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ながながし夜をひとりかも寝む【小説ノック3】

眠れない夜の孤独。

***

 ……寝つけない。目を開けると、明かりの消えた部屋にかすかに差し込む、街灯の光。枕元のケータイを見ると、十一時半を過ぎている。ベッドに入ってから、もう三十分は経っていた。暑くも寒くもない、お腹もすいてない。トイレに行きたいわけでもない、となると、純粋に寝付けない状態らしい。
 もう一度目をつぶって、落ち着く姿勢を探しながら、数分。ああでもない、こうでもないとごろごろした後、集中力が切れかけているのを感じた。
 大きく息をついて、横向きに寝ころんだまま体を丸める。掌を握り、放すのを繰り返すと、体の力が抜けていくのがわかった。大切なのはリラックスと、嫌なことを考えないこと。考えないこと……と思うと、かえっていろんなことを思い出す。
 今日同僚と話していた時の不意の沈黙だとか、小学生の頃の恥ずかしい失敗だとか、あるいは大学生の時に彼女に振られた理由だとか。しょうもないようでいて、いつまでもずるずると思い出してはつらい気持ちになってしまうようなこと。……けど、今となっては昔ほど落ち込むこともなくなった。生きていれば誰だってそういうことは起こる、と心から思えるようになったからだろうか。
 いったん、《今夜は眠れなくてもいいか》と考えることにした。明日は土曜日、休みだから多少寝不足でも大丈夫。こういうことはたまにあるけど、一日なら死ぬほどじゃない。それに、寝付けない日の対処法というものが少しはわかってきている。それはまあ、二十五年も生きていれば。
 思い切ってベッドから起きることにする。ひんやりとした空気の中、明かりはつけないままでリビングのカーテンを開けた。煌々とした街灯が、アパートのすぐそばにある道路を照らしている。真夜中ではあるけど車が行きかい、ちらほらと歩く人もいた。
 ここからそう離れていないところにあるのが、《東通り》と呼ばれる歓楽街だ。アパートの南側にあるこの道路は、ちょうどその東通りから瑠璃駅へ向かうルートになっている。おかげで夜中になっても明るいし、時にはうるさく感じることもある。結果として、それなりの値段がする遮光カーテンを買う羽目になったのも痛かった。
 とは言っても、それほど賑わいが嫌いなわけじゃない。楽しそうでいいなあと思うし、こうして眠れない日なんかは、《まだ起きている人が他にもいる》なんて、ほっとしたりもする。
 なんとなく、窓を開けてベランダへ出た。単身者用の安アパートの三階、取ってつけたようなバルコニーには、物干しがつるされているだけ。肘をついてぼうっと外を眺めながら、秋の風とでもいうのだろうか、呼吸をすると冷たい空気が肺いっぱいに広がる。
「もう寒いなー」
 ここで煙草でも吸っていれば格好がつくのかもしれないけど、生憎そんなものはない。ただぽつんと、世界から切り取られたように、俺だけが存在している。
 ふと、道路の人影に目がとまった。どういう仲間なのか、先頭を一人、その後を二人が続いて歩く。内容ははっきりとはわからないけど、楽しそうに話をしているのが聞こえた。近所迷惑じゃないのかな、なんて思いながら、俺は笑っている。あんな風に馬鹿ができる友達がいたら、きっと楽しいだろう。俺は友達といても遠慮してしまう質だから、なおさら羨ましい。
 三人が通り過ぎるのを眺め、部屋に戻る。窓を閉めると息がこぼれた。自分で思ったよりも冷えていたらしかった。
 カーテンは開けたまま、ベッドに腰掛ける。こうしてぼんやりしているうちに眠くならないかな、と思ったりもしたが、頭の中はさっきよりもクリアだった。
「……どうしようか」
 時計を見ると、零時前。さっきの三人組は、終電に間に合っただろうか。それとも、駅まで誰かが迎えに来るのだろうか。どっちにしろ、無事に帰れているといい。
 時々思うことがある。道ですれ違う人や、電車に乗り合わせた人、それに明かりのついている家に。それぞれにそれぞれの帰るところがあって、俺の知らないところでその暮らしが存在しているということに。さっきの三人だってそうだ。それぞれのホームがあって、そこへ帰っていく。
 例えば、こんなことを考えてみる。
『さっき帰ってくるときにさ、道沿いのアパートのベランダで、立ってる人がいたんだよ。何してたんだろうね』
『ふうん、煙草でも吸ってたんじゃない?』
 なんて、やりとり。そんなホームが俺にもあったらいいのに、と考えることが最近は多くなった。自分で言うのもなんだけど、《外》での人間関係は順調に思える。同僚とのコミュニケーションもとれるようになったし、職場以外での友人もいる。ただ、俺が帰りたいと思うところ、ホームだけが空っぽのままでそこにあった。
 誰かと一緒に暮らす……例えば、結婚とか。そういうことをしてみたい。ケーキの上に乗った苺をあげたい、と思うような人と。別に、ケーキじゃなくてもいい。どら焼きの半分でも、二個入りアイスの片方でも。そういう、柔らかくて暖かいものを分け合うような生活がしたい。
 腕を上げて、伸びをする。カーテンを閉めて、ベッドの中へともぐりこんだ。布団の中は暖かくて、ほっとする。冷たくなっていた足先をすり合わせると、じわじわと温もりが伝わっていった。体が温まってくるにつれて、頭の中がぼんやりしていく。なんだか、眠れそうな気がした。
 胎児のように身を丸めて、できるだけ幸せなことを考えてみる。なんでもいい。些細な、どうでもいいありふれた幸せを。
 ひとつ、会社近くのパン屋で、十二時前に焼き立てが上がってくること。近所にオフィスが多いからだろう、その社員でいつも賑わっている《パンのかわみつ》。聞いた話ではずいぶんな老舗で、今は三代目が切り盛りしているらしい。
 ふたつ、隣の一軒家で飼われている猫が、窓越しに愛想を振りまいてくれること。白に茶ぶちのその猫が、朝から股のあたりを舐めているのを見ると、思わず笑ってしまう。
 みっつ、友達が、俺の好きな野鳥の写真を撮ろうとしてくれること。その友人は、鳥にはそれほど興味がない。それでも、俺が喜ぶと思ってブレた写真を見せてくれる。
 ……ありがたいことだと思う。優しさに触れることがあると、まだ生きていようという気になる。少なくとも今、俺の周りには――。


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