するのだが、これもわずか数分で完了せねばならぬ。ところが、兵舎内は真暗だから、自分の履く靴が何処にあるやら、巻脚絆はどう巻いて良いか見当がつかない。中には隣の兵隊の剣を吊ってサッサと出て行くやつもいるし、厩舎に走る兵隊はウッカリすると馬が放馬して、逃げられてしまう。逃げた馬を捕まえようとして馬の飼桶を持って追い回しているうちに、早い中隊は、出発準備を完了して整列する。
 早い順だから、小隊長の
「駈足!」
の号令と共に、各隊は山の陣地に向かって、タッ、タッタと威勢よく駈足が始まる。ところが機関銃隊の馬というのは、いわゆる駄馬で、意地が悪く、クセの多いのが集まっている。初年兵とみるとタカをくくり、後足を高く蹴上げては逃げ回るのだ。漸く捕まえたと思うと、これがまた急に走り出す。手綱をしっかり握ったまま馬に引きずられ、地上に投げ出されて鼻血を出している兵隊もあれば、各隊が出発しても、暗がりをマゴマゴしている兵隊も出てくる。僕の分隊では、大工の板倉、植木屋上りの大木などというのは、要領が悪くていつも馬に逃げられてしまうので、出発がどん尻になる事が多かった。先発隊に追いつこうとするから早駈けになる訳だが、雪は深いし、防寒具を付けた軍装は重いし、思うようには走れない。
 分隊長は、柳の枝をムチ代りにして、僕らの尻をビシリビシリと叩きながら、
「今日はドンジリだゾ。朝飯は食えないゾ」
と声を嗄らして喚き散らす。
「幹部候補生は右腕に白い腕章を巻け、頂上まで競争だ!」
激しい気合がかかる。
「ここでビリになったら、もう今夜は地獄だ」
そんな事を呟きながら、こけつ、まろビつ走るのだが、雪は腰まで達し、足は思うようには進まない。山頂に着いた頃、漸く夜が白んで来た。先発隊はもう軍歌を歌いながら引き上げているのに、我がドンジリ部隊は、漸くこれから配置につくという始末だ。
 この日、朝食前に、初年兵は整列させられて、雨のようなビンタを浴びた。馬を逃がした板倉と大木のお蔭で、皆がやられた。他隊は食事が済んで、食缶を返納するというのに、これから炊事場にメシ上げに行く始末だ。漸くメシにありついたと思ったら
「整列」
という号令がかかった。”頂きます”と同時に”頂きました”と言って起ち、食器の始末をする。

 非常呼称で遅れた僕らの隊は、この夜再び初年兵全員が消灯後に叩き起こされた。
「みんな銃を持て。そこで”捧げつつ”だ」
古兵は厳しい表情で僕らを睨みつけた。
「俺が”ヨシ”と言うまで、”捧げつつ”を止めてはならんぞ、いいか」
そう言って、古兵は毛布の上に胡坐をかいた。涙とも脂汗ともつかず、顔から流れる水滴を拭うことも出来ず、全員三八式歩兵銃の”捧げつつ”を続ける。漸く十分も過ぎて、毛布に入ったと思ったらすぐ週番下士官が廻って来た。
「初年兵は起きろ。貴様たちは、靴の手入れをしたか、防火用水は取り替えたか」
 再び一列に不動の姿勢で寝台の前に並ぶと、凄まじいビンタが飛んで来た。
「今からこの防火用水を皆で飲め。いいか」 
何しろ軍隊という処は、弁解も抵抗も許されない。薄汚れた防火用水を、コップで一杯ずつ飲む事になった。情けなかった。
 防火用水はまだ良い方だ。掃除バケツの底に残った水、これは辛かった。掃除バケツの底には一滴の水も残してはいけないのだが、忙しい為に、つい忘れて多少残してしまう。この底の水を飲むのはまだ良いが、痰壺の水も時によって飲まされることが有った。痰壺の水は、防火用水と同じく毎日きれいに取り換えるのだが、掃除の後、古兵が痰を吐いて寝てしまう事がある。痰壺に痰を吐くのは当たり前の事だが、内務班では痰が入っていてはいけないのだ。

 ある夜、おそく、山本伍長がひどく酔って内務班に入って来た。たまたま僕の寝台の前に立ったかと思うと
「起きろ」
と言う。
「手箱を開けてみろ」
と言うから中を開くと、一冊の岩波文庫の本が出て来た。
「貴様は幹候志願だな」
「ハイ」
「この本は何だ。軍隊は本を読むところじゃないぞ」
そう言って、岩波本を叩きつけたかと思うと、廊下にあった木銃を持って僕の前に立った。
「生意気に、こんな本を読むとは以ての外だ、俺が少し鍛えてやる」
そう言ったかと思うと、木銃を持って僕の胸の辺りを勢いよく突いて来た。後ろに倒れて起き上ると、又一発、かくて次々と木銃の”突き”が繰り返されたのである。咽喉といわず、胸といわず、突いてくる木銃を払うことも出来ぬ口惜しさ。下あごの辺りから幾条かの血が流れ落ちていた。口惜しさに思わず、両手の拳を握りしめた。僕の眼はそれこそ怒りに燃えていた。
「貴様。その眼つきは何だ。上官に抵抗する気か」
酔うてるとはいえ、今度は傍らにあった痰壺の水を飲めと言う。渋っていると、更に手箱の上の整理した衣類や所持品を、木銃で片っ端からひっくり返してしまった。兵隊はこの33センチの手箱の整頓には多くの時間と神経を使うのだ。運が悪かったと言えばそれまでだが、毛布の中で僕は一人口惜しさに泣いた。この伍長は、自転車屋の小僧上りの下士官志願兵であった。


訓練と飢え

 関東軍は実戦部隊ではないが、ソ連という仮想敵に向かって、それこそ毎日、実戦以上の激しい訓練を行った。
 僕が入隊した昭和15年1月から、開特演(関東特別大演習)の昭和16年7月の大動員までは、実戦以上の激しい訓練を行った。苦しさに耐えきれず結氷した黒竜江を渡って、歩哨立番中にソ連に逃亡した者もあったし、三八式歩兵銃を口に加えて自殺をはかった者もある。古兵の激しいビンタを浴びて、僕の同年兵の同名の越川は遂に発狂し、陸軍病院に送られたが、帰還する時も回復せず狂人のままであった。
 秋季大演習と冬季演習は、平生の訓練を実証する事で実戦以上に激しく、飲み水も補給されずに駈足行軍を連夜続け、倒れる者はそのまま置き去りにしていくという有様だ。
 興安山脈の冬季演習は、零下40度を超える雪の中を、重い重機を、あるいは分解搬送し、あるいは二人搬送で突進する。眠れば死ぬしかない。腰まで達する雪の中を、歩くだけでも息は絶え絶えだが、防寒具を付けているので、流れるように汗をかく。その汗は休憩すると、忽ち冷たく体中を氷の様に冷やす。凍傷でやられる兵隊も多かった。
 夜陰に乗じての払暁攻撃というのは、徹底して雪中を行軍し、朝まだ明け切らぬ頃山頂の敵陣地に掛け声と共に突入するという戦法だ。機関銃を馬に乗せてトボトボ歩く時は良いが、この雪中迫撃戦では、分解して交替で担いで行く。三八式歩兵銃と違って何しろ銃身だけで8キロある。この鉄の塊が、グンと肩に食い入って来るのだが、自分からは決して他の者に代わってくれと言えないのが軍隊だ。漸く払暁攻撃が終わって、山頂から営庭に向かって行進が始まったと思うと、前方から
「駈け足」
という号令がかかる。中隊長は馬上から
「これから原隊に向かって各隊は競争だ、幹部候補生は白腕章を巻け」
と大声で叫ぶ。何しろ、原隊までは40キロぐらいの地点だから、この雪中駈足競争は死ぬほど辛かった。中には、途中で倒れる者、足が引きつって動けない者も続出する。雪を口の中に放り込んでは、ヨロヨロと今にも前にのめりそうになって、それでも走る。一期の検閲前だから、皆必死であった。地方の満人が、僕らの哀れな姿をボンヤリと立って眺めている。この時は”ああ満人に生まれれば良かった”とつくづく思ったものだ。苦しい時には、必ずと言っていい程、故国に待つ父や母の姿を思い出した。”万歳で送ってくれた親戚や近所の人に申し訳ないゾ、頑張らねば”。こうして世界最強の関東軍の兵隊が出来あがったのであった。

残飯あさり

 何しろ、軍隊の初年兵時代というのは腹が減って堪らない。僕らは皆、争って古兵の残飯を食べた。残飯は、食器を洗う時に食べるのだが、これも早い者勝ちであった。飯を早く食べて、食缶を炊事場に返納する前に、古兵の食器を洗う。その時機敏に残飯を食べるのだが、僕の戦友の宮内は、小僧をやっていただけに要領がよく、いつもサッサッと先に食べてしまう。残飯で一番困るのはライスカレーで、これは手で掴むわけにゆかず、さりとて大サジがある訳ではないので、仕方なく残飯の入れ物の中に顔を突っ込み、手で掬い上げて食べた。
 大学出のインテリも、小僧上りも、みんな一様に残飯にありつこうと目の色を変えていた。名古屋の医大を出た駒沢は、要領が悪い為、いつもマゴマゴしながら仲間の食べた残飯の残りを食べていたが、ある晩の事であった。中隊のすぐ傍にある豚小屋(国境第一線の為豚舎があった)の前に出てみると、駒沢が低い姿勢で何かしている。傍によって
「どうした?」
と聞くと、彼は低い声で
「この中に残飯がある」
というのだ。つまり、豚小屋の中に捨てた残飯を食べに来ていたのだ。
「おい、あまり人に言うなよ。僕は毎晩ここに来て食べているが、結構いいのがあるぜ」
彼はそう言って豚舎の中に手を差し伸べた。
「見栄も外聞もないわい。腹が減ってやり切れん」
そう呟きながら、尚も頬張る駒沢である。
「どうだ、明日から二人でここでやろう」
「それもそうだ」
二人は互いに顔を見合わせながら、こっそり隊に帰った。
 ところが、豚小屋組は他にも幾組かあった。板倉も、大木も富川も、皆豚小屋でやっていたのだ。僕はまだ豚小屋まで気が付かなかった。
 僕の戦友(これは古兵の上等兵)は日方といって、中隊でも一番恐ろしい鬼上等兵であった。戦友は、初年兵が腹の減っている事を知っているから、多くは夜、酒保からマントウ(饅頭のこと)などを買ってきて、コッソリ消灯後、毛布の中に入っている初年兵に、そっと渡してくれるのであった。僕の戦友は「鬼」というだけって、いつも怒ってばかりいて、ただ一度もマントウを買ってきてくれた事はなかった。しかし、隣の大木の戦友は良い人で、毎晩のようにマントウを買ってきてくれる。僕は大木が毛布の中で毎晩マントウを食べているのを、つくづく羨ましく思った。腹が減っているから一本のマントウはノドから手が出るほど欲しい。或る日の事、大木がバカにしょげ返っているので
「どうした」
と聞くと、
「昨日、戦友がくれたマントウを手箱の中にしまっておいたら、誰かに盗まれた」
という。誰かが、大木のマントウをソッと盗んだらしい。こんな事も軍隊なればこそだ。


遺書


 遺書というものを書いたのは、後にも先にもこの時だけだあった。二十歳を過ぎたばかりの若者が遺書を書く。今から考えればウソのような話だが、当時は、それこそ真剣であった。死というものを考えた事のない、今の若い人には想像さえできない事だが、当時はまじめにこの遺書を書いて、それで立派に死ぬつもりでいたのである。
 死を見つめると、人間は誰しも厳粛になる。ふざけ半分で死ねるものでもないし、また遺書が書けるものでもない。何と書いたか詳しい事は忘れたが、”生まれてから今日までの御両親の御恩は死んでも忘れません。自分は国の為、天皇陛下の為、立派に死んでゆきます。どうか父上も、母上もいつまでも元気でお暮しください”という内容の物を書いて、最後に血判を押して封印した。妹や弟にもそれぞれ書いた。人間というものは、その環境に入れば、良くそれに順応していくもので、誰一人として、俺は死ぬのは嫌だなどというものはなかった。遺書を書き終わった後の日曜の外出は、生まれ代わった様に気持ちが良かった。

****************************** 引用終わり ******************************

 凄惨な負け戦のノモンハン事件の翌年、二十歳そこそこで国境警備の任に当たった青年の実録である。一心に学びたい気持ちを保ちつつ厳しい訓練に立ち向かう、そんな状況が赤裸々に伝わってくる。
 しかし、初年兵の時、ビンタのやり合いや掃除バケツ、痰壺の水を飲まされた事には驚かされた。ノモンハン事件の影響もあり、これまでのゆったりした本土での生活から抜け出し、いつ死んでも不思議の無い戦場の最前線に向かうにあたり、ビンタのやり合いも、気合を入れ新人たちの気持ちを引きしめる為といえば、そうかも知れぬと思うが、それにしても、掃除バケツや痰壺の残り水を飲ませるのは、さすがにやり過ぎだろうと感じる。

 およそ大きな会社や組織では、組織の目標や向かうべき方向を明確に認識すべく、経営方針や理念を謳い、全構成員に周知徹底するようにしている。私も、会社務めの時には、年頭の挨拶や、長期連休前の集会でも上位の方から会社の向かうべき道、方針を何度も何度も繰り返し聞かされたものである。何度も繰り返される事で、意識せずとも、その方針が自ずと身に備わるものである。
 では、当時の日本陸軍はその様な理念が有ったのかというと、思い出すのは戦陣訓である。兵員に対する教育方針がどうなっているのか見てみると
  『本訓第二 第五 率先躬行(そっせんきゅうこう)
   幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざれば下必ず乱る。』
と謳われている。
 掃除バケツや痰壺は、就業後は、きれいに掃除し水一滴残してもいけないのが規則とはいえ、僅かな水が残っていたからと、初年兵に飲めというのは、この戦陣訓に反している。当時の日本軍では、戦陣訓の文面だけでなく、その謳っている精神まで、兵隊たちに周知徹底されていなかったのではないか。上位から痰壺の水を飲めと言われて飲むしかなかった兵員が、飲めと命令した幹部を尊敬できる訳がないではないか。
 関東軍の末端での隊員に対する躾の仕方が、戦時下とはいえ、常軌から逸した、言ってみれば、ガキ大将がその場で思いついた様なお仕置きをメンバーに課すが如く、仕置きが行われていたのではないか。戦陣訓の意図が末端まで徹底されていたとは到底思えない。戦陣訓という精神的支柱が、徹底されず、勝手放題になされていた組織であった事が、軍事組織として脆弱さを示現している様に思う。

 又、インパール作戦を指揮した司令官、牟田口中将はといえば、初めは反対でありながら、自分の出世が気になり、インドとの連携を考えていた東條首相に忖度して、誰もが無理というインパール作戦を実行すると言い出し、強引に実施に移し、そして、案の定敗戦に至った。 兵站や気候、風土病など、論理的思考の結果を無視した作戦であり、負けるべくして負けたと言っても過言ではあるまい。

 戦前の日本軍は、弱い組織、負ける組織の構造とは、こういう組織だという事例を我々に示してくれている!

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