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逢はでこの世を過ぐしてよとや【小説ノック19】

 時々、賭けをする。誰かとじゃなくて自分と。例えば、降水確率が五十パーセントの時に雨に降られなかったら、お菓子を買ってもいいとか。出勤の時に猫を見かけたら、昼食は外で食べるとか。そういう何の意味もない、遊びみたいな賭けだ。
 なんでやってるの、と聞かれても……子供の頃からずっとやっている、癖みたいなものだ。実際には、そんなこと聞かれたこともない。だって、誰にも言ったことないんだから。だって、変じゃない?
今日の賭けは、朝陽が待ち合わせに遅れたら別れる、ということ。それだけを決めて、待ち合わせ場所の瑠璃駅へとやって来た。待ち合わせの三十分前、ちょっと早いけど駅に入ってすぐのカフェで、コーヒーを頼む。
カフェは、全国チェーンのありふれた店構えだ。ちょうど待ち合わせ場所が正面に見える席に座って、カップに口を付ける。店内では、スーツ姿のおじさんがコーヒーを飲んでいたり、女子学生らしき子たちがおしゃべりをしていたりする。なんだか、私だけがぽつんと孤立しているみたいだ。
「こないだ彼氏がさ」
 女の子の一人が言った。こっそり、少し離れた場所の話声に聞き耳を立てる。
「待ち合わせに来なかったんだよね」
 へえ、それでどうしたの? 心の中で返事をする。
「で、家に行ったらさあ、寝てたって言うの。馬鹿みたいじゃない?」
 そうだね、馬鹿みたい。私の彼氏と一緒。
朝陽は、そもそも時間というものをあんまり気にしない人だ。二時間遅れることもあれば、十分早く来ることもある。最悪の場合は、すっぽかす。そういう時、アパートを訪ねて、居たらいい方。必死に探し回って見つけたら、近所の喫茶店で女の子とお茶しているときもあったな。
 そうしたら、汗で化粧の崩れた私の顔を見て、朝陽は言うんだ。
『あ、かのちゃん。いやあ、逆ナンされちゃってさあ』
 なんて、ヘラヘラした顔で、悪びれもしない。そうすると私も怒る気がなくなってしまう。いいから行こう、なんて優しい言葉をかけてしまうのだ。
 甘やかしている自覚はある。でも、怒ったところで朝陽はへらっと笑うだけ。反省もしないし、怒るだけ無駄だった。
 左手の腕時計を見ると、待ち合わせニ十分前。まだまだだ。ガラスの仕切りの向こうに見えるのは、時計台だ。朝陽との待ち合わせは、いつもそこだった。近くにベンチと公衆電話があって、いつまでも待っていられるから。
 十五分前。カップは空だ。やっぱり、いつものようにあっちで待っていればよかったかもしれない。そうしたら、コーヒー代なんて細かいこと、考えずにすんだのかも。
「別れちゃえば? そんなやつ」
 また別の一人が言う。そうだよね、それが一番いい。
「でもさあ、なんか許しちゃうんだよね。自分でもよくわからないけど」
 それ、すごくわかる。あのヘラヘラした笑顔を見ていると、どうしなく朝陽のことが愛おしくなってしまうのだ。
 鞄から、手帳を取り出す。今日の日付を開くと、『十一時に駅!』の文字が踊るように書かれていた。栞として挟まっているのは、朝陽とのツーショット写真だ。先月旅行に行った時の写真には、そのヘラヘラとした笑顔が写っている。使い捨てカメラのフィルムを現像した中で、一番朝陽が素敵に見える写真だった。
 旅行代は、ほとんど私が出した。最初からそいういう人だった。別に、お金のことは気にしてない。本当に。私が不安なのは、このまま朝陽と付き合っていくこと。朝陽のことは好きだけど、一緒に暮らしたり、ましてや結婚なんて絶対に無理だ。
 だって、結婚したら期待してしまう。ちゃんと働いてほしいとか、他の女の子とは話さないでほしいとか。そんなの、朝陽にはできないとわかっているのに。
 十分前。手帳をしまって、レジへ向かう。二杯目のコーヒーと、ケーキを注文した。オレンジピール入りのチーズケーキは、こんな気分じゃなければきっと美味しいだろう。
 席に戻って、もそもそとケーキを食べる。味はわかるけど、気持ちがついていかない。コーヒーだけにしておけばよかったな。
 朝陽は来るだろうか、と時計台を見つめた。もし時間通りに来なくて、あーあ別れよう、なんて思った私が帰ってしまったら……朝陽はあの時計台の下で、ずっと私を待つのだろうか。そう考えると、心がきゅうっと痛む。別れると決めても、朝陽が来るまでは待とう。それくらいは、してもいいよね。
 五分前。じっとしていられない気分になってきた。朝陽はまだ来ない。時計台には、待ち合わせをしている人たちが立っている。一人の若い女の子が、やって来た男の子に手を振った。二人は手を繋いで、改札の方向へと歩いていく。
 ぎゅっと目をつぶる。私は、朝陽に来てほしいのだろうか。それとも、来てほしくないのだろうか。
 来てくれれば、しばらくは別れたいなんて思わずに済むだろう。今朝陽といて、楽しければいいじゃない。そう思うのも、一つの正解だ。
 来なければ、朝陽とは別れられる。いつまでも朝陽みたいな人に振り回されるのは、はっきり言って損な部分もある。でもきっと、しばらくは落ち込むだろうな。
 三分前になった。朝陽、来ないで。でも、来て。祈るような気持で、手を握りしめる。やめとけばよかった、こんな賭けなんて。朝陽が来ても来なくても、私が苦しいだけだ。
 時間が経つのが、長く感じる。朝陽は今、どこにいるんだろう。こっちに向かってる? それとも、家にいるんだろうか。腕時計を眺めながら、唇を噛む。
 どうしよう、一分前になってしまった。怖々とした気持ちで顔をあげると、時計台の下に朝陽はやって来ている。私は、泣きたいような嬉しいような気持で、朝陽を見た。朝陽はきょろきょろとあたりを見回して……私に気が付いた。ガラスの仕切りに近づいて、ヘラヘラと笑いながら手を振っている。
朝陽の馬鹿。今日に限って、なんで遅れてこないの。なんでそんなに、嬉しそうな顔で手を振るの。わかってる。本当に馬鹿なのは私。こんな馬鹿みたいな賭けでもしなきゃ、別れる勇気も出せないんだから。
席を立って、カフェを出た。
「今日、ずいぶん早く来たんだね」
 朝陽は、ヘラヘラと笑っている。
「うん、ちょっとね。行こう?」
 朝陽の手を取って、一緒に改札へと向かう。今はまだ、朝陽とは別れないことにする。泣きそうな気持ちを抑えて、朝陽に笑いかけた。

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