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木ノ内悠介さんインタビュー「ちゃんとこの世界にいる」

4月6日、

3月末から西会津国際芸術村で滞在制作をし、
個展「群集にあなたわたし」を開いた
東京藝術大学の学生・木ノ内悠介さんにお話を伺いました。

芸術村には毎年、美術学部デザイン科の教授と1年生のみなさんが合宿に訪れており、昨年度開催した赤べこの絵付けコンテストにおいて西会津国際芸術村賞を受賞、個展開催権を獲得した木ノ内さん。

今回の個展開催にどんな思いで臨んだのでしょうか、、!


なぜ「群集」なのか

群集を100枚描く


ずっと気になっていたのですが、、今回どうして「群集」というテーマで個展を開かれたのでしょうか?

木ノ内さん
そうですね、
去年大学で、「何かしらのテーマで100枚ドローイングをする」という課題が出されたときに、「群集」をテーマにしたのがきっかけです。

木ノ内さん
すごく漠然と、わらわら人が集まってるってなんか面白いなっていうのがあって。
人とか虫とかがわあって集まっててうじゃうじゃしてる、ちょっと気持ち悪いけどなんかゾクゾクするというか。
なんかこれ面白いぞっていう、ふわっとした面白さを感じていました。

あとはその課題に対して、具体的なモチーフではない、ひねったテーマでいきたいって感じたのもあって、、。
人によっては昆虫を100枚描く人もいると思うんです。
いろんな種類の昆虫とか、具体的な想像しやすいモチーフがいるっていう。

でも自分の場合は、「群集」って何、みたいな。
自分でも群集100枚描けってどういうこと?って、群集をテーマに何を描いていけばいいのか具体的によくわかんないからチャレンジしてみたいと思って始めてみました。

それで最初は人の集まりをただ描いてただけだったんですけど、それだとどんな人の集まりなのかがよくわかんないなって。
絵を見ただけではどこにいる人たちなのか、、
例えばファミレスにいる人なのか、駅のホームにいる人なのか、ボーリング場にいる人なのかとか。

人の集まりを描くってなったときに、その環境っていうものがテーマになってくると感じたんです。
描いていく上で、どんな人たちが集まっているのかっていうのを説明するためには必ずその環境を前提に考えていかなきゃいけないと気づいて、

それで、
”個人が群集を形成して、群集は環境によって左右されている”
そういう構図が自分の中である程度見えてきて、もうちょっと考えてみたいと思っていたところにこの展示の話をいただいて、今回それをテーマにしたことで自分の中でより深まったように思います。

人は群れて生きている


なるほど、、!人の集まりとか、群集に興味を持つようになったきっかけってあったんですか?

木ノ内さん
うーーんなんだろう、

はっきりとしたきっかけはないですけど、(横浜で育って)やっぱり人混みに揉まれるような経験も多いし、人がいっぱいいてよく迷子になったりとか。
人の群れの中にいて誰が誰だかわかんなくなっちゃうみたいなことを結構体験してきてるんだなと感じます。

だから、人は群れて生きているっていうのが自分の感覚の中に無意識的にあって、人を描くってなるとどうしてもいっぱい人を描きたくなるというか、自分の中で必須的な条件になってて人の群れを描いちゃうのかなって感じます。


なるほど、幼少期から人がいっぱいいる環境で育ったんですね。
これは個人的な疑問なんですけど、私田舎の出身で、上京したときに人の多さにやっぱりなかなか慣れなくて。木ノ内さんのように最初から人がいっぱいいるのがあたりまえだったら抵抗感とか違和感を抱かないのかなって思っていたんですが、、。

木ノ内さん
いやでもそれはたぶんそうで、人いっぱいいるなとは思うんですけど、、


それが嫌だとかはなく?

木ノ内さん
そうですね、
いや、嫌だって思う瞬間もあるんですけど、人酔いというか疲れちゃうときもあるんですけど、でもそこまで最初から「うわ、、」とは思わなくて、景色の中に溶け込んでるような感じというか。
人がいっぱいいるっていうのは普通の環境として育ったっていうのはやっぱりあったし、そのことを群集っていうテーマを描く上ですごく感じました。

自分はこれが普通の環境で育ってきたんだって俯瞰して自分のことを見たら、それこそ今回西会津に来て、さらにそれを実感したというか。
全然人いないなって。

芸術村スタッフの方とかがほとんどの人と顔見知りだったりとか、道の駅にある商品の多くに関わっていたりとか、こんなにつながりが一寸先に、目の前にあるような感覚というか、町全体が人を通してつながっていてそれを自覚してるっていうのがすごい驚きで。

横浜なんてもう知らない人しかいないから、道ゆく人知らない人だし。
でも絶対この人たちも何かしらの仕事をしてて、その仕事が自分たちのどこかの生活の一部になってるはずなんですけど、やっぱりそれを自覚できない、しにくい環境だよなっていうのをしみじみと感じましたね。

あたりまえなんですけど、本来人と人は関わり合ってる。そのことをここまで自覚することはなかったっていうのがすごく衝撃で、自分にとって刺激的でした。

西会津の「環境」に来てみて

生きることに対しての身近さ


西会津という、ご自身のこれまでの環境とは違う環境に身を置いてみていかがですか?

木ノ内さん
普段実家で暮らしていたからっていうのもあって、(滞在しているレジデンスで)いざ一人暮らしをしてみるとやっぱり楽しいっていうのがまずあります。
一人で物事をするのが好きなので、料理とかちゃんとするのも初めてだし、お洗濯とか、日常の1日の流れみたいなのができて、すごい人間みたいだなって(笑)
1日の時間の流れをすごく感じるようになって、健康的な生活を送れているような気がします。

あとは、4月でも結構寒さを感じて、自然が近いっていうのもあって、生命の危機、みたいな(笑)
さすがに「やばい死ぬ、、!」っていうことはないんですけど、料理も自分でしなきゃとか、生きることに対しての身近さみたいなことを以前よりも感じています。

風を受けるって楽しい


なるほどー、、。
ちなみに今車ない状態ですよね?買い物とか不便なことはないですか?

木ノ内さん
自転車を貸してもらったので、自転車で街の方まで降りてこの前買い物しましたね。
なんかそれが結構楽しくて、趣味が増えたような感覚です。

横浜にいたときは、趣味はあるにはあったんですけど、ゲームであったり映画鑑賞であったり、なんかどうしてもマンネリしちゃうというか、趣味が少なくて。
土日は午後まで寝てるような日もあったり、何もしてない時間があったんですけど、こっちに来て自転車とか料理とか、楽しいなって思うことに気づきました。


でも都会の方が色々あって、ここって娯楽的なものは何もないじゃないですか。なぜそう感じたんでしょうか、、?

木ノ内さん
確かにカラオケとか映画館とか娯楽施設がない寂しさがあるなっていうのは少し感じます。単純に人が少ないので楽しそうな人もそんなに見かけないというか(笑)

でもなんていうか、楽しさの本質じゃないですけど、、

シンプルに、「自然だ!」みたいな。
例えば雲の流れとか。
雲って確かに影落とすじゃないですか。で雲が動くから影も動くとか、それを忘れてたなって。そういうものを見て「あー楽しい!」って、はしゃぐ感じではないんですけど、パーっとするような。

もちろん都会にも雲はあって動いていると思うんですけど、
それこそさっきも(西会津に来て)時間の流れを感じるって話をしたんですが、時間とか、ごく普通の世界の動きみたいなのを感じて、その流れの中に乗ってるぜ、みたいに感じる瞬間が楽しいと感じました。

自転車もそうですね、風を受けるって楽しい。
電車とかやっぱり受けないし、ずっと死んだ顔でこう、、今日学校の課題やばい絶対先生になんか言われるよーって鬱っとした気持ちになるけど、風を感じながら行くと、こう、ちゃんとこの世界にいるぞ、みたいな(笑)
動けば風は当たるだろうっていう、そのあたりまえを忘れてることに気付かされました。


確かに、電車って自分の意思で乗っててもなんか運ばれてる感じしますよね。

木ノ内さん
なんか輸送されてる、、輸送されに行ってるからそれはそうなんですけど(笑)
でもやっぱり、昨日も自転車で行く先も考えずに、とにかくこの道をまっすぐ行ってみようと思って進んで行ったら「この先は新潟です」って(標識が)出てきて、わ、そうなんだ、っていうのが楽しい。

そういう普遍的な楽しさを感じられましたし、それがすごく大事なように感じました。
なんていうか、自分は「物事を構成している最小単位」を意識していて、フラクタル構造ってあるじゃないですか。


フラクタル、、?

何事も小さいことだった

木ノ内さん
小さい三角があって、それが3つ連なって大きい三角になって、でも大きくなっても元の三角と規則が変わらないみたいな、小さい単位が(大きいものを)構成してるみたいなことなんですけど、
それが結構何にでも当てはまると感じる瞬間が結構あって。

それこそこの展示は群集とか、人の集まりを大事にテーマとして持っているんですが、その群集を構成してるのは一人ひとりの個人じゃないですか。
個人が寄り集まって集団を構成している、それがすごく大事なことというか、忘れがちなことというか。
何事もわりと小さいことだったというか、どんなことも。

さっき言ってた普遍的な楽しさも、元をたどっていけば生きることが楽しいというか、物事をこなしていく楽しさみたいなことだと思っていて、
それに対して、カラオケとか映画館はいくつものレイヤーを通した後の楽しさだと思って。


レイヤーを通した後の楽しさ、、?

木ノ内さん
自分でもまだちゃんとはわかっていないんですが、、
何かしらの物語を映しているわけじゃないですか。
物語ってことは、ある程度自分たちに共通した話であって、そうなるとその人たちをちょっと重ねている部分もあるはずで。
その人たちの生活っていう小さい単位をもとに、映像を撮って編集して音楽もつけたりしてやっとおもしろ娯楽になっているので、元をたどっていけば結構普通のことというか、自分たちの延長線上にあるというか。

まず自分という個人の単位があって、そこからいくつも先にいろんなものが重なった結果別のものに見えているけど、意外に自分のことというか、もっと単純なことなんじゃないかっていうような感覚です。


なるほど。

木ノ内さん
ちょっと話がごちゃごちゃしちゃったんですけど、
でも(展示の)ステートメントでも書いているんですが、やっぱり、個人が群集をつくるし、環境が群集をどんな集団であるか特徴づけている。

環境っていうのは、自然環境もそうですし、群集も環境になりうるとは思うんです。
こういう人たちの集まりがこういう環境をつくって、また環境が群集をつくる。個人にもそれは言えると思います。個人も環境をつくるし、環境が個人をつくっている。
それが西会津に滞在させていただいてすごく思ったことですね。

価値を今日いただくことができる


西会津での滞在で、その「個人・群集・環境」という関係性に対する考えにはどういう変化や深まりがありましたか??

木ノ内さん
自分はこの滞在を通して、「価値」について考えた瞬間が結構あって、それこそアートの価値であったりとか。
絵画の価値ってそもそもどういうふうにつくんだろうとか、そもそもお金ってどういったものなんだろうとかって考えさせられる機会があって。

もうすごいあたりまえなんですが、極論、1人でなんでもできれば生きてはいけるじゃないですか。食材も自分で確保できて、料理するスキルがあって、家を建てたり、その居住区を確保する力であったりとか、それを1年間やり続けていくとか。
そういう能力が自分1人でまかなえられたら、一応他の人がいらなくなると思うけど、そんなことはまず難しい。

ってなった時に、自分がやって他の人にもそれを共有するからこそ価値がつくというか、やっぱり他の人がやってくれてることは、自分にはできないから価値がある。

それがすごく根本的な話だよなっていうのをまず思って。
それこそここ(西会津)は作っている人の顔がすぐ浮かぶような環境だと思ってるんです。お米だったりお酒だったり、たぶん知り合いというか、もう目と鼻の先の近い存在。

でもやっぱり都会だと、、都会だからって話なのかはわからないですけど、日常で使っているものがどこから来ているのかみたいな、どんな人がこれに価値をつけて、価値を生み出しているんだろうっていう、その流れが自分の場所から遠くなりすぎてて、価値っていうものに対してちょっと希薄さを感じるように思います。
なんでこれが大事なんだろうっていうのがだんだんとわからなくなって麻痺していく感覚があるなって。

やっぱりお金があるとなんでもできるような感じがしてくるけどそういうわけではなくて、誰かがやってくれたことを買えるだけで、自分がなんでもできるわけではない。

もちろんお金はないよりかはあったほうが嬉しいんですけど、都会にいるとお金があることでそれがステータスになるというか、なんでもできるぜって思いがちになると思うんですが、でもそういうことではないぞっていうのをこの滞在でめちゃめちゃ感じました。
価値を今日いただくことができる、っていうのを意識しないとなっていうのを感じて。

そうなると逆に、美術をやってて、自分が描いたものに価値をってなったときに、自分は他の人にどんなことを提供できるのかなって。自分にしか気づけないこととか。
絵画とかアートは伝えることが主な目的というか、役割を担っている部分があると思っていて、デザインであったり絵画であったり彫刻であったり、何にしろ、言葉だけじゃ表現できない領域を美術が担ってる面があると思っています。
ってことは、自分の作品を通して何を伝えたいんだろう、気づいてもらいたいんだろうって。そこにすごく価値があると思っているから、そういう意味で自分が気づいたことを作品にのせることをここ(芸術村)では時間をかけてさせてもらえたので、アートの成り立ちみたいなことを自分の中でより明確に理解ができたかなと思います。

「個」をちゃんと知ってあげてほしい

「個人」「群集」「環境」の関係性


なるほど、、
伝えたいことって1つじゃないとは思うんですけど、木ノ内さんの中で大きなものとしてはやっぱり人の集まりにまつわることなのでしょうか?

木ノ内さん
そうですね、やっぱり人が集まってるって、自分は人がいっぱいいる空間にいて育ってるから、ごく普通の景色のように見えていたけど、別にそういうわけではないよな、ここまで人が溢れてることって結構異常なことなのかもしれないっていうふうに自分は感じたり気づいたりして。
それを客観的に見てみたいし、これを観て何か思ってくれたら嬉しいし、逆にこうなんじゃないかって思ってくれてもいいし。そういう意味では展示をやって伝えたいことというか、自分の思ったことを込められたかなって思います。


例えば、「人の集まり」というテーマの中でどういう思いや気づきがありますか?

木ノ内さん
そうですね、、こういうことを伝えたいんだっていう具体的なメッセージじゃなくて、すごくシンプルであたりまえなんですけど、
個人がいて、それがいっぱい集まって大きな人の集まりになって、それが環境をつくってるし、環境がまたこれ(人の集まり)をつくってるぞっていう、この構図があることを再認識したいし、(観た方が)再認識してくれたらどうなるんだろうって。

自分はその構図を見てハッとさせられて、他の人はどう思うんだろうって思って。
例えば、今の都会は人が多すぎて良くないよって人もいるかもしれないし、逆に西会津がもっと人で溢れかえったらどうなるんだろうとか思ってくれる人もいるかもしれないし。
おこがましいかもしれないけど、この構図を見て何か考えてくれたらいいなって思います。

楮の木炭で展示をつくる


“個人”と“群集”と“環境”の関係を考えてもらえたらいいなっていうお気持ちなんですね。

木ノ内さん
そうです。なんか言われないと気づけないことってやっぱりあるというか、あたりまえのことに気づかされることは結構あるなって思っていて。

それこそ小さい単位が大きい単位を形成してるみたいな構図ってやっぱり何にでも言えると思ってて、
この展示自体も、自分はひとつ、楮(コウゾ)の木でつくった木炭を(展示に向けて)新しくつくった全部の作品たちに使ってるんですね。

木ノ内さんが楮でつくった木炭

木ノ内さん
この木炭をこの展示の一種の最小単位として、“この個が集まってこの展示をつくってる”っていうのをまずこの会場をつくっていくときに大事にしなきゃなって考えました。
物事の成り立ちはそういうふうにできてるって自分は気づいたからこそ、じゃあこの展示をやるってなったときにそこから考えていこう、と。
それで何がこの展示を構成するんだろうって考えたときに、この楮でつくった木炭っていう画材にこの展示を構成させようかって。

展示前、滞在制作序盤の木ノ内さん
この楮の木は、西会津にある出ヶ原和紙の工房を見学し、和紙づくりを行う滝澤徹也氏とそこに通っている地域の方々と一緒に作業をしたときにいただいたもの。
和紙の材料となるのは皮の部分で、皮を剥いた後の残った部分は和紙づくりには使用されないのだとか。
皮を剥いた後の楮をひと束持ち帰る木ノ内さん

木ノ内さん
この楮は結構思い出深くて、、
出ヶ原和紙をつくっている)滝澤さんとお話しして自分の中で響いたところがあったし、人のつながりをすごく感じた場面でもあったので、西会津で制作していくってなったときにこの楮の木っていうのはすごく大事なもののように感じたんです。


滝澤さんのところで楮の束を見たときにもう木炭にしようと思ったんですか?

木ノ内さん
最初は楮で立体をつくろうと思ったんですよ。でも滝澤さんがそのときに楮の先に鉛筆をつけて描いてみたらいいよって言ってて、あ、これ画材になるかと思った瞬間に、これ自体そもそも木炭にできるじゃんって、そういえば木炭って意外に簡単につくれるはずだったよねって思い出して。

木ノ内さん
これを使って大きなこと、
というかこれを材料にしてものをつくってみようって思いました。

なのでそうですね、自分としてはそういう気づきを得たので、そういうことを他の人が感じてくれたら嬉しいし、反論してくれたらそれはそれで嬉しくて、だから「自分はこういうことを考えました」っていう感じで、
物事を構成しているのは、、
やっぱり大きいことに囚われちゃうけど、意外に端っこの方を見たらそんなに大した物ではなく、意外に簡単なことじゃんって。

何事も意外に簡単なこと

木ノ内さん
それは結構何事にも感じる瞬間があって、
なんかすごい気難しい人だと思ってたけど話してみたら親しみ深い人だなみたいな。やっぱりそのファーストインプレッション、最初に見えてくるものって目立つ物だと思うんですよ。
すごくでかいことが目立つから、うわって思うけど、ちゃんとまじまじと見てみたらなんか意外にそんなすごくないよ、みたいな。自分はそれがめちゃめちゃ大事だなって思ってて。

ピカソの絵とか、すごいらしいけどよくわかんないよって思っても、ちゃんと知っていけば、あ、そういうすごさがあるんだって思えたり。
物事を知るプロセスというか、ちゃんと詳しく知れば自分の思ってるよりも遠いものではないんだよっていうのは、何事においても自分は大事なこととして持ってて、なんか遠いものとして見たくないというか、突き放したくない。

わからないとか、すごすぎてちょっといいかな(と距離をとる)みたいなことはできる限りしたくないと思って、できる限り努力したい。理解したいし、理解できたら楽しいと思ってるから、だから簡単に物事を突き放しちゃう人に対して自分は、もっと見てあげて!細かいところも見てあげて!みたいに感じるんです。

物事を構成している小さい要素(を見る)っていうのは、努力することにちょっと通ずることがあると思っていて、逃げないでほしい。
それを押し付けるわけじゃないんですけど、ただ、ぱっと見の印象とかで絶対決めないで!って、もっと知ってあげて、みたいに思うんです。


気になっていたことなんですが、「環境」「群集」「個人」ってある中で、木ノ内さんはどこに重きを置いているのかなというか、どこに一番興味があるんだろうって思ってたんですけど、一番は小さい「個」なんでしょうか?

木ノ内さん
それでいうと確かに、まず個人が大事だとは思いますね。
例えば、ぱっと見チャラチャラしてて関わりにくいヤンキーみたいな集団がいたとして、でも意外に個人単位で見たらお前なんかいいやつじゃん、お前もいいやつじゃんみたいな。やっぱりその全体がつくり上げてしまう雰囲気みたいなものがあって、それももちろん大事なんですけど、とはいえやっぱり個人個人がいないと何も生まれないと思うから、「個」を頑張ってまず見れるようになりたいっていうのは考えてます。

でも、どこも大事で、全部がつながってると思ってて、環境が個人をつくるし、その個人の集まりの集団が環境にもなり得るし。

でもそれこそ人が介入できない環境もあると思うんですよ。自然とか、基本的にはもう動かないもので、自分たちがつくり出すことのできない環境っていう面で、今回また新たに考えたいなって感じました。

木ノ内さん
都会っていうのは結構人がつくった環境で、またその環境に人はつくられますが、こういう自然というか、(西会津みたいな)こういうところって絶対に逆らえない環境が、自分たちのつくることのできない環境があるし、制御できない環境があるってなったときにはまた違った人たちがつくられるから。
すごくそこらへんも大事かなって感じました。
だから個人も大事にしたいし、環境も大事にしたいです。


なるほど。最初は人の集まりに着目したけど、個人とか環境っていうのが強く出てきたという感じなんですね。

木ノ内さん
そうですね。まず面白いと思ってたのが人のわらわらした感じだったから、そこから派生して色々考えなきゃいけないことの中にそういうのが出てきて、そこらへんも見ないといけないし、単純に面白いと思って。

私もこう思うし、君もこう思ってるはず


もう一つ気になっていたのが、人の集まりをテーマとするって俯瞰してるというか傍観しているというか、集まりの外側から見てる感じなのかなと思ったのですが、集まりを内側から見ることはあるんですか?

木ノ内さん
それはもう大事にしたいことで、確かに集まりを見ているときは客観的に見ているような感じがするんですけど、でも絶対自分もその集まりの中にいる瞬間が絶対あるから。
それこそ横浜の人たちの集まりの中だし、神奈川の集まりの中だし、大きく見たらもう日本の中の1人だし。自分がその集団の中にいるってことをわかっていることが客観的に見るということだと思います。

どこにも所属してない瞬間っていうのは絶対ないはずだから。そこらへんは自分の足元をすくうことになるような気がして、自分はこうじゃないぞって思うことにつながるような気がするというか。自分はこの人たちを客観的に見えてるから自分は違うはずだ、みたいに思ってしまうことにつながると思うんですよね。

意識を全体に持っていくというか。
やっぱり自分視点だと自分よがりになっちゃうと思うんですが、人混み酔っちゃうよって思うけどそれはみんなも一緒だし、なんていうか、共感するってことに近いと思います。
私もこう思うし、君もこう思ってるはず、みたいな。

結構自分は、してあげられるなら自分のできることはしたいから、「自分が大変だ」で終わらずに、他の人も大変なはずだろうし、助けるじゃないけど、手伝うことは人にとって大事なことだと思ってます。
だから、自分が集団に所属している意識を持って、他の人の視点に立つことはすごく大事だと思います。

自画像を描くということ


集団を意識することは、相互理解とか歩み寄りにもつながるんですね。
「個」のところでもう一つ聞きたくて、作品の中に自画像とかご友人の顔を描かれてるものも多いと思うんですが、自画像を描くって何か意図はあるんですか?

木ノ内さん
自画像は昔の人もいっぱい描いてると思うんですけど、
自分の顔ってやっぱり気付かないうちに思い込んでる部分がいっぱいあると思うんです。こういう顔してたと思ってたけどお前こういう顔してたんだ、みたいに、自分の顔だとなおさら強くそれを感じる瞬間があって、それは自分を客観視することにもつながると思うんですよ。

自画像を描いてて、自分の顔ってなんか思ったより唇が面白いなとか、鼻が結構出てるのかもしれないとか、そういうことに気づくきっかけになるというか。
ただ自分の顔を描いてるようでも、結構自画像を描く目的としては、描くことによって色々気づくことがいっぱいあるのかなって思います。なので、どっちかっていうと過程が面白くて、より客観的に自分を見ることにつながったので、描くことが多いですね。


なるほど、、

木ノ内さん
(自画像を)描くのが嫌いな人もいますし、描く人もそれぞれいろんな理由があると思うんですよね。自分の顔が好きで描いている人もいれば、嫌いだからこそ描いてる人もいるだろうし。
自分は好き寄りかもしれないです。そもそも人の顔を描くのが好きなので、それこそ集団ってものを考えるってなったときにまず自分のことを考えなきゃいけないと思ったから、まず自分を描こうと思って、そういう側面が今回は大きいかなと思います。
この展示をするってなったときに、まずは自分のことを理解しないと良くはないだろうと思って。

思い込みって恐ろしい


自画像のお話でも集団のお話でも共通して、「思い込みたくない」という気持ちが強いんでしょうか?

木ノ内さん
そうですね、それはもうほんとに自分の人生のテーマで(笑)
なんか、思い込むっていうのはすごく危険なことだと思ってしまうことが多くて、、
思い込みって恐ろしい、いつの間にかそういう考えになってるっていうのがすごく自分は怖いって思って、できる限り客観的に見ようと思ったし。

中学のときに、人間関係がちょっとこじれたときがあって。自分の発言を気をつけようと思って、できる限り発言を見直して、この人が聞いたらどういうふうに思われるかもしれないから、とか自分の中でめちゃめちゃフィルターをかけたんだと思います。自分の思考を色々なフィルターにかけて出した経験が結構あって、そのときのことが思い込むことの怖さにつながってて、できる限り物事を客観的に見たいって思うところがあるんだと思います。


当時の怖いの対象は「思い込まれる」ことだったのでしょうか?

木ノ内さん
思い込むことが怖いっていうのが最初にあったわけではなくて、自分の言葉でまっすぐその通りに受け取られないってやっぱりいっぱいあると思うんですよ。やっぱり言葉にしない部分がいっぱいあると思うんですよね。
自分の発した言葉がどう受け取られるかわかんないなって思って、変に言葉を受け取られて自分がそういう人だと思い込まれたくないみたいな部分もちょっとあって。
なので、自分の言葉を考えたときにこれはこのことしか言ってないとか、ちゃんと色々精査して、反応を見て「いや待ってもうちょっと付け加えるわ」みたいな、そういうことをすごく気をつけた経験なんですよね。

だから、思い込むこと怖いなっていうのはその延長線上であって、できる限りまず正確に情報を伝えたいというのが自分の中にあります。

どうにか理解してくれ


その勘違いというか、思い込まれる怖さと直面したときに、そこで「わかり合えないんだ」とはならなかったんですね。むしろ、わかり合いたい、歩み寄りたいっていう方になった。

木ノ内さん
そうですね。なんか自分の言葉が全部正確に伝わったとしても本当にわかり合えない人はきっといると思うんですけど、自分はそれでも戦いたいって思うんです。

口喧嘩がわかりやすい例だと思ってて、小さいときから口喧嘩ってあると思うんですよ、「お前ばかだ」みたいな(笑)
やっぱり小さい時の、きのうちゆうすけくんにも起こるんですけど、めっちゃ弱かったんですよ。もう言い返せなくてすぐ泣いちゃって、真剣にどうやって勝つかめちゃめちゃ考えてたんですよ。
でも結論、まず勝ち負けが存在しないのかもしれないって気づいたんですよね。だって喧嘩って審判もいないし、ジャッジしてくれる中立的な立場の人がまずいないから、個人と個人の戦いになる。なんかもう理屈なんて存在しないし。

でも自分はどうにかして勝ちたいと思ったし、なんで悪口を言ってくるのかわかんなくて、なんでそんなひどいことするんだよって思ってたから、「理解してくれ、どうにか理解してくれ」っていうのをずっと思ってて、絶対負けるんですけど(笑)
でも、そこらへんが、頼むから理解してほしい、みたいな自分の中で諦めたくないというか、“まずどうにかして伝えたい”の原点なのかな、、


なるほどー、、!
先ほど「アートって伝えること」っていうお話があったかと思うんですが、木ノ内さんがアートの道に進んだ原点でもありそうですね。

木ノ内さん
「わかってくれ」っていう(笑)
やっぱり傷つきたくないし、傷つけたくもないし。意図せず傷つけてしまう瞬間が一番恐れていたことで、だからこそ正確に伝えたいし、正確に伝わってるかを判断できないといけなかったから、そこらへんは自分の中であるのかもしれないです。


なるほど。それは普段から人間関係というか、人との付き合い方においても意識されてるんですか??例えば、私はグループや大人数でいるときに居心地の悪さを感じてしまうときがあるのですが、、

木ノ内さん
そうですね、、そういうときはもうそのグループが悪いんだって思ってます。個人個人では仲良いんですけど、グループになった瞬間微妙に自分が合わないとか、そういうのは個人じゃなくてグループが悪い、この人たちが嫌いなんじゃなくて噛み合わせが悪いだけなんだなって思います。


個人に対して合わないなとか決めつけるんじゃなくて、集団のせいにする、、?

木ノ内さん
結構それでたぶん楽になるし、実際そういうところがあると思って。


なるほど、、いいことを聞きました。
木ノ内さん作品の説明で、個人と集団と環境の境界が溶けてくるっていうようなことを書いてらしたと思うんですが、
例えば、この集団噛み合わせ悪いかもってなったときに、自分を集団に溶かすっていうのは自分を開くっていう感覚ですか?

木ノ内さん
うーん、ちょっと逆にそのノリに乗ってみるみたいなことですかね。そのノリに合わせてみることで見える景色も絶対あると思うので。


合わないなってなってもそこで壁をつくらない?

木ノ内さん
合わせてみることもしてみる、それこそ理解したいので。
知らないで否定するのは違うと思うから、やっぱり突き放すんじゃなくて、理解したいってところから始めないといけないと思います。
それでも本当に合わなかったらしょうがないし、たぶんそれに関してはわかってくれると思うんですよ、そっかそっかって。


あ!なるほど。本当に合わないっていうのは、その人との関係っていうよりかはその部分?

木ノ内さん
たぶんすごく合わない人がいるとしたら合わない部分が多いだけで、本当に全部合わないっていうことはないのでは、と思います。
“憎めないやつ”とか、合わない部分もあるけど、それ以上にいい部分もあるしって。


へえーー。なんだか、フラクタル構造の最小単位がっていうお話と結びついてきそうです。

木ノ内さん
なんかでも美術ってそういう面白さがあると思ってて、自分の中で漠然と思ってたことが、意外なところでつながってきて、こういうもの(作品)を見て、「あ、これってこういうことなんだ」「日頃から思ってたことってこういうものにも見えるのかもしれない」とか結構つながるのが美術の面白いところでもあるのかも。
「ちょっと言葉にできないけど漠然と絶対ある」みたいなことが思い起こされるのが絵画とか彫刻とかアートとかそういうものだと思います。


木ノ内 悠介さんプロフィール

木ノ内 悠介 Yusuke Kinouchi
2003年福岡生まれ。相模原県立弥栄高校美術科卒。
多摩美術大学美術学部グラフィックデザイン学科から東京藝術大学美術学部デザイン科へ入学。
一億総発信時代とも言われる現代。発達したSNS上での人々の動きと空間的に制限された現実における群集に目を向け、時間、場所、静と動、方向性といった多角的な視点から観察し行った、人々に対するドローイングや写真、インスタレーション、および過去の制作物を展示した。https://www.instagram.com/kinouchi_usu/


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