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わが身世にふるながめせしまに【小説ノック9】

歳をとったあなたと。

***

 風呂から上がって寝室に入ると、真知子さんが鏡台の前に正座して顔にクリームを塗っていた。この家を建ててから十数年。その時唯一作った和室が、今の俺たちの寝室になる。
 いつものことだが、部屋には常夜灯しかついていない。暗いのに、よく見えるなあと思う。俺なんかは、もう夜はまともに見えなくなっているというのに。
 布団の上に座り込んで、真知子さんの方を見つめる。ほっそりした背中が頼りなさそうに見えるが、その実しっかりした性格であることを、俺は知っていた。
「よく見えますね」
 気付いたら、そんな言葉が口から零れ落ちていた。
「あら、見えませんよ」
 クリームをすねにも塗りながら、真知子さんは答える。それはニ三日前に出先で買ってきた、一個二千円近いというものだ。人から聞いて試しに買ってみたらしいが、どうなのだろうか。少なくともそのクリームを塗り始めてから、肌荒れは軽減したようには見えるが。
「おや、そうですか?」
 てっきり、見えているものだと思っていた。鏡の前に座っている訳だし。
「だって、塗るだけですもの。見えなくても変わりませんって。自分の体がどこにあるかくらい、見えなくてもわかります。よいしょ」
 真知子さんが膝立ちのまま歩いて、布団の方までやって来た。何時だろう、と枕元の電子時計を手に取る。そのライトをつけると、十時過ぎを示していた。まだ、床に就くには早い時間だ。
「そのクリーム、効きますか」
「うーん、まだお試し中ですかね。でも、結構いい感じです」
「それ、そのクリームですが」
「はい」
「よかったら俺も試してみてもいいですか。気になっているので」
 眉をひそめながら、真知子さんが言う。これは、《うーん、微妙》といったときの顔だ。
「……触ってみます?」
「じゃあ」
 両手を広げて、俺の前に差し出す。その手に触れると、思ったよりもべたついていた。ねっとりとした脂っぽいものが、指先につく。クリームというより、軟膏のような感触がする。嫌な感じだった。
「ああ、こんな感じなんですね」
 やんわりとした言葉を選びながら、ティッシュを取ってクリームを拭きとる。これは、試すのはよしておこう。
「そうですね、槙彦さんは嫌いかもしれません。私はあんまり気になりませんけど」
「はい」
 俺は、皮膚がべとべとするのが昔から何となく苦手だ。真知子さん曰く、《べとべとするもののほうが効果がある気がする》らしいが。
「私、カサカサしてる方が嫌だから、どうしても強力なやつが欲しかったんですよね。そしたら会社の人が、これが良いですよって」
「はい」
「高いですけど、その分効いてる気がしますし」
 真知子さんの口癖、《気がする》。普段は気にならないのだが、薬に使うのはどうなのだろうか。そんな疑問がこみ上げてくる。
「その、気がする……というのは、いつも思うのですが何なのでしょう」
「はい」
 きょとんとした顔の真知子さんに、思い切って尋ねてみる。
「聞こえる気がするとか、見える気がする、ならわかるのですが。効いている気がする、というのは、本当は効いていないということでしょうか」
「うーん、そんなに難しく考えてなかったですね」
 そう言うと真知子さんは、右手を頬にあてて考え始めた。
「そうですねえ」
「はい」
 しばしの沈黙が流れる。いつもは陽気な真知子さんだが、こうして真面目な顔をしているのもかわいらしい。
「……よくわかりません」
 結局、真知子さんがひねり出したのはそんな言葉だった。
「よくわかりませんか」
 真知子さんは真面目にそう言っているらしい。なんとなく、おかしくなってきた。
「そういう訳ですので、次回からは気をつけますね。効いている気がする、は禁止です」
 ぴっ、と人差し指を伸ばして言った真知子さんに、俺は思わず噴き出した。そんな、ポーズをとらなくても。
「何がおかしいんですか?」
 怒っているわけではなく、いたって真面目に真知子さんは応える。そうだ、この人はそういう人だった。
「いえ」
「なんですか」
「禁止しなくても、いいんじゃないでしょうか」
「あら、そうですか?」
「ええ。プラセボ効果というものもありますし」
 べたべたするその手を取って、微笑みかける。若い頃は肌が強くて、手荒れなどほとんどしなかった真知子さんの手。それが今では、ひどく乾燥するようになった。
 真知子さんだけではない。俺だって目は悪くなったし、最近は関節もあちこち痛い。お互い、歳を取ったということだ。
「そうですね。効いていると思う方が、効いている気がします」
「そうです」
 真知子さんが笑う。ころころと、可愛らしく。この人と一緒になって長いが、幸いなことに、今でも変わらず愛おしいと思える。真知子さんもそうだと良い。そんなことを日々思うのだ。
 真知子さんの手に、力が入る。両手を繋ぐような、そんな形になった。
「真知子さんは、素敵な人です。今も昔も」
「まあ」
 にっこりと笑う真知子さんに、こちらも嬉しくなる。
「もう、だいぶ歳を取ったでしょう」
「歳をとっても、歳をとったなりの美しさがあると、俺は思います」
「そうだといいのですけど」
 真知子さんはうつむいた。照れた時の、反応だ。若い頃から変わらない。そっと、その肩を抱きよせるようにする。なんとなく、以前より痩せている気がした。
「痩せましたか?」
「体重は、むしろ増えてるんですけど」
「おや」
 肉の付き様が、若い頃とは変わっているからだろう。それは、仕方のないことだ。その肉がそげた肩や背中の下から、息遣いを感じる。
「槙彦さんも、なんだか前より柔らかい感じがします」
「筋肉が落ちたんでしょうね。肩も膝も上がりませんし」
「運動でもしますか?」
 という、真知子さんの問いかけ。
「こんな老夫婦でもできる運動が、ありますかね」
 正直に、こう返すほかなかった。運動と言うと、どうしても激しいものを想像してしまう。そうでなくて、できれば二人一緒にするものがいい。
「探しましょうよ。今時本でも、それこそインターネットでも。きっと何でもありますよ」
「そうだといいですね」
 ネットか。娘や孫にでも、明日きいてみようか。俺たちよりもずっと、調べものには詳しいだろうから。
「槙彦さんと、もう少し一緒にいたいですから。健康で」
「ええ、健康で」
 同じ願いだ。俺も、真知子さんともう少し……少しでも長く、一緒にいたいと思っている。

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