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からくれなゐに水くくるとは【小説ノック17】

 本屋に寄った帰り、ふと通り道にあるデパートのディスプレイを眺めた。マネキンの横に貼られたポスターには、柔らかな表情をしたモデルの顔。何の広告だろうかとよく見ると、化粧品ブランド《ポムダジュール》のロゴが右下隅に書かれている。《この春を、纏う》なんて文句が躍るポスターは、素直に美しいと思えた。
 黄色いスプリングコートや、桜色の香水。販促とデザインがせめぎ合う、何枚ものポスターやマネキンが並ぶ中で、《ポムダジュール》の一枚が何よりも目に飛び込んでくる。綺麗さと可愛いさのちょうど中間にある、モデルの微笑みが俺を射抜いたのだ。
 唇には、つやつやとした上品な色合いのピンク。淡くてナチュラルな印象のリップは、見ている俺の心を華やかにさせる。
誰にも言ったことはないけど、化粧品、特にリップは昔から好きだ。男の俺が言うと、意図しない意味に捕らえられることもあるだろうから、あまり口にはしないけど。
母親が出勤前にしていた化粧の、仕上げにひと塗りされた赤。それがあまりにもキラキラして見えたのをよく覚えている。そのことを母親に言ったら、途端に複雑そうな笑顔になった。
 母親はよくわかっていたのだろう。世の中には、いろんな人がいるということを。それから、難癖をつけてくるやつらもいるということを。だからあの人は、否定もしなければ、勧めもしなかった。
それでも思うのは、少なくとも装うという面では、ある意味男は損だということだ。だって、男のファッションは「かっこいい」しか選べない。女の子は、「綺麗」も「可愛い」も、「かっこいい」だって選べるのに。
わかってるよ。女の子のファッションだってそりゃ大変だ。化粧をしないと嫌な顔をされたり、ヒールのある靴で足を痛めたりもする。そういうのって自由じゃない。
でも俺だって、「綺麗」や「可愛い」を選びたいと思う時がある。女の子になりたいわけじゃなくて、男のままで。他人に言っても、簡単には理解されないけど。
物悲しい気持ちになった俺は、ポスターに背を向ける。でも、なんというか。今なんじゃないか。ふと思ったときには、足がデパートに向いていた。幸い財布の中身には余裕があることだし、と一階の化粧品売り場を見渡して《ポムダジュール》のブースを探す。青いリンゴのロゴは、すぐに見つかった。書き物をしていた店員さんが顔をあげたのを見計らって、目配せをする。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「リップ、見たいんですけど」
「プレゼント用でしょうか」
 ごまかすよりも、素直に言ってしまった方がいいだろう。
「いえ、自分で使います」
「……失礼いたしました。こちらへどうぞ」
 沈黙はごく短かった。勧められるまま、椅子へ座る。あ、チークもアイシャドウも可愛いのがあるな……とは思うけど、毎日メイクするつもりは今のところないし、とりあえずはリップだけ。
「お好みのカラーなどはございますか?」
「初めてなので詳しくないんですが、どうやって選んだらいいんですかね?」
 店員はにっこり笑って、鏡を俺の前に置いた。覗き込むと、まあまあ顔のいい男がうつっている。自分で言うか? なんてね。
 今日は薄手の青いシャツにオフホワイトのボトムス、上着はグレーのカーディガンだ。平たく言うと、普通の男の格好。これでスカートでも履いてれば、店員さんも動揺せずに済んだだろうけど。事実、俺は普通の男なんだからしょうがない。
「では、これから探していきましょうか」
 店員さんは、たくさんのテスターを取り出している。なんだか、そうじゃない気がした。頭によぎったのは、さっきのピンク。俺が欲しいのは、他の何かじゃなくて……あのピンクだ。
「あの、表のポスターのやつって、あります?」
「ポスターのものですか? ……ええ、ございますよ」
 テスターの中の一つを、店員さんは手に取った。
「こちらですね。今年の春の新色で、シアータイプになっております」
「シアーっていうのは?」
「透け感、透明感のあるものですね。ナチュラルな雰囲気に仕上がります」
 確かに、ポスターの唇はつやつやとしながらも透明感があった。ああ、なんだかわくわくしてきたかもしれない。
「こちら、お試しになりますか?」
「はい、是非」
 テスターをなぞった化粧筆が、俺の唇に置かれる。その瞬間、雷に打たれたかのように、ぶわっと心の中で何かが広がった。鏡をちらっと見ると、ほら、やっぱり似合ってるじゃないか。にやにやとしそうになるのを、必死で抑えた。
「とても、お似合いですね」
 リップを塗り終えた店員さんの言葉が、多少意外そうに聞こえたのも、大して気にならない。それくらい、このピンクは俺の顔に合っていた。まるで最初からここにあったみたい……というと、大袈裟ではあるけど。
「他のものもお試しになりますか? 例えばこちらの、コーラルですとか。同じような色味で、マットタイプもご用意できますよ」
「あー、いえ、これが気に入ったので。今日はやめときます」
「承知いたしました」
 購入の手続きをしていると、店員さんがためらったように口を開く。
「メイクは、そのままでよろしいですか? 落として行かれなくても?」
「ええ。このままで。大丈夫です」
 あえて、にっと笑って応える。もしかすると店員さんも、俺みたいなのの対応は初めてなのかもしれない。そんなふうに考えてみると、店員さんの動揺も理解できる。だからこそ、大丈夫だって伝える。俺の後に続く人のために。
「そうですか。では、またのお越しをお待ちしております」
 リップを受け取って立ちあがると、どきどきしてきた。怖いんじゃない、楽しくて。自分の唇を、見せびらかしたくてしょうがない気分だ。
 デパートを出て歩き始めると、通りすがる人がちらちらと俺の顔を見ていることに気付く。当たり前の反応かもしれない。だって、男が化粧をするなんて、まだ普通じゃないから。でも、「まだ」なだけ。誰も知らないだけ。
 変わっていく。もっと自由になる。目が合った通りすがりの人に、俺は微笑んだ。俺と同い年くらいの男の子は、ぎょっとした顔でうつむいてしまった。でもいいんだ、俺は自由だから。だってそうだろ? 少なくとも今俺は、お気に入りのリップという一歩を踏み出したんだから。

***

私自身は化粧しない人間ですけども。 

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