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アイドルのいなくなった世界

 朝起きてカーテンを開けて、私の今江くん(うちわ)におはようの挨拶をする。ハンガーにかけたパーカの首部分にうちわを突き刺しただけのもので、公式で裸ハンガーが出てらっしゃる皆様にはおよばない。

 あくまで防犯用という体なものの、その実私を励ますためだけにそこに在るので、ひっかけられている位置は、平均的な男性の身長や、今江くんの身長よりもはるかに低い、窓の鍵の部分である。

 アイドルが世界からいなくなって、2カ月ほど経過しただろうか。

 いやいや、じゃあ今日もジャニウェブを更新している彼らは誰だ。アイランドTVを更新している彼らは誰だ。彼らはまぎれもなく「横尾渉」で「今江大地」で、私の好きな人たちだろう。

 結局、アイドルというのはシュレディンガーの猫だなと思う。ステージに立ち、観客から熱い目線をうけて初めてアイドルはアイドルとなる。おうち時間という、たちまち市民権を得た言葉を過ごす彼らは、まるで箱に入った猫。アイドルでありながらアイドルではないという状態の彼らを見られるのはこの期間だけで、それ自体は大変興味深いものの、私の恋焦がれるアイドルとは何かが違う。

 そう、私の中でアイドルは、あらゆる人の叡智と時間と愛が詰まったステージの上に存在する(そしてそのステージ上にしか存在しえない)、実在する「普通の人間」である彼らに、スポットライトで「アイドル」をプロジェクションマッピングをしたものなのだ。

 おそらく、この意見には反論もあるだろう。アイランドTVを見ても、ジャニWebを見ても、オフの時間だって自己プロデュースを怠らず、それどころか今がチャンスとばかりに様々なアプローチをとるアイドルたちの姿がそこにある。

 その点、私の担当たちはおうち時間を満喫しているタイプだし、アイドル然としていない、人間臭さが売りなタイプだ。

 でも、私は普段は「自分」が前面にでる担当たちが、人に作り上げてもらった「アイドル」を纏って歓声を浴びる姿が好きだ。自分=アイドルの人たちよりも、自分≠アイドルな人達が、ひょんなことから人々に愛されて、アイドルになっている、アイドルをやっている。来世ではアイドルにならなさそう。こういう人たちが好きなのだ。


 ああ、恋しい。現場が発表されたときの興奮、濁流のように動く友人達とのLINEのタイムライン、仕事中もふと来る楽しみを思い出してはにやけてしまう時間、「任せろ」と、服や靴やカバンを私のために買ってくれるクレジットカード。客電が落ちて立ち上がる瞬間の胸の高鳴り、疲れと興奮で箸は持てないのに、スマホの上を滑らかに滑る指。次の日の朝起きたときに、いきなりぽんと、脳内に流れ出す昨日の記憶。

 アイドルはまだか。アイドルにあえる現場はまだか。

 せめて、おうち時間の担当たち、ダンス動画とかを載せてくれないかなあ。担当の全身が見たい。今じゃただ、部屋にかかっているうちわを見るのと変わらないんだもん。

 現場がないと心が動くことが少なくて、文章を書くモチベがなくなってしまうことに気が付いたのでリハビリ。こういうことを常に心の底から思っているわけではないです、少しよぎったりするだけです。

サポートいただけるよう精一杯精進してまいります!ご興味がありましたら…ぜひ!