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《小説》冬の桜

 私が最初に玲子に会ったのは、三年生向けの研究室紹介が開催された時のことだった。次から次にやってくる学生達に研究内容と活動を紹介する賑やかな二日間が終わり、元の日常に戻った頃、研究室を訪ねて来た学生がいた。話を聞くと、研究室紹介の期間に熱を出して参加できなかったので、個別で話を聞いて回っているとのことだった。夜も遅く、手の空いている学生がいなかったので、私が説明をすることになった。中に招き入れると、彼女は私について来た。椅子を持ってきて、彼女を私の横に座らせ、研究室紹介の資料を画面に映しながら、研究の目的や実験の進め方、研究室独自の規則について説明をした。彼女は真剣に聞いてくれた。一通りの説明が終わったので、好きな講義や今後の進路の希望についても聞いてみた。聞いた事にしか答えないので、緊張しているのかと思い、私の過去の失敗談なども交えながら研究室生活の話をして、その日は帰ってもらった。
 三月になり、研究室の秘書から、配属される学生の名簿を受け取った。その中に玲子の名前があった。四月になって、四年生の歓迎会と、研究室紹介が開かれた。司会は院生が行い、教授が挨拶をした。私はその様子を座って見ていた。玲子が少しだけ、私を見たような気がした。しばらくして、教授から今年度の研究体制を伝えられた。彼女の指導は私が担当することになった。
「よろしく。」
「よろしくお願いします。」
「研究室紹介の時に熱を出して遅れて来たよね。」
 彼女が笑った。
「覚えていてくれたんですね。」
「それは覚えているよ。夜に突然来たから。」
「全然話しかけてくれないから忘れられたと思っていました。」

 研究室での彼女は勉強熱心だったが、時々、同じようなことを何度も繰りかえしているように見えた。ある時、彼女は実験に使う試薬の濃度を間違え、そのため全ての実験を始めからやり直すことになった。彼女はしばらく黙っていたが、そのまま何も言わずに試薬を取りに行った。無理をしないように伝えて私だけ先に帰った。翌日研究室に行くと、彼女が自分の机の上に倒れ込んでいた。血の気が引いて駈け寄ると、彼女の小さな寝息が聞こえた。それ以来、私は玲子がいる間は帰らないようになった。
 教員として以外に私が玲子と接する機会はなかった。私はよく使い走りのような仕事を押し付けられた。彼女もよくガラス器具の整理をしていた。その年の忘年会の日、私は彼女とともに買出しに出かけた。寒い雪の日だった。夜道を歩きながら彼女は自分の弟の話をした。
「今まで勉強も教えてあげたし、お父さんに怒られた時にも守ってあげたのに、彼女ができた途端に私と話さなくなったんですよ。許すまじ。冬休みには絶対に彼女を連れて来いって言ってあります。」
「弟さんも大変だね。でもちょっと羨ましいよ。」
 私は小さい頃に母親をなくしたので女というものを知らずに育った。私は大学に入ってから初めて恋というものを知った。だが何を言っていいのか分らずに、ついに彼女は二つ上の先輩と結婚した。いまだに女性は苦手だ。私はそのような話をした。
「すみません。思い出させてしまって。」
「いいんだよ。昔のことだし。」
「でも一つ許せないことがあります。さっき私を女に含めませんでしたね。」
 彼女は笑いながら言った。私もまた笑いながら答えた。
「まだまだ子供だ。」
 彼女は大学院への進学を希望してくれたので、卒業研究も中間地点だったが、彼女は毎日遅くまで実験をしてくれた。想像以上の結果が出たので、発表の一週間前まで実験をさせてしまった。発表資料は直前まで作り直して、教授に呆れた顔をされながら承認をもらった。発表当日、彼女は緊張で震えていた。全員の発表が終わってから、私は彼女に声をかけた。
「お疲れ様。発表良かったよ。卒業おめでとう。それで教授にさ、発表の練習もさせろって怒られたんだ。でもおかげで、君との研究が論文になりそうなんだ。ありがとう。」
 彼女は笑顔を取り戻してこう言った。
「何から答えればいいんですか。」
 そして、斜め下を見ながら小声で付け加えた。
「ありがとうございます。」

 彼女との研究成果をまとめた論文は、再生医療の分野で影響力のある雑誌に掲載された。私と彼女の名前が記された論文を、彼女はいつまでも眺めていた。春になって、恵美は院生となり、新たに四年生が配属された。私が担当する四年生は佐久間君という名前だった。佐久間君の指導は玲子にまかせ、全体計画は私が担当する、そのようなことを漠然と考えていた。私は、昔から勉強も研究も一人でやることが多かった。気づいたら同期も大学からいなくなり、各地に散らばっていった。
「柳沢、おまえ助教授になったんだ!すごいな!」
 昔の友人と会った時にそう言われた。ささやかな賞賛は素直に嬉しかったが、助教授になっても世界中にいる研究者の一人になっただけである。将来には不安しかなかった。都市工学を専攻した友人は、湾岸部の再開発プロジェクトに関わっていた。彼の仕事はいったいどれほどの人を豊かにするのだろう。私の論文など、誰が読んでいるか分からない。私の書いた論文を誰かが読んで、その人がまた別の論文を書いて、その繰り返しである。
「そんなの民間も同じだって。よく問題になるだろ、無駄な公共事業とか。俺達はもう仕事って割り切るしかないし、それでお金が回って、がんばった人が結果的に幸せになればそれでいいと思っているよ。それにほら、昔のドラマで医者が言ってたじゃないか。私は一本の論文で数万人の命を救うって。おまえもそうなるんだろ?」
「あれはドラマだって。」
 私は彼のようにはなれない。私はいつも、目の前の課題を乗り越えることに必死だった。研究の目的すらも本で学んだ。正解はいつもどこかにあった。それを探し続けていたら、いつの間にか誰かに頼られる存在になっていた。
 これまでは、実験から論文の執筆まで全部自分でやっていたが、これからは人にまかせることも学ばなくてはならないだろう。そう思い、四年生の進捗の報告も玲子にしてもらい、私は責任者に徹することにした。
 五月のある日、二日間の予定で学会に出かけた。金曜の深夜に帰宅し、土曜日は昼まで寝ていたが、出張報告書を作るために午後から研究室に向かった。エレベーターを降りると、共有スペースから学生の話し声が聞こえてきた。佐久間君だ。
「柳沢さん、玲子さんのこと大好きだよね。」
 私は足を止めた。
「いつも玲子さんとばかり話していて俺の相手してくれないんだ。」
 違う。そういうつもりではない。報告の順番を守ることは組織運営にとって大切なことなのだ。
「玲子さんもさ、柳沢さんの顔色ばかり伺ってるし、よく分からないよね。」
――違うんだ。
 私は足の先から溶けていくような感覚に襲われた。私はなぜ研究室に来たのだろう。報告書を作るだけなら家でもできる。私はそのままエレベーターに戻った。家に帰ったが、報告書の作成は進まなかった。
 それ以来、私は無意識の内に彼女と距離を置くようになった。週に一回、研究の進捗確認会を開き、一人一人に向き合う方針に変えた。気が進まなかった学部での講義にも力を注ぐようになった。教室にいる学生の数が妙に気になった。また、私自身の研究もしなくてはならなかった。大事な実験は自分ですることが多くなった。私は日々の忙しさの中に全てを忘れようとした。
 夏に、研究室で恒例のキャンプに出かけることになった。大学から車で二時間ほどのキャンプ場に行き、カレーを作って、夜に花火をするまで好きなことをして過ごす。私はロッジのバルコニーでジンジャーエールを飲んでいた。学生達は芝生の広場でフリスビーを投げて遊んでいる。何もやることがないと逆に落ち着かない。時には無理に休むのも大事だろう。そのようなことを考えていたら、彼女が声をかけてきた。
「先生も一緒に遊びませんか。」
「俺?もう体動かないよ。」
「そう言わずに。」
「分かったよ。お手柔らかに。」
 私は彼女の後に続いて広場に向かった。
「先生来てくれたよ。」
 彼女の声が響いた。広場から歓声が上がった。私はフリスビーを投げた。変な方に飛んで行ったが、佐久間君が走って受け取ってくれた。

 彼女は修士一年の終わり頃からいくつかの企業の採用選考を受け、ある製薬会社に就職することが決まった。大学には残ってくれないようだ。彼女もまた、私の友人のように社会に羽ばたいて、誰かの役に立つ仕事をするのだろう。
「おめでとう。」
「ありがとうございます。」
「君ともあと一年でお別れか。」
「先生はなんでいつも私を避けるんですか。」
「えっ。」
「なんでもないです。」
「いや、気になるから教えて。」
「お別れって、いつも終わりの話ばかり。」
「でも製薬会社に行くんでしょう。」
「そうですけど。」
「大学にいる俺が言うことじゃないけど、企業の方が研究費も待遇もいいし、君にはもっと社会の役に立つことをしてほしいんだ。」
「そう言って私を追い出すんだ。成果が出ないから。」
「ごめん。俺、変なこと言っちゃったみたい。でも、君が内定をもらえて良かったと思っているのは本当だよ。」
「ごめんなさい。ありがとうございます。」
 実際、彼女の研究は進捗が良くなかった。テーマを考えた私の責任もある。方針を決めた教授の責任もある。研究室の使命として、論文を発表し続けなければならないから、結果が出るか分からない新規案件は、修士卒で就職する学生に振り当てているのだ。学生に期待していることは、研究成果を出すことだけではない。研究成果が出なかったら、なぜ上手くいかなかったのかをまとめることも重要な役割だ。また、論文にならなくても、個別の実験データは今後の研究を進めるのに大いに役に立つ。その点、彼女は申し分なかった。就職先も決まっている。だが、毎週うつむきながら実験の結果を報告する彼女に、そう伝えることはできなかった。彼女の研究には先がない。冷静に考えれば、他の学生の研究に注力した方が研究室全体のためになる。なぜ彼女にこだわるのか、私にもよく分からなかった。もう意味がないと分かっていたが、次にやる実験の計画を考え続けた。このようなことを続けて何になるのだろう。彼女が傷つくだけではないのか。そう思いながら、指示を出し続けた。
 修士論文は、研究背景の調査と実験データを中心にまとめることになった。教授も承認してくれた。そのことを彼女に告げたら、静かにこう言った。
「分かりました。」
「ごめん。」
「何がですか。」
「ずっと分かっていた。上手くいかないって。」
「いいんです。」
「君には未来がある。」
「今はどうでもいいんですか。」
「ごめん。」
「謝りすぎです。」
 彼女は少しだけ笑った。

 論文発表の前の日、私は彼女に呼び出された。九時に会う予定だったが、急用が入り、私は一時間遅れて大学の近くにある公園に走った。彼女は白い街灯のわきにあるベンチに座っていた。その首には赤いマフラーが巻かれていた。私は何も言わずに彼女の横に立った。私の吐く息が白く見えた。彼女はしばらくそのままの姿勢でいたが、少しだけ顔を上げてつぶやくように言った。
「先生、私がんばったよ。」
 彼女の目に涙がたまっているのが見えた。
「もういいでしょ。」
 彼女は私の顔を見つめた。私は静かに彼女を抱いた。彼女は少しだけ震えていた。氷のように冷たかった。

 一年間の交際期間を経て、私たちは結婚した。教授に報告したら驚かれたが、経緯を説明したら、最後にはお祝いの言葉をもらえることができた。私達は駅の近くに部屋を借りて、二人で住むことにした。彼女は電車通勤、私は車通勤だ。通勤時間が伸びた分、ラジオでニュースを聞いた。彼女の職場は市街地から離れた場所にある研究所だ。異動の希望さえ出さなければ、勤務地は変わらないらしい。
 妻は昔と変わらなかった。家を出るのは妻の方が早かった。私が夜遅くに帰ると料理をして待っていた。見慣れないエプロン姿に少し戸惑ったがすぐに慣れた。
「白衣より似合うよ。」
 時々、妻の方が帰りが遅くなった。そのような時、私はありあわせのものを食べて妻の帰りを待った。お互いに忙しいのは分かっていた。黙って食事をすることもあった。休日の朝はすがすがしかった。妻はよく笑った。
「ねえ聞いてよ、事務の人が私を口説こうとしたんだって。そしたら先輩がね、ばかだね。あんた知らないの?あの子の旦那さん大学の先生だよ。あんたなんか相手にするわけないじゃないってさ。」
 私は笑って少し黙った。
「偉くなれたらね。」
 私は心に余裕ができた。もう他に手に入れるものはない。私は仕事に没頭した。大学で職員の異動があり、私の昇格が決まった。妻も喜んでくれた。その週末、私達はお祝いに街の高級料理店に出かけた。そしてこれが妻との最後の思い出になった。
 ある休日のこと、妻は昼過ぎに隣町まで車で買い物に出かけた。私は残っている仕事を片づけていた。しばらくして、電話がかかってきた。妻かと思ったら、警察だった。
「まずは落ち着いて話を聞いてください。よろしいでしょうか。奥様が事故に遭われました。今から現場の場所をお伝えしますので、すぐに来てください。」
 私はタクシーを呼んで現場に向かった。交差点に近づくと、緊急車両が並んでいるのが見えた。妻が乗っていた車の前側が大きく潰れ、車道に対して横向きになっていた。その場にいた警察に事情を説明すると、救急車に案内された。横たわった妻の顔には人工呼吸器が付けられ、救急隊員が救命措置を行っていた。
「妻は助かりますでしょうか。」
 奥にいたもう一人の隊員が、下を向いたまま静かに首をふった。

 警察の調べによると、事故の原因はブレーキ系統の故障だということだった。ドライブレコーダーに、横断歩道の歩行者をよけようとして、電柱にぶつかるまでの様子が映っていた。葬儀が終わってしばらくの間、疲労と怒りと悲しみがぶつかり合って、何も考えることができなかった。一ヵ月後、企業と戦う決意をして、訴訟の準備を始めた。さらにその一ヵ月後、企業側の責任者から訪問の連絡があった。週末に、二人の人物が私の家を訪れた。企業側の責任者と弁護士だった。つかみかかろうと思ったが、どちらにつかみかかればいいのかを考えている内に、言葉が出なくなった。思い切り壁を殴った。部屋が揺れた。
「どうぞ。」
 二人は頭を深く下げて、部屋に入って来た。
「すみません。椅子は二つしかないものでして。」
 企業側の責任者が私の向かいに座り、弁護士がその横に立った。
「この度は、心からお悔やみ申し上げます。さっそくですが、今回の事故の原因を調査した結果、弊社の製品に重大な欠陥があることが分かりました。今後、準備が出来次第、対策とリコールを行って参ります。そして、今回の件が裁判沙汰になりますと、企業の評判を損ねることになりますので、なるべく穏便に済ませたいというのが私どもの思いです。そこで、示談金として二億円を用意して参りました。これは奥様のご年齢及び、お勤め先から算出した数字にさらに上乗せをしておりまして、仮に裁判になりましても、賠償金がこれを超える額になることは考えにくい数字となっております。」
――金の問題じゃない。私には世間にこの事故の真実を公表する使命があるんだ。
 そう言いかけて思いとどまった。あの日から止まっていた時間が動き出した。目が覚めたような思いだった。一瞬の内に全ての計算が終わっていた。
「分かった。」
 向かいの二人が驚いて私の顔を見た。
「それで十分だ。すぐに振り込んでくれ。」

 以前、実験に使うために妻に乳腺細胞を提供してもらっていた。研究室の液体窒素タンクを開けたら、まだ残っていた。私の計画は始動した。ここからもう一度妻は生まれる。もしばれたら、私は学者として、人間として裁きを受けるだろう。だが私は妻のいない世界に未練はなかった。私は夜遅くまで研究室に残り、一人になってから静かに実験を始めた。妻の細胞は美しかった。その中に妻の笑顔が隠れているような気がした。私は誰とも口をきかなくなった。日々の仕事だけを淡々とこなした。私は自宅に実験装置を組み立て、途中からは自宅で妻を見守った。

 蒸し暑い夏の夜、私は一人で繁華街を歩いていた。その一角では、若い女がスマートフォンを見ながら並んで立っている。私はその中の一人に声をかけた。
「お金欲しくない?」
「いくらですか。」
「一ヵ月百万円。」
 彼女の名はリエと言った。大学に馴染めず休学しているらしいが、それ以上は詮索しなかった。
 三回目に会った時に、私はリエに全てを説明した。
「えっ、どうゆうこと。」
「信じろっていう方が無理だよね。見た方が早いか。」
 私はリエを自宅に案内した。机の上の実験装置を見てリエが悲鳴を上げ、廊下まで逃げていった。
「驚いたかい?私の妻、いや、娘の恵美だよ。」
「やめて、警察呼ぶから。」
「おっと、警察を呼んだら君の身元も確認されちゃうよね。それでもいいのかな。」
「最低。」
「既得権益層の価値基準で判断されたくないね。」
「なんのこと。」
「あの事故の後に、リコールがあって、車の安全性が向上した。いつだって、社会の発展には犠牲が伴う。私の生活も、誰かの犠牲の上に成り立っている。そして君のこれからの安全で幸せな人生も、妻の犠牲の上に成り立つんだ。だから少しくらい協力してくれたっていいんじゃないかい?」
「意味分かんない。」
「分からなくていいよ。さあ、これからの計画を話そう。」

 その日、私は大学で研究の中間報告資料を作っていた。午後二時少し前に突然、緊急地震速報のアラームが鳴った。震度三の地震が来るという放送が研究室に鳴り響いた。私は資料の作成を続けた。部屋が揺れ始めた。大した揺れではなかった。次の瞬間、轟音が響いて、研究室全体が大きく揺れた。私は机の下に隠れた。近くの本棚が倒れた。揺れは一分ほど続いた。揺れが収まって教授室に向かうと、教授と秘書が歩いてきた。
「けがはないか。」
「私は大丈夫です。先生こそ。」
「私もなんともない。学生を集めてくれ。その後に機械の安全確認を頼む。」
 私は実験室に行き、学生達を教授の所に向かわせた。機械に繋がっているガスの元栓を閉め、電源を落とした。試薬の瓶もいくつか倒れていたが、幸いにもこぼれてるものはなかった。
 学生は外に出て一時待機となり、教員は災害対策本部に集められた。揺れは震度五強を観測し、複数の路線が止まっているらしかった。徒歩で帰れる学生は帰宅、帰宅困難者は体育館に宿泊となった。私にも帰宅命令が出た。道が渋滞しているので体育館に宿泊してもいいと言われたが、私は家が気がかりだった。リエに何度も電話をしたが出なかった。道が渋滞している中、私は車を走らせた。信号は動いている。停電はしていないらしい。夜九時頃、ようやく家に着いた。灯りが見えた。ドアを開けると中からリエが出てきた。
「遅いよ!何やってたの!」
「すまない。装置は無事か。」
「無事だよ。私が抑えていたから。」
「ありがとう。他に異常は?」
「分からない。私じゃ分からないからあんた見てよ。」
「私は実験装置を一通り調べた。場所がずれただけで異常はなかった。」
「本当にありがとう。助かったよ。」
「あんたのためじゃない。」
 リエは実験装置を見て言った。
「友達が中絶するのを何度も見てきたんだ。一人くらい救いたいよ。」

 ある寒い日の夜、恵美は生まれた。私は用意しておいた洗面器で恵美の体を洗った。リエはその様子をただ座って見ていた。私はリエに言った。
「約束通り、四月まで母親になってほしいんだ。」
 リエは何も言わなかった。
 翌日、リエと恵美を家に残して役所を訪れた。月並みな嘘で、自宅出産になってしまった理由を説明した。二時間待たされた後、担当者との面談が行われた。ここが正念場だった。担当者から必要な書類の説明を受け、その日は帰ることになった。
 家に帰ると、リエが待っていた。
「遊んでくる。お金ちょうだい。」
 私はリエに百万円を渡した。
「少な。」
 そう言ってリエは出て行った。
 次の週、リエと恵美を連れて、再び役所に行った。聞き取り調査が行われた。リエには「はい」しか言わないよう、事前に伝えていた。ほとんどの受け答えを私がした。最後に職員が私に言った。
「それでは、非嫡出子ということで受理致します。籍は柳沢さんの方でよろしいでしょうか。」
 外に出ると日が傾いていた。私たちは何も言わずに駅に向かって歩いた。冷たい風が吹いた。恵美が泣き出した。リエは恵美を見て言った。
「人は泣きながら生まれてくる。阿呆ばかりのこの大舞台にやって来たのが悲しくて。」
「それ、なんだっけ。」
「シェイクスピアも知らないの?」
「物知りなんだね。」
「ばかにしないで。これでも社会学専攻だよ。」
「なんで休学したの。」
「あんたには関係ないでしょ。」
「ごめん。」
「その子渡して。泣いてるじゃない。あんたそれでも人なの?」
 リエは立ち止まって恵美を抱いた。しばらくして恵美は泣きやんだ。
「友達がね、教員のハラスメントで大学辞めちゃったんだ。そいつ、表向きは正義ぶって権力を批判とか言ってるくせに、大学では大そうな権力者だよ。夜の街の男は優しかった。でもやっぱりクズだったよ。でもあんたが一番最低だ。死んだら地獄行きだね。あ、でもこの国より地獄の方がマシか。あんたはこの国でずっと生き続ければいい。」
「帰ろうか。」
「私、大学行くよ。」
 リエは恵美を抱いて言った。
「女の子が少しでも幸せになれる世の中を作りたいんだ。」

 恵美は四月から保育園に入ることができた。リエは大学に通い始めた。私とリエの共同生活は終わった。近くのレストランで、お互いのスマートフォンから連絡先を消した。外に出ると暗くなっていた。レストランから駅に続く道に桜並木が続いている。満開の時期は過ぎて、桜の花が散り始めていた。二人でベビーカーを押しながら、夜の道を歩いた。リエが桜の木を見上げながら言った。
「昔調べたことがあるんだけど、ソメイヨシノって、人が作り出した園芸種なんだって。だから花が咲いても実を結ぶことがない。人のエゴイズムが命をねじ曲げて作った美しさ、それがソメイヨシノなんだ。」
「ああ、接ぎ木で増えるから、全部同じ遺伝子なんだってね。」
「私達みたいだね。」
 リエは恵美に向かって言った。しばらく歩いて、私達は駅に着いた。ここでお別れだ。リエに最後の百万円を渡した。リエは黙って受け取った。
「生活費にするよ。」
 リエは駅の雑踏の中に消えていった。

 何もかもが元に戻った。何も知らない四年生が研究室に配属された。皆も過去のことは忘れてくれた。夕方五時には大学から帰り、保育園で恵美を受け取った。教授には事情を説明し、在宅勤務の時間を増やす許可をもらった。
「子供いたんだっけ。」
「報告が遅れてしまい申し訳ありません。二年前に生まれていまして、今まで親に預かってもらっていたのですが、親も高齢ですので私が育てることにしたのです。」
 事故の件があるので、それ以上聞かれることはなかった。
 恵美が年少クラスに上がった時、周りと上手く馴染めるか不安だったが、保育士さんによるとすぐに友達と仲良くなったようだ。あまり外に出たがらず、よく一人で絵を描いていて、歌う時は誰よりも元気が良かったらしい。恵美が年中クラスに上がった年の秋に、発表会の案内が来たが仕事で行くことができなかった。
 それからしばらくしたある日のこと、恵美は私の机に近寄り、黙って私を見上げた。どうしたのかと聞くと恵美は静かに答えた。
「お父さん、お母さんってどこにいるの?」
 私はしばらく何も言えなかった。恵美は黙って私の返事を待っていた。私は椅子を立って、恵美の前にかがみ、恵美を抱きしめて言った。
「お母さんはね、今遠い所にいるんだ。」
「お母さんに会いたい。」
「いい子にしていたら帰って来てくれるよ。」
「お父さん、なんで泣いてるの。」
 私は立ち上がって、無理に笑って言った。
「ほら、お父さんは忙しいんだ、夕ごはんまでむこうの部屋で遊んでいなさい。」
 小学校に入っても恵美は同級生と上手くつきあった。成績はいつも良かったが、自分から手をあげて発表することはないようだった。私の書斎に入り込んで、手当たり次第に本を開くようになった。画用紙に化学式を書き写すようになったので、私は恵美を美術教室に通わせた。本を与えるとすぐに読んでしまった。絵本の絵をそっくりに写したが、コップの絵を描かせると上手くなかった。美術教室は六年生まで続けた。教室を辞める時に、先生と少しだけ話をした。
「恵美ちゃんは、好きな絵を描いてと言うと困ってしまうようですね。」
「そうですか。」
「個性だけが全てではありません。いい絵をたくせん見せてあげてください。音楽でも文学でも構いません。恵美ちゃんのためになるはずです。」

 恵美は中学校に入ると、友達に誘われるままに吹奏楽部に入って、クラリネットを吹くようになった。始めは学校のものを借りて使っていたが、しばらくして自分の楽器をねだるようになった。いつか、私が早く仕事を終えて家に帰ると、恵美が窓を開けて楽器を吹いていた。ドアを閉める音にも気づかなかったようだ。私は恵美の後に立ち、恵美の吹くクラリネットの低い音が夕日に染まる町の中に吸い込まれていくのを聴いていた。私は恵美の両肩に手を置いた。恵美は楽器を握りしめた。恵美は私の体を振りほどき、何回か息をついてから私の目をまっすぐに見て、ゆっくりほほ笑んだ。
「先輩が音を遠くに届けるようにって。」
「近所の人が怒るぞ。」
「ごめんなさい。私、全然上手く吹けなくて。」
 私は窓を閉めながら言った。
「誰が吹いたって怒るさ。」
 窓を閉めてからも私はしばらくそこに立っていた。窓ガラスに写った私の顔には明らかに老いのきざしが表れていた。はるか遠くの空に重なって見える恵美の姿は若く美しかった。恵美が楽器と譜面台を片付ける頃には、すでに日は沈んでいた。私達は夕食の支度に取りかかった。

 私は恵美に私立の高校を受けることを勧めたが、恵美は近くの公立高校に進学した。恵美は高校に進学してからも、クラリネットを続けると言った。
「飽きないの?」
「研究者に言われたくない。」
「何を言っているんだい。研究者を取り巻く環境は日々変化しているんだよ。」
「私も日々変化しているの。」
 高校生になってからは、時々帰りが遅くなることがあったが、二学期になってからはそのようなことは少なくなった。恵美によると、先輩は優しくしてくれ、友達もいろいろな所に誘ってくれるということだった。毎日を研究室に閉じこもって過ごす私にとって、恵美は私と外界をつなぐただ一つの通路だったのかもしれない。私にとって、恵美の話すことだけが恵美の通う高校の全てだった。
 恵美が一年生の時の演奏会は、学会で行けなかった。恵美がいつまでも許してくれなかったので、演奏会の時の映像を買って、二人で観た。私には音楽が分からない。明るい、暗い、速い、遅い、音がきれい、どこかで聴いたことがある。それくらいの言葉しか出てこない。
「みんな上手いね。」
「適当なこと言わないで。」
 自分の専門外のことについて評価をするのは失敗の元だ。
「一生懸命でいいね。」
「がんばるがんばらないじゃない。私達は音楽をしているんだから。」
 音楽を聴くとはどういうことだろうか。ただ耳に入るだけでは聴くと言わないだろう。実験のデータもそれだけでは意味がない。グラフにして考察することで、初めて価値あるものとなるのだ。
「この曲いいね。好きだよ。」
「演奏を聴いてくれないの?」
 話が一周したことは分かった。手詰まりだ。
「私も、この曲好きだよ。今度お父さんに音源貸してあげるよ。」

 二年生の演奏会の時には、曲が決まってすぐに音源を借りて、通勤する時に聴くようになった。相変わらず音楽は分からない。曲について調べてみた。「オーケストラ用に書かれた曲を吹奏楽用に編曲」と書いてあった。編曲とは。また調べてみた。恵美が演奏する部分は、元々ヴァイオリンが担当をしているらしい。オーケストラの演奏も聴いてみた。吹奏楽の音源より速い演奏だった。
「オーケストラの方が速いの?」
 恵美に聞いてみた。
「何言ってるの。指揮者の解釈の違い。」
「あの腕振ってる人?」
 恵美は顔をしかめた。
「指揮者は楽譜から作曲者の意図を読み取って、実際の音楽にする人のこと。指揮棒を振るのは分かりやすいからやってるだけ。曲と楽器の全部を知っていないとできないからとっても大変なの。紙に書かれた楽譜を命ある音楽にする大切な役割なの。分かった?」
 考えることがまた増えた。確かに同じ曲でも指揮者によって違う。
「誰の指揮がいいんだい?」
「この曲ならネーメ・ヤルヴィかな。ソ連出身だから、作曲者と相性がいいの。」
「ソ連だと何がいいの?」
「作曲者もソ連出身なの。知らなかったの?」
「このショスタコーヴィチっていう人?ロシアっぽい名前だと思ったけど。」
「ソ連の人。ほら見てごらん、一九四七年って書いてあるでしょ。ショスタコーヴィチはロシア革命やドイツとの戦争をテーマにした曲も書いてるの。」
「そうなんだ。もっと明るい人かと思った。」
「ショスタコーヴィチの魅力はその多面性。歴史に翻弄され続けた人生だったから、戦いを描いたかと思えば、皮肉っぽい曲も書いたし、陰鬱な曲も残して、この祝典序曲みたいな明るい曲も書いた。だから、明るい曲だけど、ただ明るいだけじゃだめ。分かった?指揮者は腕を振るだけじゃないし、私も楽譜通りに吹いているだけじゃない。同じ楽譜からでも、一つとして同じ演奏は生まれない。音楽は生きているんだから。」

 演奏会の日が来た。十二月の寒い日だった。建物に入ると、暖房が効いていて一瞬めまいがした。受付で招待券を渡すと、パンフレットとアンケートを渡された。広間では、開演を待つ人達が何やら集まって話していた。出演者の保護者だろうか。高校生の姿も見かけた。一人で来た私はすることもないので、急ぎ足でホールに向かった。前の方の席が空いていたので、そこに座った。パンフレットを開く。部長挨拶、顧問挨拶、曲紹介、部員紹介と続く。クラリネットパートの紹介は最初だった。恵美の写真が写っていた。家では見せることのない笑顔だ。「雑学王恵美」と書いてあった。思わず笑ってしまった。学校でも変わらないのだろう。
 開演のブザーが鳴って、上演中の注意のアナウンスが流れた。幕が下りて、足音が聞こえた。ホールの照明が消える。会場の隅にスポットライトが当たった。制服を着た高校生が立っていた。挨拶が始まった。部長のようだ。挨拶が終わってスポットライトの光が消える。幕が上がると、演奏者が椅子に座っていた。恵美は最前列、左から二番目だ。よく見える。指揮者が入って来た。あの人は、腕を振るだけではなく、楽譜を音楽にする人。雑学王の言葉を思い出す。指揮者がお辞儀をすると拍手が起こった。私もつられて拍手をする。指揮者が演奏者の方を向いて腕を振った。最初に鳴ったのはトランペットだ、恵美ばかりを見ていたので、不意をつかれた。祝典序曲だ。壮大なファンファーレの後に、恵美のクラリネット演奏が始まった。上手いと思う時間もなく一瞬で終わった。あの一瞬のためにどれほど練習したのだろうか。続いて、フルート、サックス、トランペット、再びクラリネット、主役を追いかけるのに必死だった。再び、金管楽器によるファンファーレ。音の熱狂に飲まれて、曲が終わった。自然に拍手が起きた。私も気づいたら拍手をしていた。
 その後も、曲が続いた。第二ステージのテーマは音楽による世界旅行で、ちょっとした劇が曲の間に入った。指揮者も変わっていた。恵美によると、第二ステージでは毎年一年生が劇をするらしい。所々で笑いが起きる。その後に休憩が挟まった。アンケートを取り出して、全ての質問に対し、「とても良かった」に丸をつけた。
 再び開演のブザーが鳴った。幕が上がる。指揮者が入ってくる。パンフレットによると、顧問の先生のようだ。最後のステージは、ホルスト作曲の「吹奏楽のための第一組曲」だ。全員が輝ける曲だと恵美が言っていた。指揮者が腕を上げると、チューバ奏者が立った。重そうだなと思っていたら、指揮者が腕を振った。チューバによる演奏が始まる。厳かな演奏は一瞬で終わり、チューバ奏者がお辞儀をした。拍手が起きた。続いて、トロンボーン奏者が立った。同じように演奏をして、終わったらお辞儀をして座った。その後はしばらく、全員が座ったまま演奏が続いた。続いて、ホルン奏者が立った。その後に、サックス、ユーフォニアムと続く。引退する二年生が、順番に立っているのだと気づいた。恵美の出番はいつだろう。途中から、そればかり考えていた。二曲目で恵美が立った。私は恵美に拍手を送った。
 演奏会が終わって、ホールの外に出ると、出演者が通り道に並んでいた。その中に恵美がいた。
「お父さん、来てくれたんだね。」
「うん、良かったよ。」
「私のソロの後、最後まで拍手してたでしょ。」
「そうだっけ。」
「笑っちゃいそうだった。」
「ごめんね。」
「すぐ謝るの禁止。」
「分かった。」
 恵美は横を見た。
「お父さん、ここ通り道だから、あんまり長く話せないんだ。また後でね。今日はありがとう。」
 外に出ると、風が冷たかった。恵美は夜遅くに帰ってきて、すぐに寝てしまった。

 演奏会が終わってから、恵美は口数が少なくなった。これからは自分の人生を自分で決めなくてはならない。恵美は昔から理科が好きだった。専門的な話をしても最後まで聞いてくれた。研究職に興味があるかを聞いてみたら、あいまいな返事が返って来た。時々、演奏会の思い出を話してくれた。
「人と関わる仕事っていいよね。」
「研究も一人じゃできないさ。」
「そうじゃなくて、もっと、世の中の人と、広くつながっていたい。」
 進路について、何かいろいろ調べているようだったが、何も話してくれなかった。恵美はふと、音大という言葉を口にした。大好きなクラリネットも続けていきたい。しかし、日が長くなるにつれて、そのような情熱も少しずつ薄れていったようだった。ある日、恵美は突然言った。
「私、薬学部受けるよ。」
 私が何を言おうかと迷っている間に、恵美は続けた。
「遺伝子治療の研究がしたいんだ。」
 私のいる大学で進んでいる分野だった。

 恵美の試験対策が始まった。学校から帰ってくると、夜遅くまで勉強をするようになった。時々、恵美に質問されたが、専門から離れると覚えていないことが多かった。休日は恵美と一緒に勉強したが、大学の知識と受験勉強の内容は違うということを思い知らされただけだった。私は恵美を信じるしかなかった。
 ある冬の日、恵美は泣きながら家に帰って来た。恵美の母親のことで教室中に噂が飛び交っているのを聞いたというのだ。
「なんで私にはお母さんがいないの。」
「お母さんはね。事故で死んじゃったのさ。おまえが生まれてすぐにね。いつも前向きな、いい子だったよ。おまえと一緒で。私にはもうおまえしかいないのさ。」
 私は恵美を抱きしめた。それは何よりも美しい罪だった。
「もうどこにも行かないでおくれ。」
 外には雪が降っていた。この広い世界に私と恵美だけが取り残されたようだった。

 恵美の努力を知っていたから、入学試験に受かった時にも私はさして驚かなかった。それが恵美には不満なようだった。入学式の日、私は恵美の横で同僚の長い話を聞いていた。恵美は初めて触れる大学の空気に感動しているようだった。それが恵美を遠くに感じさせた。恵美は時々、私のことを先生と呼ぶようになった。話しにくいからやめてほしいと伝えた。恵美はよく笑うようになった。服装に気を使うようになり、時々、夜遅くに帰ってくることもあった。恵美は女になったのだ。学部も違う。後はあちらの教員が指導してくれるだろう。私にはもう何もやることはない。それからの生活は、恵美にとっては見るもの聞くもの何もかもが新しい青春の日々だった。だが私にとっては、いつもと変わらない、ただ無暗に忙しい日々でしかなかった。
 恵美が二年生になった年の夏、恵美の服の中に、派手な文字が入っているものが一着あることに気づいた。どこで買ったのかを聞いたら、近くの服屋で買ったと言われた。不審に思い、その服屋に行ってみたが、同じ柄の服は売っていなかった。次の休日の朝、恵美はその服を着て化粧をしていた。
「どこに行くんだい。」
「友達の家。」
「その服、似合ってないよ。」
「うるさい。」
「何かを隠していないかい?」
「全部言う必要あるの?」
「おまえは私の。」
「私の何?」
「私の家族なんだ。」
「そう。」
 恵美が出かけてから、恵美の服に書いてある文字を調べてみた。社会の変革を求める政治団体だった。代表者の言葉には次のように書いてあった。「私の友人は、大学のハラスメントで退学を余儀なくされた。私は大学を休学し、夜の街で働くようになった。しかし、そこにあるのは弱者から絞り取る社会の仕組みだった。私達は誰かのために咲く花ではない。自分だけのための花を咲かせよう。」代表者の名前には佳奈と書いてあったが、間違いなくリエだ。恵美の戸籍を作る時に、一回だけ本名を確認したことがある。写真にも昔の面影があった。
 その夜、私は恵美を問いただした。友達に誘われて参加するようになったということだった。私は二度とその団体に関わらないように言った。恵美は反対した。
「あの団体だけはだめだ。」
「どうして。」
「あれは既存の価値観を否定するだけの団体だ。おまえはまだ若いからそういうのに魅力を感じるかもしれない。だが、この街が平和なのも、学校があるのも、欲しい物が買えるのも、どこにでも行けるのも、全て古い体制の中でみんなが働いているからなんだ。」
「全然平和じゃないよ。この社会には今も苦しんでいる人がいっぱいいる。お母さんだって事故で死んじゃったんでしょう?このままでいいと思ってるの?」
「じゃあリエに従ったら平和になるのか?」
「リエって誰?」
――しまった。
 恵美が黙って私を見た。
「あの代表の名前、リエって書いてなかったか。」
「佳奈さんだよ。何を見たの。」
「すまない。古い知り合いに、まったく同じようなことを言っている女がいたんだ。そいつは、被害者のふりをするのが上手くて、自分の気に入らない相手をすぐに悪者に仕立て上げるんだ。リエに騙された男が正義感を振りかざすんだが、結局その男も使い捨てにされていた。だからリエには近づくな。」
「佳奈さんとは違う人でしょ。」
「そうだ。すまない。混乱していた。許してくれ。」
「そのリエさんと何があったの。」
「古い知り合いだよ。」
「お母さんとの関係は。」
「ない。」
「そう。じゃあ別に佳奈さんに会うのは問題ないよね。」
「そこの論点は変わっていない。じゃあその佳奈っていう女に従ったら平和になるのか?」
「やってみないと分からない。」
「国際情勢を見れば分かる。秩序の崩壊は治安の悪化につながるんだ。」
「分かった。お父さん大学側だからそんなこと言うんでしょ。」
「それはおまえも一緒だ。このままいけば、おまえにも幸せな人生が待っているんだ。」
「分かったよ。」
 恵美は斜め下を見ながら言った。
「でもお父さん、私はお父さんのものじゃない。私には私の考えがある。自分の生き方は自分で選ぶ権利がある。大学の先生ならそれくらい分かるよね。」

 恵美は、その団体の服を捨てた。休日になると、どこかへ出かける。どこに行くかを聞いても、友達と遊びに行くとしか答えない。リエが恵美に気づくはずはない。気づいたとしても、言うはずがない。この件に関しては、リエも共犯なのだ。だが、私は不安だった。古い友人に電話をしてみた。電話の向こうで笑い声が聞こえた。
「おまえもいい加減、子離れしろよ。娘さん大学生だろ?勉強しかしない方がよっぽど不安だよ。仮に間違った方に行ってしまっても、大学生なら十分巻き返せる。まあおまえはずっと優等生だったから分からないかもしれないけど、失敗っていうのは若い内にしておく方がいいんだよ。ただ、一線は超えさせるな。それと、何かあって帰ってきたら受け止めてやれ。それだけだ。心配するなよ。おまえと玲子さんの子供だろ?大丈夫だって。」
「そうだな。」
 リエのことなど言えるはずもなかった。もし、恵美が真実を知ってしまったら、私を憎むだろうか。命に関する償いは、命をもってしなくてはならないのだろうか。

 研究室で仕事をしていたら、佐久間君からメールが来た。そういえば、今は薬学研究科だったなと思いながらメールを開いてみた。
『今日、学生実験で柳沢先生のお子さんを見かけました。名字が同じで顔もそっくりなのですぐに分かりましたよ。懐かしくなってメールをしてしまいました。』
 私は心臓が落ちるような感覚に襲われた。落ち着くんだ。すぐに返信をする必要はない。席を立ってコーヒーを淹れた。恵美の年齢を計算すれば、恵美が事故の後に生まれたことは分かってしまうが、学生実験の短時間でそこまでするとは思えない。今必要なのは、これ以上佐久間君に深入りをさせないことだ。
『連絡ありがとう。恵美は世間知らずな所があるんだが、私が言っても聞いてくれないから、そっちでいろいろ教えてあげてほしい。それと、もし恵美に玲子のことを聞かれても、忘れたふりをしてほしいんだ。恵美は強がりな所があるから、気にしていないように見えて玲子のことをずっと気にしていて、一度考え出すと他のことに手がつかなかくなってしまうんだ。よろしく頼むよ。』
 文面を何度も読み直して、コーヒーを一口飲んでからメールを送信した。きっと大丈夫だ。実験室に行き、学生に声をかけて、部屋に戻った。佐久間君からメールが来ていた。
『了解しました。突然失礼しました。』
 短すぎないか。いや、彼は昔から文章が短かった。何かを隠しているわけではないだろう。しかし、油断はできない。
 家に帰ると、恵美が実験のレポートをまとめていた。
「お帰り。遅かったね。」
「うん、ちょっといろいろあって。」
「今日、お父さんの教え子っていう人に会ったよ。」
「誰?」
「佐久間先生っていったかな。」
「佐久間君か。私が助教授の時に学生だったんだ。懐かしいな。」
「お母さんのことも知ってたよ。」
「ああ、お母さんの一個下の学年だった。」
「実はお母さんのこと狙っていたんだって。お父さんには勝てなかったって言ってたよ。」
「また余計なことを。」
「ねえ、お母さんの事故って地震の前?」
「何を言っているんだい。地震の後だよ。地震は恵美が生まれる少し前じゃないか。あの時は大変だったな。」
「そう。」
「なんで。」
「事故の後に地震も起きて、世界が終わるかと思ったって。」
「佐久間君、いや佐久間先生ね、集中力はあるんだけど、いい加減な所があってね。彼に調べてもらったことが明らかにおかしかったことがあるんだけど、絶対に大丈夫ですって言い張るから、信じてそのまま実験したら失敗してね。後で聞いたら、やっぱり違いましたって。」
「事故について調べたけど、昔のことすぎて出てこなかったよ。」
「そりゃあそうだよ。交通事故は毎日起きているんだ。裁判にもならなかったし。」
「事故の原因ってなんだったの。」
「原因不明だよ。もうその話はやめてくれ。」
「もしかして、リエって人、私のお母さん?」
「何を言い出すんだい。」
「そうだよね。私とお母さん、似すぎだって佐久間先生が驚いてたから。」

 それからしばらくして、仕事中に秘書から声をかけられた。
「リエさんという方からお電話が来ていますが、どうしますか?」
「用件は?」
「いえ、それが何も。リエと言えば通じるとだけ。」
「ここにもそういう電話が来るようになったか。困ったものだ。出るよ。」
 私は秘書から電話を受け取った。
「もしもし、ご用件は。」
「私よ、リエよ。覚えてる?」
「さっき出たのは秘書ですよ。今も横にいます。職場に営業の電話をかけられても困ります。かけ直しますのでそちらの連絡先を教えてもらえませんかね。」
「分かった。言うよ。」
 私はメモを取って、黙って電話を切って、秘書に返した。
「何かの営業だったよ。こう言っておけば、もうかかってこないから。覚えておくといい。」
 私は屋上に行って、リエに電話をかけた。
「ひさしぶり。よく分かったな。」
「このあたりの大学で柳沢って名前の研究者を調べたらすぐに出てきたよ。」
「相変わらずだね。急にどうしたんだい。」
「恵美ちゃんが来た。」
「やっぱりか。どこまで話したんだ。」
「全部。」
「なんだって。」
「全部話したよ。あんたのしたこと。」
「なんてことをしてくれたんだ。」
「びっくりしたよ。どうしても私に会いたいっていう学生がいるって言われて、会ってみたら急に、私のお父さんを知っていますかって、あんたの名前を言うんだ。古い知り合いだって言ったら、あなたは私のお母さんですか?私は柳沢恵美ですって。なんて答えていいか分からなかったよ。違うから違うとしか言えなかったんだけど、そうしたら、お母さんのことを知りませんかって。知らないって言っても引き下がらなくてね、私が生まれたのはお母さんが死んだ後なのに、私とお母さんはそっくりだ。お父さんは絶対に何かを隠している。誰に聞いても知らない、覚えていないとしか言ってくれない。佳奈さんが最後の頼みの綱だ。知っているなら何かを教えて欲しいって。私は諦めたよ。この活動を始めたのも、きっかけは恵美ちゃんだったんだから。私の活動の答え合わせは恵美ちゃんにしてもらおうと思ってね。全部話したよ。最初は茫然としていたよ。本当かどうか何度も聞かれたから、本当だって言ったんだ。全部筋が通るよねって。告発してもいいよって言ったら、大丈夫ですって言って帰っていったよ。」
「それはいつの話?」
「一時間くらい前。」
「そうか。」
「あんた気をつけてね。」
「何を。」
「あの子、何をするか分からないよ。」
「誰のせいだよ。」
「全部あんたがやったことでしょ。」
「おまえは何をしたいんだ。」
「物事には順番があるの、まずは恵美ちゃん、次にあんた。許してはいないけど、同情はしている。恵美ちゃんに早く会ってあげなさい。」
 私は電話を切った。足が震えていた。立っているのがやっとだった。しばらくして階段を下りて研究室に戻った。秘書が書類の整理をしていた。
「すまない。ちょっと体調が悪くてね。今日は早く帰っていいかな。」

 私は恵美に電話をかけたが、電話の向こうで着信音が鳴るだけだった。不安な気持ちで家のドアを開けた。恵美はまだ帰って来ていなかった。私は荷物を仕事部屋に置いて、リビングに戻った。椅子に座って、机の上で手を組み、恵美と過ごした日々を思い出した。美術教室、クラリネット、一年生の時の演奏会には行けなかった。二年生の時の演奏会、受験勉強、リエ、リエと過ごした一年間、あの時に見た桜、初めてリエに会った夜、救急車の中の玲子、玲子と過ごした時間、キャンプ、佐久間君も成長した。玲子と一緒にした研究が論文になった日、玲子が研究室に配属された時、玲子に最初に会ったのは、研究室紹介の時だっけ。あの時、確か熱を出したとか言って、次の週に来た。
 ドアの開く音がした。恵美が帰って来たようだ。足音は途中で止まり、金属がこすれる音がした。包丁を持った恵美が入って来た。恵美は立ち止まって私を見た。私も恵美を見た。どれくらいの時間、向かい合っていたのだろう。恵美は包丁を持ったまま、私の向かいに座って私を見た。私も恵美を見た。
「ねえ、本当のことを言って。」
「分かった。」
「玲子さんって、私なの?」
「そうだよ。」
「はっきり言うね。」
「隠しても仕方がないから。」
「私は作り物だったんだね。」
「そうだよ。」
「私ってなんなの。」
「恵美だよ。」
「嘘つけ!玲子さんでしょ!」
「玲子はそんなことは言わない。」
「どうせ玲子さんのことしか考えてなかったんでしょ!私なんかどうでも良かったんでしょ!はっきり言って!」
「初めは、玲子に会いたかっただけなんだ。でも無理だよ。同じ遺伝子を持っていても、同じ人間になれるはずがない。人間とはそういう存在なんだ。」
「じゃあ私なんかいらないんだろ!あんたは玲子さんに会いたかったんだから!」
「日々変化するんだ。私も、おまえも。」
「おまえ呼ばわりしないで!私はあんたのものじゃない!」
「そうだ。君は、君だ。恵美だ。」
「私はどうすればいいの。」
「それを選ぶ権利は君にある。」
「自分の責任から逃げないで。」
「それで刺すのか?私を。」
「あんた次第だ。」
「君次第だよ。」
 恵美は大きなため息をついた。
「私、よく分からないよ。自分がお母さんの身代わりだったなんて急に言われても、気持ちの整理がつかないよ。お父さんすごいね。こんなことできるなんて。誇らしいよ。でもまさか、自分が実験台だったなんて思わなかったよ。」
 恵美は黙った。沈黙が続いた。時計の針の音だけが聞こえた。
「声出したら疲れたよ。お父さん何か飲む?」
 恵美は包丁を持って部屋の外に出て行った。冷蔵庫が開く音がした。コップを二つ持った恵美が戻って来た。
「はい。お茶でいいよね。」
「ありがとう。」
 二人でお茶を飲んだ。冷たかった。
「佳奈さん、夜の街で働いていたって、それだけじゃなかったんだね。」
「そうだよ。」
「よくついて来てくれたね。」
「私も驚いた。四人に逃げられて、リエは五人目だ。」
「人間不信だ!大人ってみんなこうなの?」
「私とリエだけだと思う。」
 恵美は空になったコップを回しながら下を見ていた。無言の時間が続いた。
「ねえ、お母さんって私に似てた?」
「うん。」
「お母さんきれいだった?」
「うん。」
「私より?」
「うん。うんじゃない。同じに決まっているだろ。」
 恵美は笑った。
「お母さんがお父さんのこと好きになったの分かる気がする。」
「返事に困るからやめてくれ。」
「なんて呼ばれてたの?」
「それは言えない。」
「教えて。お母さんに会いたかったんでしょ?言わないと刺すよ。」
「やっくんだよ。」
 恵美はまた笑った。
「かわいい。」
「言わなきゃよかった。」
「やっくん、娘の頼みくらい聞いてあげなさい。それと恵美を困らせちゃだめ。」
「恵美。」
「何よ!せっかく会いに来てあげたのに!私から逃げるつもり?」
「玲子。」
「これじゃあ死んでも死にきれないよ。恵美のことが心配で。やっくんは父親なんだから、しっかりしてあげなくちゃだめ。あと恵美にはもっと好きなことさせてあげなさい。あなたのものじゃないの。」
「ごめん。」
「謝りすぎ。」
「分かった。」
「そんなに私に会いたかったの?」
「会いたかったよ。」
「なんで再婚しなかったの。」
「考えられなかった。」
「あきれた。」
「あきれてくれ。」
「無茶しすぎ。ばれたらどうするつもりだったの。」
「君がいない世界に未練なんてなかったさ。」
「私がそんなこと望むと思った?」
「考えられなかった。」
「そこでなんでそういう発想になるの。でもちょっと嬉しかったよ。そこまでしてくれるなんて。」
「ありがとう。」
「だからこれ以上恵美に迷惑をかけないで。あなたは父親なんだから。」
「分かった。」
「約束だよ。」
「うん。」
「お父さん。」
「恵美。」
「お父さんがお母さんのことを大好きだったの、すごく分かったよ。」
「つらいからやめてくれ。」
「私もつらいの。分かる?」
「ごめん。」
「すぐ謝るの禁止。」
「分かった。」
「私がお母さんの身代わりだったっていうことは分かったよ。でも私はお母さんと違う人生を歩んできたんだから、私はお母さんの代わりにはなれないし、なる気もない。私は恵美だし、お父さんの娘だし、今までの人生は今さら変えられない。全部許してあげるから、このまま生きていこうよ。」
「うん。」
「なんで泣くの。」
「すまなかった。」
「頭なでてあげるよ。」
「何を言い出すんだ。」
「私とお母さんどっちがいい?」
「それは。」
「分かった。お母さんだね。」
「玲子。」
「この幸せ者め。がんばったご褒美だ。帰って来てあげたぞ。」

 三月の終わりに桜が咲いて、恵美とリエと三人で近くの公園に出かけた。リエに会うのは気が進まなかったが、恵美の頼みは断れなかった。駅の改札を出た所にリエが立っていた。恵美がリエに駈け寄る。私はその様子を遠くから眺めていた。
「ほら、早く来なさい。」
 リエに呼ばれた。二人は先に歩いていってしまう。私は、お弁当と水筒の入ったバッグを持って、急いで追いかけた。
 公園は桜が満開だった。いたるところで花見客がシートを拡げていた。風が吹いて桜の花が飛んできた。私達もシートを拡げて座った。恵美が寝転がって桜を見上げて言った。
「きれい。」
 私は水筒を取り出して、お茶を飲んだ。
「何年ぶりかな。三人で桜を見るのは。」
「私、今でも覚えているよ。」
 リエが言った。恵美は起き上がった。
「えっ、そんなことあったの?」
「恵美ちゃんは生まれたばかりだったから覚えていないと思うよ。私達が離れ離れになる時、駅前の道の桜が満開だったんだ。その時、この人に言ったんだ。ソメイヨシノは人が作り出した園芸種だって。でもそんなことを気にしているのは人間だけだった。桜は精いっぱい自分の花を咲かせているだけ。目的は関係ない。今を生きる花は等しく美しい。私達みたいにね。」
「そうだね。」
 恵美はそう言って笑った。

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