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三笠の山に出でし月かも【小説ノック7】

ふるさとは。

***

 東京には本当の空がないと言ったのは……誰だったっけ。まだ夏にもなっていないのにひどく暑い夕方、大学から帰る途中で考えた。俺が育った町もそれほど田舎ではなかったけど、やはり東京には劣る。あくまで、都市という意味では。
 サークルの交流会だったか、懇親会だったか。とにかく、そういった類いの会合の帰り、俺はふと空を見上げている。誰だか知らないが、東京の空は少なくとも狭いよ、と内心で語りかけた。
 東京は町として意外と古い。今俺が歩いている大学から最寄り駅までの短い道のりも、すぐ脇には細い路地が生えている。看板が並ぶその先に、何があるのかはわからない。なんとなく、治安が悪そうで近寄れないのだ。
 大通りの植垣の横には排水溝の汚れ、煙草の吸殻、そしてどこかから転がってきたビニール袋。通り過ぎた店の店員だろう人が、掃除をしている。人通りが多いというのも一長一短だな、なんて。何の店だか知らないけど、ご苦労様なことだ。
 ふと振り返って看板を見ると、バーのようだ。いや、ワインのイラストの周りにイタリア語で屋号が書いているから、バルか。その時偶然、店員と目が合って会釈される。残念ながら、俺はワインには興味がない。
 二十歳の誕生日を迎えてからこっち、いろんな酒を試してみたりもした……が、結局どれが好みという程のものでもない。というかそもそも、食べ物に興味がなかった。外食は誘われれば行く程度で、一番利用しているのが学食という状態だ。念のため言い訳しておくと、味の良し悪しはわかるのであって……いや、誰に言い訳してるんだ。
《鴫沢くんって、よくわかんないよね。あんまり自分のこと話してくれないしさ》
 歩きながら思い出すのは、席を外したタイミングでうっかり聞こえてしまった、同級生の言葉。さすがにちょっとへこんだ。そりゃ事実だけども。
 東京に来て丸二年と少し。とにかく授業を第一にやってきて、その他のことはおまけみたいなもんだった。多分、もっと要領よくやれる人もいるんだろうけど……俺はそうではない訳で。まあ、学んだり考えたりするのが楽しすぎたというのも、大いにある。気付いたら、《鴫沢くんって浮いてるよねー》みたいなポジションを獲得していた。さすがにちょっと辛い。
 今日の会に参加したのも、いくらなんでもまずいかなという気持ちの表れでもあった。参加しているサークル、といってもスポーツやゲームをする訳じゃない。留学生のサポートをする、ボランティアサークルだ。とはいえ拘束力のない、ゆるい集まり。出れる人は出てね、とかそんな感じだ。でもまあ、人と話すのは好きだし、外国語も苦じゃないし。比較的向いている趣味、趣味でもないけど。
 そのうちに駅に着いたので、改札を通る。こっちに来てから手に入れたSuicaを触れさせるだけ、便利だと思う一方で、さっさと全国統一してくれないだろうか、なんて。JRが別会社のうちは無理なのかなあ、なんて思いはするけど。
 電車は五分もすればやってくるだろう。便利でもあり、せわしなくもある。東京という都市は嫌いじゃないけど、ずっといたい場所でもない。ただ、今通り過ぎるだけの場所。そういう意味では、俺も留学生みたいなもんだった。
 ポケットの携帯が鳴る……ジャネットからだ。
《hi 帰るのはやいね。明日くる?》
 ジャネット・ジョーンズ。ウェイリー版の源氏物語が留学のきっかけという、なかなかレアな理由を持つアメリカ人だ。
《行く。二三限あいてる》
 そうメールを返した。今は、日本語版現代語訳を一緒に読んでいたりする。ジャネットは日本語はそれなりにできるから、難しい漢字とか、平安時代の文化なんかをサポートするのが主だけど。外国の古代の文化を学ぶなんて、俺だって自力では厳しいものがある。できるだけのことはしたい。一応、専攻は中古文学だし。
 そんなことをしていると、電車が来た。一応行先を確認して乗り込む。座れはしないがそこそこ空いていた。詰めなくてもよさそうなくらいには。車内は冷房が効いていて、少し冷えすぎた感じもある。薄手の七分袖を着ているからだろうか。
 扉の側、手すりをもって立った。夜になると平日は結構混んでいる。それを避けるために早く帰ったのだけれど、もう少しくらい話をしても良かった気がする。三年生にもなって、親しい人が主に留学生というのも……まあ、悪くはないけど。
 動き出した車両に揺られる。結局大学というところは、いろんなところから集まった人たちが、また散らばっていくところだ。それが留学生だろうがそうじゃなかろうが、関係ない気がする。
 だから、という訳じゃないけど。こっちでの人間関係は、それなりでいいような気がしている。俺の東京留学生活も、あと二年を切った。卒業すればあの町に帰る。東京のことは、思い出になるんだ。
 車窓から見える景色は、だんだんと暗くなっていく。一人になると、故郷のことが恋しい。古い町並みだとか、友人の笑顔だとか。結局俺は、あの町の住人だということだろう。
 うまく就職できればいいけどな、なんて。柄にもなく不安に思う時もある。今から半年もしないうちに、世間は就活シーズンに突入する。まだ何がしたいかとか、決めてはいない。ただぼんやりと、人と話したり、言葉をつかったり……そんなことがしたいな、と思ってはいる。どこでもいいわけじゃなくて、故郷の、るり湊で働きたい。
 電車が音を立てて停まる。最寄り駅だ。降りると、やっぱり暑い。寒暖差にくらっとしながら、歩き出す。ここからアパートまでは、五分くらいだ。結構遠いとこ住んでるね、なんてよく言われる。歩くのが好きなんだ、俺は。
 早く帰りたいな、と思う。ふと浮かんできたその言葉。アパートになのか、それとも故郷になのか。でも、俺の家はあそこだ。るり湊の駅近く、開発から取り残された区域にある、古びた家。母親がいて、祖父母がいる、あの家。それが、唯一帰りたいと思える場所……なんだろう。
 その前にまず、勉強の方を頑張らないと。専攻が決まって、これからどんどん厳しくなってくるはずだ。留年だとか卒業できないとか、そんなことになったら、学費を出してもらっているのに申し訳ない。
「ま、もうちょっとだし」
 明かりの消えたアパートまで、もうすぐだ。早く帰ろう。

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