軽度ASD (TMS治療)

学校へ行けなくなった。
でも、行こうとする。

忘れ物は嫌だから、と、全教科鞄に詰め、左肩は帰ってくると、傷とうっすら痣ができている。

やっぱり悔しそうに帰ってくる。
辛いと。苦しいと。そう言う。

休みがち故に積み重なった大量の課題は、彼女の行く気を削いで、楽しい学園生活への想いは遠くに霞始める。

でも、その期待は捨てきれず、たまに行く。

しかし、行く度に、心は打ち砕かれて帰ってくる。

担任や、主任の声かけは、励ましではなくプレッシャーにしかならなかった。
少しづつでいいから。
と、それは課題が増え続けている事がわかりきっている彼女にとって、来る場所はないと言っているのと同じ。

私の中には、恨みが募った。
なぜ、周りの人は、手放しで受け入れてくれないのだろう。こんなにもいい子なのに。こんなにも従順なのに。それが故に苦しんでいるのに。

そして、私(親)との話し合いでは、
パズルのピースがきちきちになっている。と、隙間に少しの余裕もないと。少し空間があれば、いいのですけどね。と言う。

まるで、欠点の様に表現する。
全てが彼女の良さなのに。
きちきちの状態を緩めてあげられるのは、大人ではないのだろうか、大人の出来る教えなのではないのだろうか。

評価を低くてくれたらいいのだから、
課題出さなくていいと言って貰いたかった。
ただ、君が来てくれたら嬉しいんだよと言って貰いたかった。

しかし、課題が出来ないと、声はかけなければならないらしい。
学校を休みがちだと、どうだい?自分なりに努力しているのかい?と声をかけなければいけないらしい。

なぜ、課題をすることが前向きな一歩と考えるのか。なぜ、今日席に着いている彼女を褒めてあげられないのか。 なぜ、努力と言う言葉を使うのか。

信じられない。教師とはなんなんだ。

そう、いつしか、私が学校が、先生が嫌いになった。

言っていることは正しい。言っていることはわかる。しかし、全く違う。間違えているよと思う。

その義務や、正しさが、どれだけ一人の心を、傷つけているのか。人生の邪魔をしているのか。閉じ込めているのか。わかっていない。

夢や希望を打ち砕き、膝をつき、拳を握り、額を地につけ、苦しさや、悔しさや、悲しみで覆われている人間に、大きな壁のてっぺんから、声をかけてくる。

そしてそこからの景色を親に伝えてくる。
壁を乗り越えられるには、時間が必要なんじゃないですか。と。
このまま中3まで、在籍してくれて構いませんよと。

私はもう少し下に降りて、歩み寄って貰えませんかと。頭を下げる。私が悪いのですと頭を下げる。

しかし、彼らにその気はない。
あったとしても、どうやら降りてはいけないらしい。

平等という正義を犯しては行けないから。

だったら、ほっといてくれ。要求をしないでくれ。何も言わないでくれ。無視で構わない。そう思った。

それも彼らには出来ないらしい。気にかけてやらないとという正義があるから。

はっきり言って、あなた達がきちきちに詰まったパズルのピースですよ。

そう思った。

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